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最初の30ページくらいはためになるが、残りは過去の話が多く、読み入りにくい。しかし現在にも通じる「大学生像」かと。
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☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
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読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
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[ 参考となる書評 ]
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春の授業がもうすぐ始まるということで、手に取ってみました。
大学生活でなにをどう学ぶべきかというのは本当に迷う課題で、その答えをなんとなく探していた自分にとってはよい本でした。
筆者がとても優しい語り口で読みやすく、また、なにかしなきゃいけない!といった気分にさせるものでもなかった好印象なものです。
この本の取り扱う大学生像は随分昔の物ですが、今にも十分通じるものを感じました。
憧れることの大切さや、ほれこんでこその学問ということ。
具体的な学問をすることの重要性。
秀才である必要はない、誠実であればよいということ。
また、研究する対象はそんなに簡単に見えてくるものでもないから、今目の前にあることに一生懸命になって、いろんな世界をのぞくのも勉強なんだなと感じることができ、具体的な理由もなく感じていた焦り、といったものを少し落ち着かせることができました。
日々、真摯に学問ということに取り組んでいく、残りの大学生活としたいと思いました。
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第1,5,6,7はタイトルにあった内容。
その他は筆者の生い立ちや研究についてであるため、大学全般の話ではない。
時代が異なり、筆者のいう転換期を過ぎた今日において鵜呑みすべき内容ではないが、今日の学生にも伝えるべき本質は述べられている。
なんとなく、まわりに流されて進学するこのご時世、改めて大学に対する意味、自身が学ぶべき学問について再考すべきである。
受験生、大学生は機会があれば読み、気づいてほしい。
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祖父のゼミの先生であったこともあり、読んだ。祖父が他界してから10年以上経つが、尊敬する祖父を知るための助けになったかもしれない。
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近年はあまり五月病といふ言葉を聞きませんが、入社や入学自体を目的として活動してきた人々は、何をやれば良いのか分からず彷徨してゐるのではないでせうか。
やはり入つてから何をしたいといふ強い願望が無い人にとつては、入社や入学がゴールとなり、その後の目的を失ふことは容易に想像が付きます。
『大学でいかに学ぶか』は、新たに大学生となつた人向けに、もう50年近くも前に書かれた書物でございます。実はわたくしが大学生になつた頃に購買したものです。その時分は、割かし真面目に「大学での学問の仕方を学びたい」と思考してゐたのですよ。まあ中には、「いかに学ぶか」なんて大きなお世話だぜと呟く人もゐるでせう。それもごもつともだと思ひますので、さういふ人はご随意に。
書名からして、もう少し説教染みた、末香臭い内容かと思ひましたが、これが中中刺激的で、古びた様子が全くない指摘の連続なのですよ。著者は高名な歴史学者なのに、語り口は穏やかで、まるで中学生に対して講演でもしてゐるやうです。約50年前に書かれたといふ予備知識なしに読めば、まるで現在の事を述べてゐると錯覚しさうなほど、先進的なのですね。教育者として学生を見る目は中中に厳しい。逆に言へば、現代の学生も進化してゐないといふ証左でせうか。
明治以降の日本の学界は、十八世紀・十九世紀の欧州を手本にしてきました。確かに当時は西欧といふのが世界の超先進国で、西欧が世界を引つ張つてゐるとの前提で、何となく世界の約束事が作られていきました。しかしながら二十世紀は新興国の時代であります。古い物差しで測れば無理の出る時代。無理とは摩擦だつたり戦争だつたりします。
