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善し悪しは別として、靖国神社を戦没者追悼の中心的施設と思う感情が遺族のあいだに戦後も色濃く存続していて、そこからの突き上げがあってこそ厚生省も動いたというのが真相に近いのではないか。そういう民衆的基般皿なしには、いかに美山要蔵らが策謀をめぐらしたところで、大きな力になりえなかったのではないだろうか。
I「謀略史観」と「せっかく史観」
私は前著で「謀略史観」と「せっかく史観」という造語を提示した。
靖国派と反靖国派の対立は、つまるところ戦後史をどう見るかの対立に集約される。靖国派が戦後の靖国神社のあり方を憂え、何とかしたいと考えるとき、つねに目障りでならないのは、反靖団派が持ち出す「政教分離」の形式論である。それに対する彼らの苛立ちを、前者で書いてみせたとおりに再現すると、次のような言説になる。
「靖国神社問題と言えば、いつも決まって持ち出されてくるのが政教分離規定がどうのこうのという憲法論ですよね。靖国神社は民間の宗教法人だ、国家が特定宗教を優遇するのはいけないとかね。だけど、この間題の本質を宗教の問題としてとらえること自体が、そもそもおかしいですよ。靖国神社が宗教法人などという似つかわしくない地位を与えられているのは、占領軍の押しっけによるものじゃありませんか。日本という団を精神的に武装解除して弱体化するために、自国の戦没者の追悼行事すらまともにできない国にしてしまおうっていうことだったんでしょう。そのために、本来的に公的な性格の施設であるはずのものに、民間の宗教法人なんていう不自然な形式を押しっけておいたうえに、政教分離だとかいう網をかぶせて、動きがとれないようにしてしまったんでしょう」
戦後改革とは要するに日本弱体化の謀略だったのであり、アメリカの露骨な政治的意図の反映以外のなにものでもない、といった考え方である。これを私は「謀略史観」と名づける。
この観点に立てば、戦後改革に対してその後いろいろと見直しが行なわれてきたのは当然のことであり、ものごとが正道に復帰する過程にほかならない。靖国神社公式参拝も、こういう人々から見れば「正道への復帰」過程の一環なのである。
一方、典型的な反靖国派の主張はこの「謀略史観」をそっくり裏返した史観で特徴づけられる。「戦後改革でせっかく基本的人権の尊重される民主的な団をつくったのに、それをなし崩しに否定しょうとする勢力が、ここ六〇年にわたって策動を続け、ものごとを悪いほうへ悪いほうへと引っ張ってきた」といった史観である。これを私は「せっかく史観」と名づける。
見られるとおり、これら両史観は水と油のように相容れない。
I靖国神社戦後改革の過程については同じ理解
ところで、これら両史観の信奉者たちは、通常の場合、靖国神社の戦後改革の過程自体については、ほとんど共通の理解をいだいている。「GHQは国家神道を軍国主義を支えるイデオロギーとして危険視したので、神道を国家から切り離し、靖国神社を含めてすべての神社は民間の宗教法人としてしか存続を認めないことにした。そのうえで政教分離を徹底させて、国がこれらの宗教法人に対して特別の関係をもつ���とを禁じた。これによって、靖国神社はその公共性を否定された」というのである。
「せっかく史観(反靖国派)」と「謀略史観(靖国派) のあいだで違っているのはその評価だけで、前者は「軍国主義復活への歯止め」としてそれを積極的に評価し、後者は「日本文化に理解のない人々による不自然な改革」として否定的に評価する。
「謀略史観」 の側が「無理やり宗教法人にさせられた」と言い、「GHQの押しっけた不
自然な改革だったのだから、早晩見直されて当然だ」と言うのに対して、「せっかく史観」
の側は「それが『正しい』改革だったのだから、その 『成果』を『守れ』」と言う。
しかし、この「『正しい』改革」論をどこまで強調してみても、「戦没者を追悼する場が
なぜ民間の宗教法人という不自然な形態になっているのか」との疑問をいだく人々に、
正面から答える議論になっていないことも事実である。
その疑問をひたすら封殺することに終始しているかに見える反靖国派の態度は、靖国を
愛する素朴な人々から見れば「占領軍によって押しっけられた改革を、不自然なものまで
含めて盲目的にありがたがるおかしな態度」と映ってしまう。ここへ復古主義的なイデオ
ローグがやってきて「自虐趣味」とか「敗戦後遺症」とかいう感情的な言葉で事態を説明
してみせると、素朴な人々は「そうだ、そうだ」と納得してしまう。
こうして、「同胞を偲ぶ真心」という程度の素朴な気持ちから出発した人々が、戦後改 革そのものを呪狙するかたくなで「反動的」な意見にからめとられてしまうという最悪の図式が現出される。
