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10.09.17購入 10.09.23読了
「日本語をもって思索する哲学者よ、生まれいでよ。」といふ和辻哲郎の言葉に応へ、「もの」と「こと」といふ言葉を頼りに、西洋の言葉に依る存在論(ハイデガー)を超える試み。なかなかの力作である。
和辻哲郎が持つてゐた問題意識は、長谷川氏の解説によれば、次のやうなものだつた。
「ここに氏が言おうとしているのは、そうした「学問的用語」と「日常語」とが切りはなされており、「日常語は大体として取残されてゐる」ということなのである。和辻氏はそういう状況をさして、そのような「学問的用語」は「根をきり離してゐる」言葉であり、日常語のように「Tiefe〔深奥〕から出る根の上に立つ」「底力」を欠いている、と評する。そして、そういう「底力」のない学問的用語によって哲学が学ばれるときには、たしかに正確な学問の受容は行われるであろうが、それは「その外国語自身の持つてゐる発展の力を含んでゐないと共に、又それ自身に発展する力を持つては居らぬ」と氏はいうのである。(23~24頁)」
ものを考へるには言葉が欠かせない。哲学も文学の一種だとすれば、他の芸術と同じやうに、作る前から何が出来るかが分つてゐる訳ではない。だからこそ、書く。書くと、思ひがけないものができる。それが創作といふ作業だ。翻訳語には、母語の持つ豊かさが無い。それだけ驚きも少ない。
日本で学問的用語と日常語が切りはなされてゐるといふのは、日本が文化の辺境にあり、先端的な文化を輸入に頼つて来た歴史を持つからだらう。これは明治に始まつたことではなく、日本といふ国ができて以来の事情だ。この問題点に気付き始めたといふのは、学問の分野でも日本が先進国になつて来たといふことだらう。
この本の前半で、長谷川氏は、和辻哲郎の二つの論文「日本語と哲学の問題」、「日本語に於ける存在の理解」を取上げ、日本語による哲学の可能性を具体例によつて示さうとする。和辻がデカルトの Cogito, ergo sum. を「私が思ふ、だから私がある」と訳して、「思ふ」といふ日常語と cogito といふ学術語の差を示さうとしたのは、「我思ふ」をデカルトがもともとフランス語で書いたことを考へると、「いささかトンチンカン」だが、「私」といふ日本語が社会を前提としてゐることから、ハイデッガーの Mitsein に言及するのは、「豊かな水脈を掘りあて」たのだ、と言ふ。
後半では、「もの」と「こと」といふ日本語が、西欧哲学の中心的課題である存在論に、新たな視点を提供することが示される。個人的には、この部分が一番興味深かつた。「もの」と「こと」については、大野晋氏の有名な論があるが、長谷川氏はこれを批判的に取上げ、一歩先に進まうとする。結論だけを抜き出せば、かうだ。
「ここに至ってわれわれは、ようやく、日本語において「もの」と「こと」とが一組の対をなしている、ということの意味に思いいたる。大野氏や荒木(博之)氏が、「もの」は原理的、「こと」は時間的、という区別をしていたのは、あらためて評すれば、まったく不正確な区別だったのであって、本当のところは、「もの」も「こと」も、どちらも「時間的」なのである。ただ、「こと」が時の到来し出現する、その「つぎつぎになりゆく」側面に目を向けているのに対して、「もの」は、出で来ったものが過ぎ去ってゆく、その後姿を眺めやっている。さらには、それらが「いづくにか」去りゆく、その「いづくにか」のかなたを見やっている。これら二つの、どちらが欠けても、われわれの世界観は完成しない。われわれは「もの」と「こと」という二つの語をもつことによって、この世界を、事物と事象という二つのジャンルに分けて眺めることができるのと同時に、この世界の生成と消滅との両側面を二つながらに凝視することができるのである。(232頁)」
長谷川氏は、この日本語の示す結論をハイデッガーの『存在と時間』と比べて論じてゐるが、ベルクソンの『創造的進化』あたりと比べるのも面白いのではないだらうか。
ちなみに、「あとがき」によれば、この「もの」と「こと」に関する部分は、亡くなつたご主人長谷川西涯氏の「相続遺産」なのださうだ。
長谷川三千子氏の本を読むのは初めてだが、内容は面白い部分が多いものの、書きぶりには違和感を感じた部分もある。一言で言へば、「偉さう」なのだ。まあ、男社会の中で頑張つてゐる女性の大変さを思へば、多少の威勢の良さは大目に見るべきかも知れないが。
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和辻は、日本語をもって思索する哲学者よ、生まれいでよとっていた。
和辻は西洋近代哲学の出発点ともいえるべきデカルトの言葉を学問用語として切りそろえられた翻訳語によって訳すのではなく反省以前の部分をたっぷりと含む底力のある日本語で訳すことによって、そこに会えて誤差をしょうじさせようとしているのである。その誤差が一対どこから飛び出してくるのか、和辻自身も予想のつかないまま、氏はこの実験のうちに飛び込んでゆく。
デカルト自身がまさに、ラテン語の思考、学問語の思考を日常語の思考によってひっくり返し、それによって哲学の黄金時代をもたらした先駆者なのであった。
言葉には意味の中心といった部分が確かにあって、その部分は言葉がうつろいゆくなかでも、変わることなく残り続ける。
言葉というものはいわば本質的に普遍で原理的で規範的なものという側面をもっている。いくら言語のはたらきが動的なものとしてとらえていても、またいくら語るということが一回的な行為であるにしても、言葉それ自体のもつ普遍性が消えさることはないのである。
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和辻哲郎による問題提起に始まり、パルメニデス、デカルト、ヘーゲル、ハイデッガーによる「存在」への問いを概観しつつ、万葉集を引用しての上代の日本語、漢字の由来にまで議論が及ぶ。哲学と、歴史と、ことばと。面白くて、美しくて、ためになる。西洋哲学の入門書のような価値があると同時に、ことばというものの知的でロマンティックな部分に深く触れることができた価値ある一冊。「あとがき」が『歴史的仮名遣ひ』で書かれているのも印象的。