日本ではさすがに欧米崇拝の風潮は衰へたとはいへ、まだ我我の生活はその延長線上にあるのではないでせうか。
そんな我我が、古い学説を覆し新たな発見をするのは真に難しいことであります。しかし著者は言ふ。
「大きなダムも、蟻の穴でくずれるとさえいいます。あの大きなマルクス主義の体系もくずれるかもしれません。(中略)ヨーロッパの偉い学者が考えたことは不動の真理だと考える義理もまったくないのです。(中略)自分はここまでしかわからないが、そこまでについては、動かない証拠をあげ、論証ができるというものを見つけていく。それは蟻の穴ほどの小さなことかもしれません。しかし、そういうことをいくつもくり返してやっているうちに、いつかはダムもくずれるかもしれない、そのあとはだれかが築いてくれるであろう。―そうした、自分を捨て石にする気持ちにならないと、学問というものは客観化してきません」(7「現代学問のすすめ」より)
捨て石ですよ、捨て石。刹那的な功名心、名声を得たいと思ふ心は誰しも有るでせうが、そこをあへて捨て石になれと......何と厳しい世界なのでせうか。
ま、わたくしは歳を取り過ぎてゐますので、若い諸君の中から、覚悟を持つた人が出現することを望むものであります。
いやあ、我ながら無責任な発言ですなあ。
http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-547.html
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この著作は「学ぶということ」、「学問への私の歩み」、「現代が背負う二つの課題」、「私の歴史研究」、「苦楽一如」、「対話の学び」、「現代学問のすすめ」の七部から構成されている。著者の増田四朗は1908年生まれの明治期生まれであり、その学者期間中には戦争も経験している。そしてこの著作は昭和四十一年発行のものであり、この時期は高度経済成長期、日本の興隆期であり時代的な大きな転換期であった。この本はタイトル通り、大学でどう学ぶべきかを中心に据えて書かれたものであり筆者である増田四朗の生い立ちやその研究内容及びその成果はその補強として描かれているにすぎず、この本を通じての主張は血肉の通った「コミュニケーションの母体となっていく」大学を目指し、それを通じて「社会に、政治に」それによって生まれた考えを「反映させていく」ことで、現代から見た現代社会のとらえ方を対話を起点として模索していく、その過程にできるだけ寄与すること、である。筆者と同大学に通う自分にとって先輩の活動の記録としても非常に興味を持って読むことができたと思う。
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1966年に書かれた本ですから文体や取り上げられている時事ネタは古いです。
ですが、本書で提起された問題は色あせていません。第1章の「学ぶということ」や、本書の結びとしておかれた第7章「現代学問のすすめ」は現代の大学生(あるいは大学を目指す高校生)はぜひ読んでもらいたい内容ですし、最近大人が子ども叱れていないという自戒を込めた筆者の感慨はすんなりと受け入れられるものでしょう。
あらためて学生の頃、教授に誘われて飲みに連れて行ってもらったことのありがたさ、そういう雰囲気がまだ残っていた地方大学で学べたことの幸運を懐かしく思い出しました。
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880
増田四郎
1908年奈良県に生まれた。東京商大−一橋大学−卒業、同大学教授、同学長を歴任。日本学士院会員。経済学博士。西洋経済史を専攻し、とくに封建社会の構造分析では優れた成果をあげている。『西洋封建社会成立期の研究』『歴史学概論』『都市――その根底にあるもの』『西洋中世世界の成立』などの著書がある。
大学でいかに学ぶか (講談社現代新書)
by 増田四郎
教師もまた、高校までは教科書を教えることが主でした。教科書に書かれてあることの、ことばは悪いですが、いわば一種の押し売りです。しかし、大学の教師は、どんなばあいにも、押し売りは許されません。ただ、長いあいだ研究して、その教師が到達した立場から、自分の一貫した考え方を講義するだけです。それは、その教師が研究しているあることの、一つの考え方をすじみちをつけて述べるだけなのです。つまり、自分の説とはちがった考え方が、ほかにいくらでもありうるという前提のうえに立って講義するわけです。
