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私もタバコをやめた時筆者と同じような思いをしたことがあります。それまで感じなかった、草木の香りや食べ物の味のこれまでとの違い、空気や雨の香りまで感じられるようになったのには驚いた。
様々なことが敏感に感じられるようになったように思えた。
でも私は酒はもう40年以上飲んでるが、やめられない。確かにやめて得るものも多いと思うが、嫌なことを忘れられたり、普段言えないことを言えたり、やれないことをやれたり、夢見たりもお酒の力で出来たりする。お酒の友達は必要だ。私の人生には必要なのできっと私はやめないだろう。
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うーん、文体に癖があり、非常に読み辛かった…
自分を平均以下のアホと思う=酒なんて飲んでるうちはアホと考える、と捉えて、この本はおしまい。
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町田康は比較的面白い小説を書く人らしいと言った程度の認識で、氏の書いた小説はひとつも読んだことがない。
新聞の書評に大酒飲みがある日突然断酒をしたそしてそのご一滴も飲んでいないということを知った。書評では老いていく自分を冷静にみようとして断酒したように書いてあったが読んでみると確かにそうとも読めるが、なぜ禁酒するにいたったかのいろいろな思考の変遷が書いてあった。
要するに飲酒による快楽とは一種の逃避行動であり、それは本当に悲しみや不安から逃げているのではなくほっかむりをしている状態だということで、ほっかむりはいつか脱がないといけない。ならほっかむりはないことにしようというそういう話だった。常にしらふでいると頭もスッキリ、体型もほっそり、仕事のかっきりといいことずくめ。出費も抑えられ家計もバッチリといいことづくめのようである。
これにならってみようかなと思う。
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大伴旅人は大酒飲みだった。酒を讃むる歌十三首。
酒の楽しみは、人生の資産ではなく、負債そのもの。
マイナスのほうが大きい。
物事には、プラスとマイナスの面がある。酒はマイナス面のようが大きい。楽しみの本質は、酔い、であって数時間で消える。残らないので負債だけが残る。
嫌酒剤は、割が合わない。楽しみがないのに苦しみだけがある。
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人はどうせ死ぬ
ならば、毎日を少しでも楽しむのが生きる甲斐というもので
そのために人は酒をたしなむのだ
あらゆる酒害を顧みたとて、人はどうせ死ぬのだから
飲酒は別に悪いことではない
いやむしろ正しいことであるはずだ
それなのに、ホワイ?
そんな正当性にも背を向けて
なぜこの人は飲酒をやめてしまったの?
「しらふで生きる」はそれについて記した本である
それはいいがしかし
断酒の観念的ロジックに溺れるあまり
発心の動機をどこかに置き去りにしてしまった印象は強い
そりゃ、町田康の熱心な読者なら想像はつくだろう
犬や猫を残しての早死にを思うのが、きっと辛いんだ
でもだからといってもちろん
誰もがその前提を共有できるわけじゃないし
何事にもモチベーションというものは重要なのだ
救いを求めてこの本に手を伸ばす人もいるであろうことを思うと
動機をきちんと書かないのは片手落ち、怠慢、あるいは吝嗇ではないか
そんな気がする
とはいえ
動機を他者に依存することは
ある意味では責任の押し付けともなるわけだ
アルコールに依存する弱い心
すなわち自分の問題を
愛という言葉にすり替えて他者に背負わせるなど
あってはならないことだ
そう考えると、観念的ロジックに限定した記述は
むしろ潔いとも思える
かように、断酒とは倫理的な営みなのであった
結局、ストイシズムに酔ってるようでもあり
まあ…モノに溺れない人には馬鹿みたいな話かもしれないが
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30年間、毎日浴びるほどに酒を呑み、騒いではトラブルなどを起こし、しかし、それが本望と信じていた作家が突然に酒をやめた顛末について書かれた本です。
元々、くどくどと屁理屈をこね続ける、と言うのが芸で、それが面白く、哀れで、カッコ良く、かっこ悪くという作家ですから、もちろん、酒をやめた理由についてもくどくどと屁理屈をこね続けております。
作家はどういう心境で酒をやめようと思い、やめた後、どういう心境の変化が訪れたのか、落語のように可笑しい文体で、しかし克明に綴られています。
酒についての話はやがて幸福についての話に及び、ついには人生についての話に至ります。
