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『眼の皮膚』の主人公は、五歳の娘を持つ団地の主婦である。物語は、朝、自分の顔を鏡で点検することから始まる。湯気で鏡が曇り、手でこすり、さらにタオルで拭くという描写があり、「目のまわりの薄汚れた隈」に注目し、おもいをこらす。 団地の主婦の一日が描いてあるのだが、ふつふつと小さな物語の芽が湧き出ているが、それが大きく発展することはない。夫は浮気をしているようだが、主人公はさめている。緊張した文体で主人公のいらだった気分を緻密に描いている。
『象のいないサーカス』(別冊潮一九六八年夏季号)は、小学六年生の息子を持つ団地の主婦の心理の揺れを巧みに描いている。息子が汚してきた運動着のひざの部分が切れていることにケンカでもしたのだろうかと思いをはせる。息子が何も説明しないことにいら立ち、なぜもっと早く出さなかったのかときつく言う。今からでは乾かないと。
団地は海軍の弾薬庫跡地にできたという代物で、戦時中、女学生の時に学徒動員で工場で働いたことに思いをはせたりする。散歩がてらサーカス小屋に入ってみたが、気が晴れるどころか、猿の調教師のやり方にかえって不満を募らせる。その不満を紛らすために、「観音道」という道を進もうとしたところ、そこからは行けないとオートバイの男に声をかけられる。「乗って」ということばについ乗ってしまった。男に乳房を触られるというエロチックな場面がその前に突然出てきて、その経過が描かれるという構成だ。このあたりは紛れもなく井上光晴を感じたが、前半の冷めた心理は井上夫人をほうふつさせた。
主人公のいらだった気分と現実と非現実のはざまで揺れ動く心理が、浮遊状態の気分へと読者をいざなう。
私が今回一番感心させられたのは同じ文芸文庫に含まれていた。『海へ行く駅』だった。二人の幼児を連れて家族四人が海へ行く途中、乗換駅でのホームで、時間に
なってもなかなか来ない電車を待っているというありふれた設定で物語は進む。夫婦のやり取り、子どもとのやりとりから、この平凡と思われた家族像が、ひびや隙間、棘があることに読者は徐々に気づかせられていく。
例えば「彼女は良人の指が弄んでいる赤い皮紐のついた爪切りを憎々しい目で見た。いくら端に孔があいているからといって、意味もなく紐を通さなくてもいいだろうに、と思いながら。爪切りは五段つづきの小抽出しに入れることになっているので、紐など必要ないのだ。」といった些細なことから夫が支店長をしているレストランで問題になった出来事に連想が飛ぶといった具合だ。
こうした心理的交錯、すれ違いが、短い会話によって実に的確に表現されているのだ。そしてそれは、一皮むけばどの家族にも当てはまることではないか。普遍性へと広がっていくテーマ。常に読者の想像力を刺激する会話。短篇小説のお手本のような作品だ。初出「別冊潮」一九六八年秋季号。井上光晴四二歳の時の作である。