すぐれた教師というものは、自分の講義が丸暗記されることを望んでいません。教師は、ある前提、あるいはある立場というようなものを論理的に説明します。その講義は、その前提なり立場から、一貫した論理をもってなされます。そのばあい、ある問題はこういうふうに考えなければならない、あるいは、こういう結果になるという立場の一貫性というものが、一例として、そこで講義されているだけのものだ、という受け取り方をしなければならないのです。
講義されていることは、思考の一例が述べられているにすぎないのですから、学生であるあなたがたは、たとえ教師の説とちがっていても、自分で勉強して、自力でエンジンのかかった研究をする糸口を、自分でさがさねばなりません。そうすることが、大学で勉強する、学問をするいちばんたいせつなことだと思うのです。
このようにいうと、それでは、なんでもかでも、教師にたてつく学生がほんものなのか、とあなたはいいたくなるかもしれません。しかしそれは良識のあるひとのいうことではありません。それに、りっぱな教師であれば、そんな反抗のための作文など、たちどころに見破る力をもっております。ほんとうに学問をしている学生と、そうでない学生を見抜く力を備えています。ですから、教師の説くところがあなたに納得できるならば、それを自分の考えとして書くことは、いっこうかまわないし、またそれがそのまま学問したことになるのです。 要するに、あなた自身に納得できるかどうか、教師のいうとおりであるか、ほかにちがった、あるいは反対の考え方もあるのではないか──そういうことをたえず反省しながら講義を聞く。このことが、あなたがたにとっていちばん重要な態度であることを重ねて強調したいと思います。
その練習をしないですむなら、別に講義に出席する必要はないでしょう。講義録で勉強してもいいし、家にいて本を読むだけでもこと足りる。しかし、じっさいに大学の生活をしてみると、つまり、そうした練習をしてみると、本や講義録では、どうしようもないことがあるのです。たとえば、民法なら民法で、いま問題にな��ているのはどういう点か、ということが一方にあり、他方に、経済学なら経済学で、いま問題になっているのはどういう点か、ということがあるとします。この二つは別々の問題のようでありながら、究極のところ現代社会の動向を反映しているという意味で、同じ意味あいをもっている。──こういうばあいがひじょうに多いのです。
現代のような、こうした時代の大きな転換期にあっては、いろいろな学問、特に社会科学の面では、専門科目が細分化されてそれぞれ無関係のように見えるけれども、それらがもっている問題の意味は、ひじょうによく似ているばあいが多いわけです。
しかしまた、高校から大学に進んだばかりのあなたがたの年ごろでは、受験勉強から解放されて、大学の科目以外のことにいろいろと興味をもつことも事実です。いままでは受験勉強に集中してきたために、読みたいもの、知りたいことを、ゆっくり考える暇もなかった。だからこそ、大学生になると、急にいろいろなことに、強い興味をもちます。 いままで、名前だけは知っていても、作品を味読することができなかった、内外の有名な文学書を読みたい、大思想家の著書に取り組みたい。そして、そういう要求のほうが強くて、大学でなにを専攻していいかわからない。そうしたひともまた、ひじょうに多いにちがいありません。
このことについて、率直にわたし自身の経験からいいますと、やはりあなたがたは、まず教養というものを広く身につけてから、じっくりと、自分の力量や性格に合った専門をあとできめる、あるいは、きめるべきときがきたらきめればよい。──こう思うのです。というのも、わたし自身、大学にはいったころ、西洋史をやろうとか、経済史をやろうとか、夢にも思っていませんでした。それがいつのまにか、こうなってしまった。たいへん自覚のないように見えますが、じっさいはなにかをめざして、毎日こつこつやってきたというだけなのです。
その点、いまの若い先生がたは、あまり最初から専門がきまりすぎていて、かえって損をしているのではないかという気が、正直にいって、わたしには強くすることがあるのです。大学にはいったら、小説や詩を読んだり、美術や美術書に親しんだり、哲学の本に頭を突っこんだりというふうに、あっちこっちを歩き回ってみる。それは、一種の精神的遍歴ですが、しかしけっして漫然としたさすらいではありません。ほんとうは必死な気持ちで、自分の力と自分の性格にぴったりしたなにかをさがす。このことがたいせつではないか、ということです。