考えてみれば、アルコール依存の人は人生を何年も酒に乗っ取られているようなものですから、人生の話になるのは当然のことかもしれません。
酒を止めることが出来た心境が、森の本棚①で紹介した「ダイエット幻想」で言及された結論に似ているのが興味深いことです。
つまり「他人と比べるのをやめましょう」「瑞々しい感性を取り戻しましょう」ということです。
実は当院の診察室でも良く、俎上に載せられるテーマであります。
現代の苦しみは様々な場面で共通しているのでしょう。
この本を読めばみんなお酒をやめられる、とは思いませんが、断酒によって良い変化が訪れた事例がいくつも書かれている事が非常に前向きに感じました。
酒をやめましょう、と言うと「もう人生は終わりだ」「なんの楽しみもない」と絶望する方が多いですが、主治医も家族も別にいじめたいと思っているわけはなく、辛苦を味合わせようとしているわけでもありません。
断酒のあとに訪れる、瑞々しい感性と健康を取り戻してほしいのです。
実際、断酒を苦行のように、捉えている方よりもやめてすぐに「楽になった」「これはいい」と感じられた方の方がやめられている確率が高いように思います。
断酒というのは、本来前向きなことです。
と、深刻に話すのも気恥ずかしくなるほど可笑しい本なので気楽に手にとって見てください。
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よくある断酒のノウハウ本だと思ってたら大間違い?ではなくて、ふざけながらのもっと深い心構え論とでも言いましょうか。確かにいつも「今日は大変だったから、少しくらい良い気分になっても良いではないか」と思ってる自分がいますが、「そもそも自分はそんな人間じゃない」「苦労して当たり前」と思っていれば、確かにご褒美論は無くなりますよね。それから、飲まない日の翌日は調子が良いのは事実。自分も考え直さなければ。
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p165
人、酒を飲む
酒、酒を飲む
酒、人を飲む
p219
酒を飲むと賢い人が阿呆になる。そして、阿呆はもっと阿呆になる。
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本の半分を過ぎた位から具体的な話になってサクサク読めた。正直前半の焦らすような文章は好きではないw
町田康=酒乱なイメージがあったので、どういう心境の変化が起きたのか知れて面白かった。
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ちょうど今入院していて、お酒はこれから飲めないかなー、というタイミングで読了。
病気になったからではなく、自発的にやめた思考回路が面白い。他の人の頭のなかを覗けた気分になる一冊。
が、真似できるかというと無理かなあ。これもまた、自分は自分、他人は他人だから。
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大酒飲みだった町田康がお酒をやめた話。久しぶりに、読んで良かった!!と思える本だった。
まず「酒をやめるのは狂気」と言っているところがいい。そうだよな!飲みたいもんな〜!
前半は抽象的な話が多いけど、「人は幸せになる権利があると思っているが可能性があるだけで別に権利はないし、幸せというのもずっと続く状態じゃなくて一瞬一瞬のもの、幸せと不幸は大体割合的にトントン」というのは目から鱗だった。
自分が大したことないと思うことで解放されるものが確かにあるし、「もう自分は飲まないでいられる!」じゃなくて、「私は酒の前に無力だ」と思うようにする、という依存症治療の精神にも通じるものがあると思う。
断酒のメリットで挙げられていたものの中でも「脳髄がいい感じになる」は本当にそうで、これまでやたら低かった怒りの沸点が高くなったし、落ち着いて自分と向き合うことができるようになった。
毎日3,000円分の酒を飲んでいた町田康の言葉だからやたら説得力がある。
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断酒ノウハウではなく優れた人生論、処世論。あちこち話が飛んでイラッとするが、深い考察を軽い笑いに包んで優しく示してくれる。禁煙にも通じます。それにしても人生の目的地が楽しみではなく「死」だったとは。それなら「ゆっくり」道草楽しみながら、行かなくちゃ。
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町田康はやはり面白い。文章が、なんというか奇天烈。読んでいて心地よい。断酒始めたろうかしらと思ってしまった。