こうした事態を、その人たち自身の責任に帰するのは無理である。むしろ、議論の選択
肢の少なさが、その人たちをそういう方向に追いやったと見なければなるまい。
I両史観にともに見られる「末法思想」
典型的な「せっかく史観」には、ある種の「末法思想」が見られる。戦後改革によって
靖国神社が宗教法人になり、政教分離を定める新憲法が制定された一九四六(昭和二二
年ごろがいちばんよい時代で、その後は年を追うごとに反動勢力が勢力を盛り返して改革
を裏切ってゆき、事態は悪化の一途をたどったかのように、戦後史を単純化して描いてみ
せるからだ。こういう「末法思想」は、「ここでわれわれが踏み止まって闘わなかったら、
大変なことになる」と危機感を煽って、運動の結束を図る道具としては、多少の有効性も
あるが、歴史の認識としてはリアリティーのあるものではない。
もし歴史の事実はひとつだけで、だれでも同じものを見ていて立場のせいで評価が異
なるだけなら、「せっかく史観」 の側が悪化の一途をたどった歴史として戦後史をとらえ
ている以上、反対の価値観をもつ 「謀略史観」 の側は、「戦後改革によって新憲法の押しつけを受けたが、その後は年を追うごとに日本人の真心が回復し、事態は改善の一途をたどっている」と見るのでなければおかしいはずだ。
ところがそうではなく、「謀略史観」の側にも、これまた「末法思想」がある。靖団派
の文献を読んでみると、「同じ���後でも、昔のほうが今よりも素直な日本人が多くて、ま
しな時代だった」とする慨嘆が、いろいろな場所に出てくる。「せっかく昭和三〇年前後
に占領政策の行き過ぎが正され、日本人の本来の心が復活し、靖国神社国家護持への気運
も澎湃として盛り上がってきていたのに、その後、政教分離の形式論や、不当な外圧に迎
合する自虐史観などが台頭してきて、日本人の少なからぬ部分が当時の素直さを失っていったのは、嘆かわしいことだ」というのである。
「せっかく史観」の側が一九四六年ごろを時間軸の原点に据えて、そこからの逸脱・退行
としてその後の歴史を見ようとするのに対して、「謀略史観」の側は基準時点の取り方が
少し異なるけれども、ものの見方としては案外似ている。
これは、両派の歴史の見方がともに、実証的な史学というより、自分たちに都合のよい
事実をつなぎ合わせて構築したストーリーという性格を色濃くもっていることを、暗示す
るものであろう。
では、真実はどのへんにあるのかとなると、それは慎重な検討を要する大きな課題となるが、私自身は、「謀略史観」 の側が「昭和三〇年前後」を「古きよき時代」と規定する
こと自体には、若干のリアリティーがあると考えている。
『朝日新開』 が「帰国後も真心ささぐ」米国青年を好意的に報道したことに現れているように、当時、靖国神社を国民の心のよりどころとして、かつ事実上公的な存在として評価し、それについて政教分離論をあまりやかましくは言わないという風潮があったこと自体は、否定できない。靖国神社をめぐって政教分離という観点からの問題提起がある程度広い層から耳を傾けてもらえるようになるのはむしろその後なのであって、それは、靖国神社法案をきっかけとして議論が深まったことの成果なのである。
反靖国派もいたずらに危機感を煽る政治手法にだけ固執せず、そういう歴史的事実は公
平に認めたうえで議論をしたほうが賢明であろうと、私は考える。
I政教分離論だけでは割り切れない
「せっかく史観(反靖国派)」 の側にとって、靖国神社やそれに類する忠魂碑などへの公的機関の関与を問題として批判しょうとするとき、よりどころとなるのは憲法の政教分離規定である。そのため、これらの問題が法廷に持ち込まれる際には、何よりも政教分離規定違反という論点が強調される。識者がマスメディアを舞台にそれへの援護射撃の論陣を張る場合も、まずその点を問題にする。特に一九八〇年代には、一連の政教分離訴訟で下級審では違憲判決が出ても上級審では逆転合憲判決が出るなど、司法判断の揺れが大きかったこともあって、原告・被告それぞれの後ろ盾となる識者たちが、主としてこの論点をめぐって応酬をくりかえした。
被告側がしばしば強調したのは 「靖国神社はどこの団にでもある無名戦士の墓のようなもので、そこに国家の公人が礼を早くしても、それは特定宗教の支援ではなく、政教分離に反しない」との主張だった。原告側はこれに対して、「靖国神社は戦死者を神として崇める特定の宗教であって、宗教に中立的な諸外国の無名戦士の墓とは根本的に異質だ」ということを強調した。
