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結局、ロラン・バルト生誕100年の催しとは、100年前に生まれて35年前に亡くなった過去の理論家バルとを再発見することではなかった。現在もなお影響をあたえて、新たな作品を生み出す力でありつづけている作家バルトの、「未来への遺産」を確認することなのである。
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母子家庭で育ったバルトは、威圧的なものを嫌った。作者の解釈こそ正当であるという威圧的、一義的な解釈方法を嫌い、言葉が持つ権力を憎み、言葉が持つ生きる希望を愛していた。少数者にスポットを当て、世の中の歪みを見極める。そのような一つの理念のもとに生きていた。日本の俳句に対する論考は日本人が読んでもハッと気づかされるもの。
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バルトの著作の内容についてではなくバルトそのものの生涯について書かれてた。
『批評と真実』を読んだときさっぱり分からなかった部分が何故そういう風になっていたのかが分かってスッキリした。
それぞれの内容よりは文脈が紹介されていて、他の人間の分もこういうやつを読んでおきたい。
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ロラン・バルトの考えを理解するために読んだが、論文を書く背景はわかったが中身そのものはわからなかった。
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権威が嫌い。また、日本との出会いがいかに重要であったか。繊細な人物である印象を受けた。
・バルトは作品への向き合い方には三つの方法があると語る。読書と文学の科学と批評である。読書は作品を愛し、作品を欲することであり、作品以外の言葉で作品を語るのを拒むこと。文学の科学とは、作品のひとつの意味ではなく、意味の複数性自体を対象とする。批評はひとつの意味を生み出し、その責任を引き受ける。批評をするとは作品ではなく自分自身の言語を欲すること。
・「話し言葉は威嚇である」
・威圧的なただひとつの意味に抵抗するための新しい方法。意味の複数性とは異なるもう一つの可能性、すなわち(俳句にあるような)意味の中断であった。
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バルトの生涯を、作品とともに詳説する。ただ重きを置いているのは作品の内容よりも、バルトが何に触れ、バルトの身に何が起こり、そしてバルトが何を感じたかという方に置かれている。最愛の母が亡くなった後のバルトの描写は、悲壮感もあった。
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大学時代、バルトはフランスの作家で1番好きな存在だった。あれから20年たってもなお強烈な輝きを保っていることに素直に驚く。バルトの優しさ、人間味が現代性を帯びて何十年も愛され続ける、という近未来を、学生時代には全く想像さえしていなかった。本棚に眠る明るい部屋と、彼自身によるバルトからまずは久しぶりに読んでみようと思う。
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ロラン・バルトの生涯と思想について解説している評伝です。
バルトの生い立ちから、記号学への傾倒へと向かったバルトの修業時代につづいて、日本の俳句に「意味の複数性」ではなく「意味の中断」を見いだし、彼の思索が新たな表現を獲得したことが論じられています。さらに晩年の彼が手掛けようとしていた小説「新たな生」についても、コレージュ・ド・フランスの講義録を参照しながら紹介をおこなっています。
ときおりバルトの解説書のなかに、バルトのスタイルに感染したような文章でつづられたものを目にすることがあるのですが、本書は入門書にふさわしいスタイルで書かれており、バルトの仕事について一通りのことを知るためには有益な本だと思います。
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非常にわかりやすい文章で、ロラン・バルトの人生と作品を追っている。
惜しむらくは、バルトの翻訳作の案内が全て網羅されておらず、著者による読書案内がないのは残念であるが、その点を除けば、ロマン・バルトへの愛を感じさせる、彼の網羅的な案内となっている。
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【はじめに】
30年ほど前の学生時代、見栄と背伸びもあって流行のフランス現代思想の本を読んでいた。ドゥルーズとデリダはさっぱり理解できなかったが、ロラン・バルトは何とか読めるという印象だったので主な著作はある程度網羅している。本棚を確認すると、『零度のエクリチュール』、『神話作用』、『モードの体系』、『S/Z―バルザック『サラジーヌ』の構造分析』、『表徴の帝国』、『テクストの快楽』、『彼自身によるロラン・バルト』、『恋愛のディスクール・断章』、『物語の構造分析』があるので、有名どころは押さえていると言っても許してもらえるのではないか。
でも、その内容はたぶんちっとも頭に入っていない。バルトが出てくるローラン・ビネの小説『言語の七番目の機能』を読んだことをきっかけにバルトのことを思い出そうとしたのだが、本の題名は出てくるのだけれど、どういうものだったかさっぱり説明できない。ということで、生誕100年の2015年に刊行されたロラン・バルトの生い立ちから母の死、自身の事故死までの人生を描いた本書を手に取った。
著者の石川美子さんは、2005年に全10巻の『ロラン・バルト著作集』の監修を行い、『零度のエクリチュール』、『記号の国』(旧『表徴の帝国』)、『ロラン・バルトによるロラン・バルト』(旧『彼自身によるロラン・バルト』)などの再翻訳をしている。明治学院大学文学部フランス文学科の名誉教授で、バルト研究の第一人者としての地位を築かれた方と言ってもよいのだと思う。本書は、その一級のロラン・バルト研究家による新書で一般向けに書かれたロラン・バルトの伝記的解説書である。