西洋人は、ものの考え方がひじょうに分析的です。これに対して東洋人は、一般に総合的だといわれます。東洋人は、体系化していくというよりも、「何の何々におけるは、何の何々におけるがごとし」といったふうに、直観的、 比喩 的な論法で象徴化していく。ものごとが象徴化の形で一足とびに理解されていく面が多い。それをそうではなく、論理的に体系づけるにはどうしたらよいか。こういう課題が提出されてきたということが、日本においても自覚されてきていると思うのです。 もうすこし具体的なことで例をあげてみましょう。西洋医学──これは分析法です。これに対して東洋医学は総合的です。生きている生命とい��ものを総合的にとらえるということが前提となっています。 ガンという病気があります。西洋医学では、ガンの専門家は、そのガンそのものを治療することを主にする傾きがある。東洋医学は、それがどういう副作用を起こし、その患者の生命とどうかかわり合うかということを理解して、全生命体として患者を治すにはどうしたらよいかを考えて対処します。
この意味からすれば、西洋は分析的・学問的であり、東洋は総合的、実際的です。ですから、西洋医学を評して、ガン細胞の増殖をくいとめることはできたけれど、くいとめたときには患者の命がなかった、などという笑えぬ笑い話も生まれるわけです。自然科学ではそういう例がたくさんある。したがって、東洋医学の研究が、西洋においても最近盛んになってきています。
このことを裏返しにすれば、さきに述べた、現在わたしたちが学問のうえで当面していることが、あなたがたにもよくおわかりでしょう。つまり、政治のやり方、あるいは経済や文化などの理解のしかたにも、ヨーロッパがつくった体系が、そのままものさしとなり、世界のどこにでもあてはまるという考え方を、わたしたちは一応捨てなければならないのです。東洋…
しかし、にもかかわらず、かれらはベトナム人の心を理解せずに、あるいはわかろうとしないで戦争をし、どろ沼にはまりこんでいます。わたしはここで政治的なことはいいたくありませんが、諸民族の心を知ることのたいせつさは、やはり政治の最大の 要諦 ではないでしょうか。
もともと、わたしは、世間で偉いひとといわれているひとたちの、当たったところが 的 だった、というふうな書きっぷりの自伝を読むのが、おそろしくきらいです。わたしは、人間というものは、そんな偉いひとになるようにきまっているものではないと思うのです。どんなひとでも、みんな迷いに迷っているものだろう、という気がします。ですから、はっきりした方角もわからない道を、手さぐりしながら、あるいは先生・先輩・友だちなどの影響を直接・間接に受けながら、まがりなりにもようやく生きていく。──それがほんとうの人間の姿にちがいないと思うのです。
ところで、わたしの家は、下宿するか寄宿舎にはいって、農学校なり大和郡山の中学校なりに入学することを許してくれません。しぜんわたしは、高等小学校へいって、あとは農業をやるつもりでいました。すると分校の校長先生が、上野の中学校を受けてみろというのです。 そこでわたしは、家へ帰ってねだってみました。父や母は、中学校が受かるはずはないと考えたのでしょう。そんなに校長先生がすすめるのなら、まあ、受けるだけは受けてみなさい、というわけです。ところがどうしたことか、さいわい合格してしまいました。自宅からの通学を条件に受けたのですから、なんとしてでも、家から通学するということで、古いさびついた自転車を買ってもらい、これでかようことになったのです。 尋常小学校を出たばかりで、人一倍小柄であったわたしは、最初は足がとどかず、おとなの自転車に横乗りに乗って、毎日かよい始めました。そして五年間、峠を二つ越えて、雨の日も雪の日もかよったわけですが、いまにして思いますと、この経験が現在のわたしの骨格の基礎をつ��ったような気がしてなりません。それは実にたいへんな労力だったと思うのです。
上野の中学は、わたしより四、五年まえに、作家の横光利一さんが出ておりました。あの寒村の、生徒が十三人しかいない小学校の分校からはいって、五年の通学ののちに中学を卒業したときには、なかなかのおとなになったような気がしましたし、ずいぶんうれしかったわけです。なんといっても、あの地方のいちばん山奥の村で、中学にかよわせてもらえたのは、わたしひとりだったのですから、ひじょうな恩恵だと思って、両親に感謝の気持ちでいっぱいでした。