これに対してはまた被告側のいろ���ろな反論がある。靖国派の代表的なイデオローグであった江藤淳などによって一九八六年に上梓された 『靖国論集』 (日本教文社) という本は、この政教分離問題についての靖団派の言い分を多く集めていて興味深い。特に、宗教学者で高野山真言宗の僧侶でもあった佐伯真光は、仏教者であっても浄土真宗などとはだいぶ傾向の異なる宗派に属していたためもあってか、神道に同情的で、その立場からこの問題に対するキリスト者の態度を椰捻し、揚げ足をとるようなことを書いている (「キリスト者は 『靖国』を語れるのか」前掲書、一五九〜一九七頁)。
そこでは、政教分離規定は日本国憲法にお手本を提供したアメリカにおいてさえ、原告側が言うほど杓子定規に適用されているわけではなく、公的な戦没者追悼式がユダヤ・キリスト教式で挙行されていたり、議会の開会にあたって祈りを捧げる専属牧師が存在したりする事実があるとの指摘がなされ、さらに、マッカーサーの日本キリスト教化政策(つまり政教分離に対しては、それを批判せずに便乗したくせに、靖国をめぐる政教分離だけは厳格に守れと要求するのは虫のいい話だといった、あからさまに軽蔑的な言葉が書き連ねられている。
こうした応酬の結果、靖団をめぐる論争は、神仏混交のおおらかな日本の宗教風土に対して少数派の一神教徒が楯突いている文化摩擦といった、矮小なイメージでとらえられることが多くなった。
それに加えて、次のような例もこの論争の過程で明るみに出た。関東大賞災と東京大空襲の犠牲者を追悼する施設である東京都慰霊堂二塁田区の横綱町公園にある)は、都の公有地に建てられた東京都有の施設であって、しかもそこで毎年開かれる春秋の慰霊祭は仏式の法要というかたちで行なわれ、東京都知事以下の公務員が公人として堂々と列席している。慰霊対象たる故人の中にはキリスト教や天理教などの信者も存在することはわかっていながら、日本人の多数派が故人を偲ぶ際によりどころとしている宗教が仏教であることに鑑み、そのような儀礼の形態が採用され、容認されているのである。
こうした例からわかるように、一般論として国家と宗教とのかかわりがどの程度まで許容されるかを論じて、そこからの演繹で靖国問題をあつかおうとするかぎり、原告側の主張の説得力には限界がある。
靖国の問題を政教分離規定の解釈問題としてあつかうことが、もともとある種の代理戦
争的色彩を帯びていることは、たいていの人が薄々は知っている。実質的に問題になって
いるのは、軍国精神滴養のための国民教化施設であった靖国、戦後もなお慰霊・追悼より
も戦死者の顕彰という色合いを保ち続けている靖国というものを、戦後社会が公的に持ち
上げたりしていいのか、という問題である。
実際、原告側は法廷戦術上、攻められる限度までは政教分離の形式論で攻めてゆくが、
それでは攻め切れない部分が必ず出てくるので、ある段階から先は軍国主義批判という実
質論で補足せざるをえない。私はそれを策略的だからいけないと非難するつもりはないし、
被告側の習俗論や公的儀礼論のほうが正しいと弁護する気もないが、あまりにも原告側が
政教分離の形式論を強調しすぎた場合、そのあと��やや唐突に軍国主義批判の実質論を持
ち出してくると、多くの人がその論理の接続のぎこちなさに、居心地の悪いものを感じて
しまうのは事実だと思う。
国務省の勧告を求めたものであるが、その中には「神道の位置や地位を考慮したとき、信
教の自由は許されるべきか」という具体的質問が含まれていた。
これに対する回答として、当時臨時的に国務省に置かれていた組織「極東に関する部局
間地域委員会」が三月一五日付けで作成した「日本 − 信教の自由」という文書が、後の靖国神社戦後改革にもろに関連してくる文書として重要である。
この文書は、信教の自由という原理が日本への適用においては複雑な問題を内包するこ
とを認めている。国家と神道が結びついた現体制を変革するために、一般の宗教について
信教の自由を宣言するべきは当然であるが、もし神道も「宗教だから」ということでその
枠の中に入ってくることになると、否定されるべき超国家主義的な教えが、信教の自由と
いう大義名分の下にかえって温存されてしまう危険性もあるということを、ひとつのジレ
ンマとして、この文書は認識していたのである (二月一八日の質問状自体、このことを意識していたがゆえに 「神道の位置や地位を考慮したとき、…=⊥という、ためらいを含んだ問いかけを発したのであろう)。
文書によれば、問題は、本来無害で原始的なアニミズムである原始神道のうえに、昨今
の狂信的な愛国主義と侵略主義を増長させるため軍国主義者によって利用された「国家主
義的天皇崇拝カルト」が接ぎ木されているところにある。そこで、神道のこうした二側面
を、すなわち古神道と、極度に好戦的な国家主義儀礼である国家神道とを区別する必要が
強調されることになる。
