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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
突然の老衰死のニュースで、レビューを書いています。大江健三郎さんのご冥福をお祈り申し上げます。自分がこの本を読んだのは、かなり、前なのですが、戦争を体験なさった方だからこそ、の書物だというのが第一の印象でした。
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今はもう、戦後ではなくて戦前なのだという話を聞いた。
そういう世界で読む1965年の大江さんの静謐に満ちた、けれどとても力強い文章が隅々まで行き渡る。
『われわれがこの世界の終焉の光景への正当な想像力をもつ時、金井論説委員のいわゆる《被爆者の同士》たることは、すでに任意の選択ではない。われわれには《被爆者の同士》であるよりほかに、正気の人間としての生き様がない。』
何も出来ないと思う前に、一冊本を読むことはできる。
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原爆の悲惨さを伝える本。
著者曰く,原爆の威力の悲惨さは広く知られているが,
落とされた側のその後の悲惨さは十分に知られていない。
物理的なことだけに留まらず,
思想的な部分にも触れられている。
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64年
あの夏の日からの、永い永い時間
ヒロシマを生き延び続けている
「日本人」の名に於いて、
否定的シンボルであるあの日の原爆を、私たちは
世界へ発信することが出来ているだろうか
あの夏の日から
すぐさま活動を開始した医師たちの努力が
原爆そのものの悪の重みに匹敵する為
広島を忘れることも、無知でいることも
私たちには許されないはすだ
最悪の状況に立ち向かい
草の根の活動を続ける人々の存在を
決して見過してはならない
この本が書かれてからもう何十年も経つが
内容は全く色褪せることなく、
戦争を知らない世代にあの日の惨劇を伝えている
これからも読み繋げられるべき本だと思う
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内容(「BOOK」データベースより)
広島の悲劇は過去のものではない。一九六三年夏、現地を訪れた著者の見たものは、十数年後のある日突如として死の宣告をうける被爆者たちの“悲惨と威厳”に満ちた姿であり医師たちの献身であった。著者と広島とのかかわりは深まり、その報告は人々の胸を打つ。平和の思想の人間的基盤を明らかにし、現代という時代に対決する告発の書。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
大江 健三郎 1935年、愛媛県に生まれる。1959年、東京大学文学部フランス文学科卒業。現在、作家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
目次
プロローグ 広島へ
1 広島への最初の旅
2 広島再訪
3 モラリストの広島
4 人間の威厳について
5 屈伏しない人々
6 ひとりの正統的な人間
7 広島へのさまざまな旅
エピローグ 広島から
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[ 内容 ]
広島の悲劇は過去のものではない。
一九六三年夏、現地を訪れた著者の見たものは、十数年後のある日突如として死の宣告をうける被爆者たちの“悲惨と威厳”に満ちた姿であり医師たちの献身であった。
著者と広島とのかかわりは深まり、その報告は人々の胸を打つ。
平和の思想の人間的基盤を明らかにし、現代という時代に対決する告発の書。
[ 目次 ]
プロローグ 広島へ
1 広島への最初の旅
2 広島再訪
3 モラリストの広島
4 人間の威厳について
5 屈伏しない人々
6 ひとりの正統的な人間
7 広島へのさまざまな旅
エピローグ 広島から
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読了。
63年に書かれたこの本は、48年たった今も考えさせられるものがある。
もちろん、原爆ドーム保存すら未決だった当時と今では、全く違う。
実際に被爆した人は確実に少なくなっている。
しかし、この本は被爆二世の苦悩を予見した内容を含む。
今まさにフクシマという形で同じ状況を生もうとしていることに、戦慄と哀しみを感じる。
今日本のみならず、世界が置かれた現状は、66年前の命を賭した犠牲が無駄にされたことに他ならない。
当時まだ、被爆について語る被爆者は少なく、生き延びること自体を忌まわしく思う人々の中、「第九回原水爆世界大会の成功を信じる」と、自らの命を縮めて一言述べた原爆病院の患者宮本定男氏の屈しない人間としての強さに、心が動かされる。
