紙の本
論文です
2020/01/25 14:29
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投稿者:肋骨痛男 - この投稿者のレビュー一覧を見る
時系列に各章がそれぞれの作品に対応するようになっていますが、ファンブックのような趣はないのでそれを期待してると肩透かしを食らうかもしれません。
根拠に基づいた分析・批評に重きが置かれている中で、よくまとまっていて門外漢の読者にも楽しめるものになっています。
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宮崎駿のことは全く知識がなかったので面白かった。
海外の人の心もこうやって掴んでいるのすごい。
ナウシカの漫画を読みたくなりました
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【感想】
多くの日本人の例に洩れず、私も宮崎作品が大好きだ。
どこが好きなのかというと、美しい世界観の中に形容しがたい物悲しさが潜んでいるところである。
もののけ姫では、ラストシーンの後アシタカとサンは別離し、別々の道を歩むことを約束する。また、千と千尋では、両親を取り戻し元の世界に戻ることができたものの、その代償としてハクとの別れを経験する。要するに単純なハッピーエンドではなく、どこか尾を引く悲しさがあるのだ。
不気味な雰囲気と、宮崎が描く水彩画のような綺麗な世界とのギャップが、しみじみとした味わいをもたらす。それは脳にガツンと来る衝撃ではなく、むしろ、心の奥底までじわじわとしみわたり、年月が経つにつれ愛おしさがより膨らんでいくような静かな感動だ。
筆者のスーザン・ネイピアも、そんな宮崎作品の奥深さに魅了された人物である。彼女は米タフツ大学修辞学・日本研究コース教授であり、アニメーションと日本文化を専門とする研究者だ。
スーザンは本書において、ミヤザキワールドの根幹を成す複雑な世界観は、監督自身の「闇と光」から形成されていると述べている。
宮崎作品における「闇と光」の1つに、ディストピア的な世界観とユートピア的な世界観の混在がある。例えばナウシカ。ナウシカの世界は最終戦争後に地球全体に汚染物質がばら撒かれ、大地が「腐海」に覆われているというポストアポカリプスであるが、その中には自然や風とともに人々が暮らす「風の谷」があり、小規模のユートピアが存在している。
より分かりやすいのは天空の城ラピュタだ。空中に浮かぶラピュタは明らかにユートピア世界を暗示しているが、その城塞都市が滅びたのは疫病が理由であり、ムスカはこの文明を復活させて世界を征服することを目的としていた。
こうした「闇と光」が交互に誕生し混じり合う理由として、――ミヤザキワールドを単純化するにはいささか無理が伴うが――スーザンは「宮崎の生い立ちにルーツがある」とする。
母親の病気、戦時中ではあるが裕福に育った自分への葛藤と周囲への贖罪、そして戦後→高度経済成長→バブル崩壊という時代を経験している彼は、テクノロジーや環境破壊が引き起こす問題点を深刻に受け止め、それを自身の映画の軸にしているのだ。
千と千尋は、そうした「物質文化にどっぷり漬かっている日本へのプロテスト」を多く盛り込んでいる作品だ。食べ物をあるだけむさぼりブタ化してしまった両親、汚れ切った川の神、金の力で欲しい物を望むがままにしようとする怪物などを登場させ、産業化が生み出した歪みへの鋭い批判を展開している。宮崎はかつて「世の中が全部コンクリート化されて」いると憤然していたが、そうした彼の作品の多くに、自然への回帰と昔日へのノスタルジーが投影されているのは偶然ではないだろう。
以上が内容のおおまかな要約だ。実際の本は、「カリオストロ」「ナウシカ」「漫画版ナウシカ」「ラピュタ」「トトロ」「魔女」「紅の豚」「もののけ」「千と千尋」「ハウル」「ポニョ」「風立ちぬ」と、各作品ごとに章を設けて、込められたメッセージを徹底分析している。
ここまで深く「宮崎駿論」を、しかも作品だけではなく監督自身の生い立ちや思想にまで踏み込んで語られたものは貴重だろう。400ページ超の大ボリュームで、かつ学術的要素が含まれているため難しい部分もあるが、宮崎ファンであれば短く感じるに違いない。
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【まとめ】
1 ミヤザキワールドの構成要素