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人は考えるとき、必ず何語であれ、どれかの言葉で考える。そして、言葉が概念を切り取る。そのため、考えるとき、自分の言語の影響を受ける。西洋の言葉で考えられてきた哲学を日本語でとらえ直そうという和辻氏の言葉を受けてかかれてもの。特に、「存在」と「存在者」の関係を、「もの」「こと」という日本人が昔から自然に使ってきた言葉を見つめ直している。
万葉集などの和歌までさかのぼり、「もの」には無のかげがちらついている、例えば、 物悲しいとか、という見つめ直しが面白かった。
ただ、人の考えの批評が多く、もうひとつ踏み込んで議論してほしかった。
未完という意味で「日本語の哲学へ」なのだろう。
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和辻哲郎が「日本語の哲学」を目指したことを受け、その思い、チャレンジの経緯を探りながら、デカルト、パルミニデス、ハイデッガーといった哲学者たちと「日本語」をもって切りむすぶ、知的バトルが繰りかえされる。
最後、万葉集という日本の先祖が使ってきた「言葉」、「もの」、「こと」の奥の深さの探求があり、日本語をもってする日本人の「知の希求」の道が将来もっと、もっと開かれていることを期待したい。
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日本語の哲学について考えさせられた本。全体として和辻氏の論文を中心にして、その間で論考が行われているように読める。
全体として、面白い。スリリングといっても良いような内容。哲学をするうえでは言語というのは非常に重要であるという事を再認識させてもらった。
入門書ではないが、哲学の本としては面白く、お勧めだと思う。
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かつて、西洋哲学の巨人達は自分の「母語」に無自覚であったために心理追求の隘路に陥ってしまった。西洋哲学のテーマである「存在」の解明にはギリシア系の言語やヘブライ系の言語よりも、「漢字を日本語化」した日本語で解明した方がよい。時に哲学の概論というよりも哲学そのものになってしまって、訳が判らなくなる部分もあったが、理詰めで読み解かれるテーマはとてもスリリング。
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【目次】
1. 日本語と哲学
2. デカルトに挑む
3. 「ある」の難関
4. ハイデッガーと和辻哲郎
5. 「もの」の意味
6. 「こと」の意味
【概要】
物事をどのように理解するかは、言葉の形によって左右される。
「存在とは何か」という哲学の根本命題を日本語で思索する場合にも、西洋哲学の用語を翻訳して理解しただけでは不十分であり、まずは日本語自体のもつ「わかり」の形を明らかにしなくてはならない。
そうした道具立てをしっかりとした上で、日本語の哲学が始まる。
【感想】
結局、「もの」と「こと」との根本義について、筆者の見解を述べただけで終わる、中途半端な内容。
物事が次々に生じては消えていく時間の流れの中で、「こと」は「つぎつぎになりゆく」側面に目を向けたものであり、「もの」が出で来たものが去り行く後ろ姿を眺めている、という解釈は、それなりに納得できるものではある。
(もっとも、著書の中で解説されている、大野晋および荒木博之の、「こと」は時間的に変化する出来事や行為をさし、「もの」は時間的に不変な物事をさす、という解釈の方が素直な気もするけど。)
でも、そのように解釈をすることで、著書の中心課題である「あるということはどういうことか」についてどのような知見が得られるのか、何ら説明がない。
それは、新しい日本語論ではあっても、日本語の哲学とは呼べないと思う。
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和辻哲郎の『続日本精神史研究』に収められている「日本語と哲学」という論考を手がかりにしながら、日本語という観点に立つことで西洋から輸入された哲学的な思索がどのような新たな眺望が得られることになるのかを考察している本です。
前半は、デカルトやヘーゲルらの思想と、それに対して和辻がどのように切り結ぼうとしているのかを明らかにしながら、少しずつ著者自身の問題意識が明らかにされていきます。後半になると、日本語の「もの」と「こと」をめぐる著者自身の思索が展開されます。とくに著者は、「もの」ということばに「無のかげ」が差し入っていることと、「こと」ということばによってその内容が区切られ、際立たされていることに鋭い考察のメスを入れています。さらにこうした著者自身の洞察が、存在の呼び声に聴従し、言葉を「存在の家」と規定した後期ハイデガーの思索に接近していることにも目を向けつつ、「もの」と「こと」を交差させることに「日本語の哲学」の可能性を見ようとしています。
静謐な文体と強靭な哲学的思索があいまって、深い印象を残す内容になっていると感じました。
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大学の課題のために読んだ。そうでなければパルメニデスの「哲学詩」のところで挫折して読み切れなかっただろう。哲学の「難関(アポリア)」に立ち向かう際においての日本語と西洋語の違いを考察するという内容。ただ私の思想には反していた。
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引用→ https://twitter.com/lumciningnbdurw/status/1308730967209566208?s=21
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和辻とハイデガー、さらにデカルトとヘーゲルの思想を理解する助けになる。文章は読みやすく潔い。第4章までが勉強になる。第5章と第6章は、西洋語でなかなか捉えきれないものが日本語ではできる、ということが丁寧に説かれていて面白いが、だからどうなのか?とも思ってしまう。本居宣長同様、“だから日本はすごい”という気持ちが文章に滲み出ているので、そこはちょっと引いてしまう。