例えそのか細い精一杯の声が平和行進の先導車のスピーカーに掻き消され、行進団の人々の耳に届かなかったとしても。
まだ若い大江健三郎の憤りを感じた本だった。
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(1969.03.13読了)(1969.03.03購入)
(「BOOK」データベースより)
広島の悲劇は過去のものではない。一九六三年夏、現地を訪れた著者の見たものは、十数年後のある日突如として死の宣告をうける被爆者たちの“悲惨と威厳”に満ちた姿であり医師たちの献身であった。著者と広島とのかかわりは深まり、その報告は人々の胸を打つ。平和の思想の人間的基盤を明らかにし、現代という時代に対決する告発の書。
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一時期,文学よりも評論で名前を博した大江健三郎。
その代表作がヒロシマノート。
あまりに印象が強く,大江健三郎の文学には、ノーベル文学賞をもらうだけの作品があるのだろうが影が薄れてしまっているかも。
広島で開催する原爆反対の運動の分裂。
政治的背景よりも、当事者を叙述することによって何かを伝えようとする。
今,福島について語る時なのだろう。
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プロローグで、広島の人が「ヒロシマ」でひとくくりにされることの苦痛の吐露、そして、沈黙する権利がある、とのくだりを常に、心の片隅に置きながら読むべき本だろう。それを意識しないと、大江氏の感情の起伏の激しさに呑まれてしまうからだ。はっきり言って冷静さを欠いていると思う。
しかし、大江氏の優れているのは、たしかな耳と眼をもっていることである。大江氏の洞察は決して深くはない。しかし、事実を探り当て、拾い出し、ありままに記述する、たしかな耳と眼があることは信じられる。
今の時代の若い人には、歴史的、政治的な背景が分からないために、著者の悔しさは伝わりにくいかもしれない。けれども、原水爆禁止運動がたどっている悲劇的な状態を理解するためにも、分からない言葉や団体は、丁寧に調べながら、読むことをオススメする。
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記憶に残るいい作品。うまれる前に書かれたものだが、いまなお、考えさせられる問題を取り扱っている。著者の憤りと、広島人の沈黙と、広島人の真の感情を無視した一般人の感覚などが、うまく浮きぼりになっていて感動的ですらある。ヒロシマを訪れた時、なにか、悲劇の場所とは思えない、むしろ沈黙と、諦めのようなものを感じたが、その理由が、多少なりともつかめたかも知れない。現在の広島は沈黙に風化が付加された形で、少しづつ色褪せていっているのかも知れない。
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この本を理解するのはちょっと難解です。
ですが、私たちがいかに原爆という出来事を
知らなかったか、ということを理解できるでしょう。
どうしてもあのようなものが落ちて来ると
根こそぎ、という印象を抱きますが
そうではなく、それでも体に爆弾を抱えつつも
生きていた人がいたこと…
そう思うとアメリカの言いなりとなった
日本がふがいなく感じます。
さらに言えばこんな絶望的な出来事に
見舞われたのにまたも私たちは
過ちを犯してしまいましたし。
もう繰り返してはいけません。
絶対に、絶対に!!
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経済学の授業をとっていた時の課題本。
広島原発での人々の心情や広島のその時の動きが詳細に記載されている。
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最初の2章くらいが面白くなくて、“これがそんなに話題作か~”って感じで匙を投げかけたけど、そこでぐっとこらえて読み進めると、後半になるにつれてより入れ込める感じになってきた。原爆のことを考える機会も久しぶりに持てた気がするし、そういう意味でも意義深い時間を過ごせました。
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書店で見かけて版を重ねている本だと知り、今年はこの本を読もうと図書館で借りた。
作家の大江健三郎が、1963年夏から数年間にわたり、広島を訪問した際の出来事や心象をまとめたもの。
広島を旅行した際、ここはどんな地獄絵図だったのだろうか、とおそろしくなってしまったことがあった。
それは漠然とした想像だったけれど、『はだしのゲン』やこの本で、少し形を持った。
被爆者としての死ではなく、個人としての死をのぞむという考え方には、これまで気づかなかった。
広島の地に芽吹いた植物の破壊された細胞を目の当たりにしたエピソードでは、福島の原発事故を思い出した。
知る必要があるけれど、おそろしい・知らないままでいたい、と思ってしまった。