宮崎駿の芸術は、闇と光の両面から生じたものだ。闇の側に属するのは母親の病気と、戦時中に幼少期を過ごし、終戦直後に思春期を迎えるという極限状態での体験が含まれている。太平洋戦争が始まった年に生まれ、戦火で荒廃した日本で育った宮崎が、テクノロジーや環境破壊が引き起こす大惨事に敏感であることは驚くに当たらない。宮崎には、世界を破滅に導く出来事はカタルシスや浄化をもたらすと想像するような一面があるのだ。
宮崎はハリウッドの映画監督がよくやるように、平面的な悪役を登場させることはめったになく、闇と光が混在してせめぎ合う世界を映し出そうとする。
ミヤザキワールドには呪いがたくさん登場する。腕を呪いに包まれたアシタカ、豚の顔をしたマルコ、湯婆婆の奴隷であるハク。また、環境問題を暗に示唆する人物たち(ナウシカの王蟲、千と千尋の川の神)も多く登場する。
監督による「略奪される自然」の描写は、多くの場合、戦後日本のなりふり構わぬ工業化による環境破壊の具体例に基づいている。環境的・文化的災害に関する宮崎のビジョンは、日本人のアミニズム的な文化意識から生まれたものといえるだろう。
世界の終末、力強い女性主人公、現実にいそうな子どもたち、失われゆく世界への挽歌やユートピア的なビジョンといった各要素を、一つの壮大な物語に織り込むのがミヤザキワールドである。
2 宮崎のルーツ
宮崎の原点は、周りが戦争に喘ぐ中、軍需産業との関わりから利益を得て不自由なく暮らしたことにある。戦時下において宇都宮の別荘で充実した生活を送った罪悪感と、助けを求めてきた女性と子供を、父親が見捨てたことへの憤りなどが含まれている。
宮崎は自身の幼少期を振り返って「面白かった思い出はない」「生まれて申し訳なかったという思いが強かった」と述べている。母親が病に伏し、家父長制が強く残る伝統家族で、10歳にして家の家事を全てこなしていた宮崎。放蕩癖のある父親のことは嫌いだったとも公言する一方、母親とも政治的信条の違いからしばしば対立していた。
「『おまえら、親に食い殺されるな』と言う作品を世に送り出したい」と語っていたことから、その軋轢は相当なものだったといえよう。
高校時代、受験地獄にどっぷり浸かり、家庭内の問題に打ちのめされていた時期に出会ったのが「白蛇伝」というアニメ映画だった。白蛇伝と出会ったときの衝撃を、「心を揺さぶられて、振り出した雪の道をよろめきながら家へ帰った。彼女たち(ヒロイン)のひたむきさに較べ、自分のぶざまな有様が情けなくて、ひと晩炬燵にうずくまって涙を流した」と語っている。その漫画的表現の純粋さと無垢と美しさは、やがて彼をアニメ作家の道へと導いていくことになる。
3 高畑との出会い
東映動画(現東映アニメーション)で宮崎は高畑と出会う。入社したての下っ端の立場で早くも頭角を現していた宮崎は、最後まで高畑の悩みの聞き手となり、アニメに関するアドバイスを行っていく。大塚は当時の状況を「高畑さんは宮崎さんという才能をぎりぎりまで引き出した」と語っているが、当の宮崎は高畑の功績を高く評価する一方で、「オオナマケモノの子孫」と呼ぶほど彼の仕事の遅さに苛立ちを示している。高畑のスローペースぶりは、のちのち、二人の関係に楔を打ち込むことになるのだが。
ガリバーとホルスには、宮崎ワールドの暗黒面の様子を認めることができる。多くの宮崎作品で展開されることになるディストピア的な世界観だ。一方で高畑と宮崎の作品では、決まって人間性が必ず最後に息を吹き返す。人間と自然との関わりから生まれるユートピア的な世界観だ。この2つの世界観がミヤザキワールドの光と闇を成している。
4 カリオストロの城
宮崎はルパン三世ファンクラブの会報に、「映画のルパンは漫画の派手好きなプレイボーイとはまるで違うキャラクターになる」と宣言している。事実、ルパンの行動原理は金・宝石・女といった表彰的なものではなく、むしろ富や虚飾に対して軽蔑をしている。
カリオストロの城には、宮崎のアニメ監督としての最大の強み――上下の動きを特徴とする極めて印象的なアクションシーンを想像する能力――がふんだんに取り入れられている。彼はその後の作品でも主に空中展開するアクションを通じて、才能を存分に発揮している。
5 ナウシカ
ナウシカにおいて宮崎駿は、まだ模索中のアニミズム的な世界観に基づき、過激で破壊的なところさえある視点で未来の地球を書き出すことにより、現実とは全く異なる世界を構築した。ナウシカ製作のきっかけとなった出来事には、1950年代から60年代にかけて日本が直面した一連の環境危機があった。
6 ラピュタ