こうして百姓仕事を手伝っているうちに、わたしは妙なことに気がつきました。こういうことです。 百姓は、自家でものをつくっている。自分でものをつくっている。それなのに、そのつくったものの値段をきめるときは、自分の意志というものはぜんぜん働かないものだ。苦労してマユをつくっても、その値段は、できたときに買いにくる、別の機構と経済情勢できまってしまう。マユばかりではない。他のすべての農産物も同じことだ。生産者の意志にぜんぜんかかわりのないところで値段がきまる。いったい百姓というものはこれでいいのだろうか──。 いまのあなたがたのことばを使えば、〝主体性のないもの、それが百姓だ〟ということを、中学生の頭で痛感したわけです。働いても働いてもらくにならない、 木流にいうと〝じっと手を見る〟です。しかも、なにかちょっとでも思いがけないいい値段がつこうものなら、百姓は、まるでばかみたいにその場で喜ぶだけで、長期の計画というものがまるで立たない。
たとえば、わたしは、村のひとりのおじいさんにたいへんひきつけられた覚えがあります。そんなに金持ちではなく、高等の学校を出たひとでもなかったのに、村会議員にもなっていて、村の世話をし、とてもものわかりがよかった。だれにもやさしかった。おじいさんが発言すると、権力も金もないひとなのに、村のみんなが従う。わたしは、少年の目でそれを見たり感じたりしたわけですが、なんとなく、あのおじいさんは偉いなあと思いました。いわば村の知恵者です。その姿を見て、尊敬せずにいられませんでした。そして、ああいうのが人格者というものだと思い、心のやわらぎを覚え、これはたいへんなことだという気持ちをいだいたりしました。
どうしてもほしいと思いながら、買えない。そういうばあいもあります。しかし、まあしかたがないと思って、しじゅう見にいきます。こうして、本の顔を見ておくという練習が積まれたのは、この神保町の古本屋街のおかげです。あなたがたは、なにかの研究についてのスタンダード=ワーク(基本図書)の顔を見ているかどうか。わたしの知るかぎりでは、いまの学生諸君はあまり見ていないらしい。
わたしどもは、哲学の本とか経済学の本とかがそこにあれば、書物の姿を見ただけで、それがだれのなんという本かすぐわかった。店員さんなどよりもよく知っていた。そして、ほしいほしいと思っている本が、きょうも店頭にあると、まだあったと思って安心する。しかし、ある日のぞいてみると、売れてなくなっている。そうしたときは、まるで自分のものが盗まれてしまったかのように悲観したものです。神田の古本屋というものは、そういったぐあいに、一つの教育の場であり、それほどわたしたちの生活環境に重要な位置を占め、影響を与えたと思います。
もう一つ、わたしに大きな影響を与えたのは、岩波文庫の発刊でした。あれは、たしか昭和二年でしたでしょうか。それはもちろん、わたしだけではない。当時の学生全部に対して、ひじょうに大きな役割を果たしたのです。あれは、だいたい古典的な価値をもったもので、だれがいつ読んでも役に立つ、というのが発行のねらいといわれましたし、ポケットに入れられる大きさ、当時、星一つ十銭で買えたのですから、貧乏学生にも、いわゆる 高嶺 の花ではなかったわけです。
だんだん不景気になってくる時代でした。やがて日本が、満州事変、二・二六事件などを経て日中戦争・太平洋戦争へと突入していく前夜に当たるころです。三月に満州の建国宣言が行なわれ、五月十五日には右翼と軍人とによる犬養首相らの暗殺が行なわれた五・一五事件が起こります。そうした激動の昭和七年、わたしは卒業します。ですから、なかなか職がありません。保険会社の外交員になって大いに威張っていたようなものもいる。そういうような時代でした。まさに〝大学は出たけれど〟みんな失業者といっていいありさまでした。風船玉に重役らしい顔をかいて、それを踏みつけてパーンとやる漫画があった時代です。
学校の成績に優が多かろうと少なかろうと、どうせまともな就職はできない状況でしたから、ある意味では、自分の好きなことをやるのに、いい環境であったともいえます。つまり、学問でもしようかというばあい、ひどく不景気か、あるいはたいへん好景気のときがいいのです。中途半端なときは、心にもないことをして、優をとりたいという気持ちを起こさせますから、どうもよくないようです。
こうして歴史の門口に立ってみると、ここにも困ったことがたくさんありました。いったい西洋史をやるのか、東洋史をやるのか、それとも日本史をやるのか、それがわからないのです。当時の一橋の気風としては、ヨーロッパの学問が圧倒的でした。一橋だけでなく、明治以来、日本の知識というものは、すべて欧化思想が支配的です。西洋へいくか、日本をとるか。どっちを専攻したらよいかわからない。そういう状況でだいぶ悩み続けました。