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相変わらず話があちらによちよちこちらによちよち、どこで息継ぎすればいいのやらと、でもなんか読んじゃう町田節。
半分くらいまで「結局どないやねんぐだぐだ言わず呑まんかいほれ」と口に徳利刺したくなる感じだけど、実際禁酒し続けてすごい。私は妊娠出産母乳が終わった途端元通りになってしまったのに…。
頭がスッキリ(脳髄がええ感じ)してお金も貯まって痩せる、お酒やめた人がみんなが言ってる通りのことになって、「酒を飲むと賢い人は阿呆になる。阿呆な人はもっと阿呆になる」という結論。
ですよね〜。知ってる〜。とか言いながら私もこれを機に禁酒してみようかしらと思う程度には影響された。
いいからはやくギケイキの続きを描いてほしい。
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●→引用
●酒を飲むと楽しい、この楽しみが資産である。しかし人生において楽しみだけがあるということはなく、楽しみにはそれに見合った苦しみが必ず伴なう。この苦しみが負債ということになる。
●飲酒者が飲酒に至る過程を、1.自分は幸福である権利を有している。2.ところが不当にこれを奪われた。3.そこで、自分はそもそも有していた幸福である権利を行使することができる、
●幸福はそれ単体で存在しない。幸福はいつも不幸とともに存在する。不幸の裏打ちがあって初めて幸福は幸福たり得るのであって、不幸がなければ幸福もない。
●つまり苦楽は均衡するということである。
●不満があれば人は酔いによってこれを解消しようとする。酔うのは簡単である。人は酔いやすい。酒に酔い、他人に酔い、自分に酔う。酔えば一時的な満足が得られる。しかしそれはかならずや後に不満足をもたらす。その不満足を酔いによって解消する。さすればまた不満足が生まれる。その不満足を酔いで解消する…、といった具合で切りがない。そこでこれをあらためるためには、さしあたり不満をなくすのがもっともよい。そもそも不満が生じるのは自分が此の世で正当に遇されていない、と考えるからであるがそれがそもそも誤りであり、その誤りを知ること、乃ち、自己認識を改めることによって、現在の不満は消える。しかしそれは虚無に陥る認識である危険性があるが、そうした自己認識を持って眺める世界には、これまで聞こえなかった音や見えなかった景色があり、そのよさを識ることは自己のよさを識ることでもありそれによって私たちは虚無からも不満からも身を遠ざけることができ、そのことによって酒をやめることができる。→そもそも不満だからを飲むのか。たしかにそいうこともある。しかし、どちらかといえば、自分の場合、暇だから飲むと思う。暇であることが不満なのか。
●これらのことを総合すると、呪術としての正月には、もはやなんの意味も意義もない、ということになる。ということはどういうことか。つまり非常時でもなんでもない、ごくありふれた、普段となんらかわるところのないただの日、といことになる。ということは。そう。別に正月が酒を飲む理由にならない。そして。人生というものは特に楽しいものではないので、酒を飲んで無理に楽しくする必要もないし、楽しくしないと世に後れを取るということもない。というか、逆にそんなこともわからないで、欺瞞の楽しみに現を抜かしていると、そのツケの支払に後日苦しむことになる。以上の如くに正月の認識を改めて、私は正月の間、酒を飲まないでいるべく努力した。もちろん飲みたいという気持ちがそれで消えるわけではない。しかし、いったんそういう風に思うと、飲むための理屈、飲むための道理、飲むための大義名分というものが消える。人間はなにをするにもそうした大義名分、道理のようなものが必要である。
●文章を書くことは、原材料を加工して製品にして出荷するようなものである。しかし、原材料の、錫や銅やコバルトといったものはかなり脳髄の山奥にある場合が多い。そして工場と港もそこそこの距離があり、その途中には険しい山脈や大河が横たわっている。文章を書くのが上手な人というのは、この遠く隔たった鉱山と工場と港の間に道路を切り開き、鉄道を敷設している人で、文章を書くのが下手な人というのは、細く険しい道しか持たぬ人である。よって上手な人は貨車やトラックで高速かつ大量に文章を運ぶことができるが、下手な人は牛や馬で、甚だしい場合は自ら肩に担いで少しずつしか運ぶことができないし、途中で山賊に殺されたりする。文章をまったく書けなくなった人というのは、飲酒という自然災害によってその道路が途絶し、製品(文章)を作ること、出荷することができなくなった人で、そういう人が、まるでヤケクソになった独裁者ののように自国民(登場人物)を殺しまくるというのは右に述べて通りである。
●「渇いているからといって(銭で購える)幸福をがぶ飲みすると、その後がもっと苦しくなる故ほどほどにしておけ」