ナウシカで様々な困難と激務を経験した宮崎は、違ったタイプの映画を作りたいと考えていた。彼が夢見ていたのは、楽しんで見てもらえるような昔ながらの少年の冒険を創造することであり、彼はそれを天空の城ラピュタで実現することになる。
宮崎は、自分の作品の主人公である子供には自立心や精神的強さが必要だと主張している。その背景には自身の両親に対する葛藤の現れがある。
映画の結末に近い部分は、もはや環境問題に関する挑発的なメッセージを組み込んだ寓話の様相を呈し、人類がテクノロジーや大自然とどう向き合うかという、巨大で同時代的なテーマを予想外なやり方で私たちに突きつけている。
城が最後に飛び立っていくシーンは、 SFとファンタジーが合わさった世界観の中で、人類が果たして世界の一部であることに値するのかという疑問を呈している。
7 トトロ
となりのトトロは、おそらく宮崎のどの作品よりも明快な形で強く心に響く、牧歌的ユートピアの世界観を提示している。より深いレベルでは喪失、悲しみ、そして回復や償いの必要性といったトラウマをめぐる問題を探求することにも取り組んでいる。
こうした問題意識は、宮崎自身の幼年期において、結核と闘病中の母親が一時的に不在だったこという喪失感と、日本の近代化が生んだ普遍的な喪失感の両方から生まれたものである。
子供達はこの映画のユーモアや怖いもの見たさを誘う雰囲気、それにファンタジー特有の様々な生き物たちに夢中になった一方で、年上の観客たちの多くは、ほろ苦いノスタルジアというレンズを通してトトロを見た。本作は多くの観客に、個人の幼年期における忘れられた世界だけでなく、日本文化における失われた過去の世界を追体験させたのである。
現実世界のトラウマに魔法的な解決策で対処することを選んだ宮崎の決断は、この映画の重要なメッセージの一つを明確に示している。それは、自然と想像力の力を信じれば、自らの枠を超えて日常的なトラウマを克服する力を獲得できるというものだ。
8 魔女の宅急便
魔女が公開されたのは、日本におけるバブル期の最後の年で、宮崎は、この作品を自分がますます軽蔑するようになっていた物質主義的な消費者文化と関連付けている。キキの勤勉さや誠実さや忍耐力は、快楽主義的なこの時代の文化と対照をなしている。
トトロが、ある意味での死の恐怖を描いた映画だとすれば、魔女の宅急便は、変化への恐怖を描いた物語と見ることができる。この恐怖は、子どもが大人に成長するときに生じる「失われた幼年期」に対するある種の喪失感から生じるものだろう。そうした瞬間に対して大人が感じるノスタルジアが映画の複雑な底流を成しており、強い感情を引き起こすのだ。
9 もののけ姫
もののけ姫には複雑なテーマ性がある。環境の破壊的変化、テクノロジーと戦争の役割、そして人間と人間以外の種の交流などだ。
本作品で一番印象深いのはエボシの存在だ。エボシを通じて描かれているのは卓越したリーダー像であり、強靭な性格と知性を有し、自らの使命に徹しているだけでなく、驚くべき寛大さを示し、必要とあらば妥協さえ辞さない強さを備えた人物像である。
そして、エボシは女性だ。宮崎は多数の作品のなかで強力な女性キャラクターを多数登場させており、これまでと違った視点で世界を見るように観客を促した。
宮崎は映画の中で、人間と自然のどちらか一方の側に立とうとはしない。むしろ、画面上でどんな変化でも起こすことができるアニメ媒体だけに表現可能なやり方で、自然と超自然と人間が交錯し、依存し合っている革新的な世界観を提示している。
10 千と千尋
宮崎は美しく、感動的で、見事なまでに独創的な映画――千と千尋の神隠しを生み出した。それは同時に途方もなく奇抜で、グロテスクで、心をかき乱す作品であった。
千尋の両親が変身するシーンは実に恐ろしく、恐怖を煽るために巧みな演出が施されている。それは「私的なアポカリプス」だ。私的なアポカリプスはミヤザキワールドではおなじみの表現であり、例えば『トトロ』では母親が入院中であり、また『魔女』ではキキが両親から離れて一人暮らしをしなくてはならなかった。
宮崎には、千と千尋に込めたいメッセージがあった。物質文化にどっぷり漬かっていた日本へのアンチテーゼであり、金と産業化が生み出した歪みへの批判だ。
宮崎は「世の中が全部コンクリート化されて」いることに憤然としている。千と千尋で最も印象的なキャラクターのうち2人が、実はどちらも川の神だったのは決して偶然ではない。
また、カオナシという性格や形がコロコロ変わる怪物は、日本の若い世代に蔓延している疎外感の象徴である。
ジブリ作品で数多登場する「食べ物」が、本作では現代社会の行き過ぎた消費主義を批評するための悪の象徴として描かれているのも特徴的だ。