その観点から、この文書の立案者は、神社を三種類に分類して、それぞれに対して別々
の措置を考えるべきであると勧告している。その三分類は以下のとおりである。
(a)大多数の神社は、古代に起源を有し、各地方の守護神を祀っている。この種の神社
はそれぞれの地方の祭りの場であって、厳密に宗教的な神社であると解釈することができる。
(b)天照大神を祀る伊勢神宮のような少数の神社は、古代からの宗教的神社であるが、
同時に国家主義の象徴が上張りされている。
(c)靖国神社、明治神宮、乃木神社、東郷神社、ならびにその他の国家的英雄を祀る近
代の神社は、我々の概念による宗教信仰の場ではない。これらは国家主義的・軍団主
義的英雄を節彰し、戦闘的な国家主義精神を滴養するための国家主義神社(national shrine) である。
つまり、同じ(神社といっても、民間の宗教というよりは天皇家の権威宣揚のための政治的色彩の濃いものや、軍国主義的な政治そのものであるような施設もあって、「民間の
もの」として存続させることがかえって混乱を招くようなものもあることを、占領政策の
立案者たちは認識していたのである。
特に問題視されるのは、第三の類型の神社である。もしこの第三の神社も宗教とみなされるのであれば、占領軍の政治権力による廃絶はみずからの掲げている信教自由の原則を
踏みにじることになる。この点にジレンマがあり、慎重を期さねばならない課題があった。
が、原則論でいうかぎり、日本政府自身がこれらを宗教ではなく、愛国主義の表現形態で
あるとくりかえし主張しているのだから、「信教の自由の原則を犯すことなく閉鎖しうる」
というのが、立案者たちの見解であった。
ただ、実際的な勧告としては、これら軍国主義的神社であっても、強制的閉鎖は逆効果
を招く恐れもあるので好ましくなく、公的秩序や安全保障に反しないかぎり、個人的信仰
の対象としては公開存続を許してかまわないというのが結論であった。
後に神道指令の起草にあたったGHQのスタッフはこの文書を直接は見ていなかったらしいが、その後のいろいろな文書や指令を通じて、間接的には影響を受けていたであろう。(
p144)
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「靖国」と聞いただけでウザくてスルーしたくなるのだが、なんでそんなことになったのかそもそものところを時間を遡ってわかりやすく分析してあるのがいい。中国・韓国が文句をつけてきたのが悪いなんて程度の話ではなくて、設立時から戦前・敗戦のそれぞれに問題があったのだね。
もっとも、これが問題の解決にどの程度資するのかは疑問だが、それは著者の責任ではない。
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[ 内容 ]
「靖国問題」が世上を騒がすようになって久しいが、議論の着地点は一向に見えてこない。
「靖国派」も「反靖国派」もイデオロギーと感情論に染め抜かれた主張をくり返すばかりだ。
こうした議論のもつれは両者がともに問題の本質をとらえ損なったゆえに生じたのではないか。
では、この問題の真因とは何か。
本書は、靖国をめぐる根深い対立・矛盾を生んだ戦後改革の隠蔽された真実を丹念に読み解くことで、問題の核心をリアルに考え抜く手がかりを与える。
今こそ冷静になるための必読書。
[ 目次 ]
第1章 平成版「統帥権干犯問題」?
第2章 歴史のなかの靖国問題
第3章 この問題の割り切れなさ
第4章 天皇の宗教としての国家神道
第5章 神道指令と宗教法人令の真相
第6章 矛盾の顕在化としての靖国問題
第7章 もう一度、あの戦争を考える
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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タイトルの通り、頭を冷やすために読んで見さみた。靖国神社というのは日本国内だけの問題ではなく、なぜか韓国や中国までも絡んでくる。そして、靖国問題で頭が熱くなり感情的になる。そこで見つけたのがこの本である。いろいろな側面から靖国問題について書いてあり、冷静になって読める。
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タイトル通り、賛成反対に偏ることなく、この問題をそもそも論から解きほぐしていく。慎重かつ丁寧な書きぶりに好感が持てる。
自分は「参拝したい人はすればいいけど、国益を損なうなら政治家はやめとけ」ぐらいの考えだったので、とても勉強になった。公共性と民間のいいとこ取り、という指摘がしっくり来る。