【概要】
本書では、ロラン・バルトの生涯が年代ごとに分けられ、時間軸に沿って解説される。
・1915年~1946年
結核にかかりサナトリウムで都合四年間療養したこと、幼少期から作家となる以前のバルトが紹介されている。
・1946年~1956年
ブカレストやアレクサンドリア大学で講師を経てパリに戻り、1953年バルトを一躍有名にした『零度のエクリチュール』で作家デビューした経緯が概説される。後に『現代社会の神話』(邦題『神話作用』)にまとめられる「今月の小さな神話」の連載をしていたのもこの時期である。
・1956年~1967年
1957年に『現代社会の神話』を刊行。そこでソシュール言語学と出会い、「記号学」を構想する。モード雑誌の言説を分析した『モードの体系』でコノテーションの概念を提示。
「作者の死」を宣言する批評を開始。「読者の誕生は、「作者」の死であがなわれなければならない」と。
・1967年~1973年
日本に講演旅行し、「日本」に出会う。文楽や俳句の形式性に心酔。『記号の国』(旧邦題『表徴の帝国』)に結実。
バルザックの小品『サラジーヌ』を細かいレクシに分解して「コード」や「コノテーション」といったツールを使って解釈した『S/Z』を刊行。
・1973年~1977年
1973年の『テクストの快楽』の刊行。テル・ケル派を支持し、フィリップ・ソレルスとジュリア・クリステヴァの夫妻らとの交流を深める。
断章形式にこだわり、『彼自身によるロラン・バルト』、『恋愛のディスクール・断章』などを刊行する。
そして、1977年にコレージュ・ド・フランスの教授となる。大出世である。
・1977年~1980年
1977年母アンリエットを失う。「喪の日記」を二年間にわたり書き続けるなど、かなり失意にあったとのこと。
写真論『明るい部屋』の刊行や、小説を書き始める。
そして、1980年2月25日コレージュ・ド・フランスの前の道で大型トラックにはねられる事故に遭い、約1か月後に息を引き取る。
本書の中では死後どのようにバルトが扱われてきたかについても触れられている。
【所感】
伝記的な観点では、過不足ないしっかりとまとまった内容だと評価してよいのだと思う。
バルトが決して学問的には順風満帆ではなく、結核の療養によって何年かの空白もあり、さらには当初は学者ですらなかったというのは意外であった。また、同性愛者であることは知っていたが、母アンリエッタへの愛着は、外から見ると俗にいうとマザコンともとれるような精神的な依存関係があったこともまた驚きである。バルトの作品からはそういった身体性を含んだ情緒的なものが消されているように感じていたからである。
バルトの著作に関して、著者は「難解な理論や用語さえも、彼が語ると明快でわかりやすいものとなった」と書いているが、それは実体としては賛成できない。『神話作用』を読み返したが、当時のフランス社会のコンテキストに大きく依存し、またその表現も技巧に頼りすぎている感があり、決して明快でもなくわかりやすくもない。端的には芸達者な人だったのだなと思う。本人はそれを否定するのだろうけれども、時流に乗った人ではなかったか。そういう観点からの読み直しも必要なのかもしれない。その過程で新しい価値が掬いとられるような気がする。その意味で、バルトのテクストは作者の死をもってバルトの手から離れて、われわれに委ねられているのである。
バルトの事故死は、ローラン・ビネのドタバタ風刺小説『言語の七番目の機能』で取り上げられたが、バルトがこれを読んだらどのように反応するのだろうか。
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『言語の七番目の機能』(ローラン・ビネ)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4488016766
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「作者の死」を言った人、くらいの認識しかなかったバルトの全体像を初めて読んだ。何よりも面白かったのは、バルト自身が、誰よりも「作者」であることにこだわって、作者の言葉を大事にした人であったということがよく分かる伝記だったことだ。作家や哲学者、評論家といった文章を書いた人たちを理解するのに、有名な文言や本だけを切り抜くことが、いかに間違っているかを、つくづく感じた読書だった。
特に一番印象的だったのは、やっぱり第四章のII節に出てくる「作者の回帰」の部分。読者の読みを重視して、テクスト論を唱えた印象とは異なり、バルト自身は、生身の「作者」の存在と大切にする人だった。
「「テクスト」の快楽は、作者の友好的な回帰ももたらす。回帰する作者とはもちろん、制度(文学や哲学の歴史と教育、教会の言説など)によって認められた人物ではない。伝記の主人公でもない。[……]それは、ひとりの個人(戸籍や精神にかかわるもの)ではなく、ひとつの身体なのである。」
バルトは、文学者や権威的な批評家による、「作者の伝記的事実に依拠する実証的な」批評を批判した。ただ、そこで批判されているのは、大学や文壇といった制度が生み出した一つの作家像の存在である。決して、「ひとつの身体」を持った生身の「作者」の存在を否定したわけではない。
そして、生身の「作者」というのは、常に、ひとつの解釈に収斂することがない、複数性を持ったものなのだとバルトは言う。だからこそ、のちに、バルトは、自分がもし「作者」だったらひとつの作家像に縛られない様々な自分を見出してほしいと言う。
「もしわたしが作家であり、死んだとしたら、友好的で気楽な伝記作家の配慮によって、わたしの生涯がいくつかの細部に、いくつかの好みに、いくつかの変化に、つまりいくつかの「伝記素」だけにしてもらえたら、どれほどうれしいことだろう。」
作家の書いた言葉自体を大切にして、テクストとして読むこと。それが、書いた作者に対する最大の敬意なのだと思った。
バルトの名前は知っているけれども、一度もちゃんと勉強したことはない人たちの入門書として、すごくいい一冊だと思う。