ソビエトのような一律支配も、またアメリカ合衆国のようにヨーロッパ合衆国をつくるのもいやだ。各国の国民性の特色を生かしながら、しかも、ヨーロッパ以外の地域とは異なる共通の意識を育てたい。そのためには、個々の地域の特殊性と、ヨーロッパ全体としての特殊性はなにかということを反省しなければ、新しい世界情勢に押しつぶされてしまう。コミュニズムであれ、アメリカニズムであれ、ヨーロッパ全体をのみこんでしまい、ヨーロッパがヨーロッパでありえなくなってしまう。だから、生活のいちばん基盤であるところのヨーロッパ的特色をはっきりさせようではないか。──こういう考えが、地域史研究に拍車をかけ、イギリス・ドイツ・フランスなど、どの国においても盛んになってきているのです。
しかし、わたしが企てたのは、さらにさかのぼって、ギリシア・ローマの古典古代社会からヨーロッパの中世へと移��するばあいの、その転換がどういうものであったかを調べることでした。それは、問題関心としては、中世から資本主義社会が生まれてくる状況を見ようとするのと同じです。ただ、別の意味でちがっているのは、ヨーロッパ古代社会の中心が地中海を舞台としているのにひきかえ、中世社会の中心が西ヨーロッパの西北地方であったということです。地理的な移動があった。ですから、資本主義社会というものは、地中海が生んだ社会ではなく、まさに西ヨーロッパを母体として発生したのです。
アメリカやソビエトを国家とよぶ、それと同じ意味において、たとえばルクセンブルクやモナコやスイスを国家とよぶのは、ある意味ではほとんどナンセンスとしか思われません。抽象的に、領土と主権と人民とがあれば国家という定義に合致するというのなら、あるいはみんな国家であるかもしれませんけれども、ソビエトということばは、ユナイテッド=ステイツということばで表わされているのと相似た、別個の意味内容をもっているわけです。
そうしたことを考えて、研究していくうえで方法的にいちばん参考にしなければならないと思うのは、マルクスとマックスウェーバーというふたりの偉い学者のやった仕事です。もちろん、マルクス学者やウェーバー学者の専門家にはわたしはとてもなれませんけれども、その方法だけでも自分なりに受け取って、自分なりに生かしてみたいわけです。 ウェーバーというひとは、どういうふうにして全体を見る方法上の道具立てを考えるべきか、という問題を、社会学的に提起しております。また、マルクスというひとは、社会を、単に時代分けして、自分はこういうふうに見るのだといっているのではなく、現代を考える、あるいは、つぎの時代はどうだという運動の法則を問題にしているのですから、そこにわたしをひきつけるものがあるのです。
勉強するときには、むだな努力がいかに尊いかということを考えなければいけない。すべてがすぐ目に見える効果的な勉強をねらっていたのでは、歴史の勉強はできない。勉強というものは、まことにむだの多いものだ。自然科学でも、三年五年とやって成功しないばあいもあるし、否定的な結果しか出ないばあいもあるのだ。だから、むだのない勉強をするという考えは捨てなさい──。
それから、なによりも強く教えられたのは、書物をたいせつにせよ、ということでした。まえにも書いたことのある話ですが、よい例ですから、むしかえしておきましょう。 さきに述べたように、幸田先生は、講義のさい、材料に使った本を山ほど教室へ運びこまれるくせがありました。ところが、だんだん年をとられたうえに、神経痛になられて、手足が不自由なところから、本のもち運びができなくなりました。そこで、荻窪の先生宅の近くに下宿していたわたしが、講義の日には先生といっしょに本をもち運ぶことになりました。
しかし、ひとの悪口や不平ばかりいっていたのでは、いい社会はできないし、世の中は成り立ちません。家庭においても、団体においても、いい意味の刺激を受け合う状況をつくることがだいじであり、そういう状況のなかで、自分の心の 糧 となるものをハッと感じとる。──そうした気合いのかかった人間関係をつくることが、切実��求められます。そうでなければ、みんなで生きているこの世の中がつまらなくなります。世の中をおもしろいと感じとるのは、金持ちになったり、権力をにぎったりすることではなく、人間関係の妙味を感得することなのです。
どんな山村でも、全体の経営がうまくいっているところでは、青年団とか婦人会とかは余暇を読書会に当てています。文庫本とか新書版などの、いい本が、そこでいくらでも読めます。老人は俳句の会などを開く。
そうすれば、苦難の世紀ではあるけれども、いまに、はじめて西洋とまったく対等の地位に立って東洋を主張できる時期が必ずくるにちがいありません。いままでは植民地化され、東洋は、西洋を先生と仰ぎ見ていたけれども、もうそういう時代ではなくなりました。このことを政治に反映すれば、日本の独立ということを、ほんとうに考えるときがくるのです。精神史的にも、ワビ・サビ・禅ではなく、学問的に日本人の精神の自由をかちとるときがきます。