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[ 内容 ]
不良とは何だろうか。
世間から社会的な劣等者ないしは犯罪者予備軍というレッテルを貼られる存在でありながら、一方で息の詰まりそうな管理社会に風穴をあけるトリックスター的存在。
かつてこの両義性によって不良精神が輝いてみえる時代もあったが、それもいまはノスタルジーとして語られるのみである。
恐るべき若者たちに対する近代国家の管理と保護の動向を鳥瞰しつつ、トリュフォーの映画や戦後日本のマンガ・劇画に登場する不良少年たちの反抗と運命を共感をもって描くもうひとつの若者文化論。
[ 目次 ]
第1章 恐怖から管理へ―若者は、恐怖の対象であった
第2章 管理の科学
第3章 「不良少年」の誕生
第4章 不良少年から非行少年へ―「不良少年」の戦後史
第5章 大人は判ってくれない―映画のなかの不良少年
第6章 ジャンルとしての「不良少年」―マンガのなかの不良少年
第7章 不良という文化
終章 反学校文化のゆくえ
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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「不良少年」「非行少年」とそれを生み出した近代社会について、系譜学的な観点から考察をおこなった本です。
まずは、近代に入って学校体制の「規格化」が進んだ結果、それに適応できない「異常」な子どもという概念が生まれたというフーコー的な考察から、本書の議論は始まります。その一方で、社会の体勢に反逆するというロマン的なイメージが形成されていったことについても触れられています。
均質化し明確な階級格差のなくなった現代の社会において学校文化の中で居場所のない子どもたちが、ますます追い詰められていることにまで説き及んでいます。
F・トリュフォーの映画『大人は判ってくれない』や、日本のマンガ史における不良少年像を追いかけています議論は、それなりに興味深く読みましたが、歴史的・系譜学的な観点からも、現状分析という観点からも、やや中途半端な議論にとどまっているような印象を持ちました。
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(*01)
私が学生だった1980-1990年代にも不良は流行った。
本書は不良の流行について、近代の教育、法律、階級から(*02)説き起こしており、不良が制度からはみ出してきた様子を綴っている。
一方で映画や漫画、雑誌記事のイメージに現れた不良も分析しており、メディアに乗った偶像化に流行の一端を見ている。
文化人類学におけるトリックスター(*03)に不良を見立てる事も有効と思われるが、「ダチ」への民俗的な追及によって不良の原型を描くところまでは筆が及んでいない。
また、かつての家庭がアジールであった事を重視しているが、近代とともに現れた公共的な空間、公園、公道、学校、少年院が不良の舞台となっていた点について、アジールからの言及が必要かと思われる。もちろん不良を保護更生する民間施設としての街場についても、大衆文化に現れたイメージによる分析も可能だろう。
(*02)
優生学やダーウィニズムから不良が現れてくる様はほほえましい。不良と非行の違いについて、不良が先天的な性質ではなく、行動と後天的形質から解釈するように社会が変化したというのもある。
(*03)
昭和末期の不良がなぜ学ランのコスプレにこだわったのかについては色々な要因が考えられるが、本書に紹介された大正期の記事は参考になるだろう。ミリタリーにしてもツナギにしてもジャージにしても、不良のコスチュームには、ある制度的な服飾(制服)がマイナーチェンジされバージョンとして変装しつつ着こなされるところに、先の公園や公道という近代の制度による空間をやや変奏して使いこなす振る舞いとの共通を見る。つまり、トリックスターは、異界ではなく周縁から現われなくてはならない。
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フーコーを下敷きとした日本の不良少年のディスコースをたどるが記述は至極退屈。ただ、最後の次の指摘だけが本書の眼目。「近代社会は、家の自立性を奪い、家が持っていた様々な機能を国家が担うことで、家族を市民社会に同化(社会化)させるに至った。近代的家族は、国家制度の末端に位置し、学校ともども子供を管理する装置となった」。かつて家が持っていた宗教性(不可侵性)が喪われ、家がメンバーの避難所ではなくなり、幼児期から競争関係だけが強いられるというのは、如何なものか。ややナイーブに過ぎはしないか。
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社会的貧困の「不良」をアメリカのティーンエイジャーから「太陽族」「暴走族」に至るまで60〜80年代の若者論として読み直し、主にアルチュセールにおける学校-家族社会における対抗として読み直す。中間領域としての「漂流」の意味を考えさせられる本。