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名士層の確率の説明
孝廉、僻召、徴召といった制度の説明
曹魏:曹操は漢王朝簒奪のために儒教の相対化を図り、新たな価値観として文学を重視。曹丕は名士層を代表する荀彧の後を継ぐ陳羣とのせめぎ合いの中で、九品官人法により儒教的価値観を制度内に抱え込むことになる。
蜀漢:劉備集団ははじめ義兄弟的な個人的情義に基づき名士を軽視していたが、荊州名士閥に属する諸葛亮を登用することで名士層の支持を取り付ける。ただし、その後も関羽張飛の重用は変わらず。益州入り後、蜀漢政権は荊州層がトップに立ちながら地元益州層との融和を図り政権を運営。調整力に欠ける姜維の指導で政権は分裂していく。
孫呉:孫堅ははじめ情義軍事集団として台頭、孫策は江東名士層と対立したが、孫権の代で融和を図る。魯粛の画した天下三分の計によって江南に政権確立後、江南を一天下とする小中華思想によって正統性を主張し後の六朝に続く地位を築いた。
西晋:曹魏を襲った司馬氏は、司馬懿が名士層を代弁することで支持を確立。また司馬炎より後は婚姻する家を名族に限定する身分的内婚制と、五等爵制によって名士層を皇帝が秩序づける政策により、名士層を皇帝を頂点とする貴族制度を築き上げ名士層を取り込み相対化した。