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医学や歴史の専門知識がなくても読め、文章も平易で、感染症と人との関わりを知る入門書として良書。
2011年発行の本であるが、新型コロナウイルス感染が拡大している今、読んでみて良かった。
特に興味深かったのは、麻疹の流行、SARSの話題。
デンマーク自治領のフェロー諸島で流行した麻疹に関する記述が良かった。付録でこの麻疹流行のモデル計算や集団免疫、平均感染年齢の説明が分かりやすかった。
また、2003年に流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)で挙げられている“超ばら撒き人”(スーパースプレッダー)の説明も、今、新型コロナウイルスでとられているクラスター対策につながる内容だった。
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Amazonでは古書で高い値段になっているが、現在刷を重ねているので書店で予約すれば定価で買えるはず。とはいえこんな時期なのでhontoなど購入できそうなネット書店で注文すべきか。私は緊急事態宣言前日ジュンク堂書店池袋本店で購入(現在も在庫あり。時間短縮で営業中)。
長いスパンで感染症の歴史をたどっている。人類の文明の始めから存在しているものであり、現在も次々と新しい感染症が見つかっているとのこと。その最新の一つが現在大流行中の新型コロナ(COVID-19)になる。2011年初版のこの本ではSARSまでしか触れられていないが、感染症がどんなものかについての考察なのでCOVID-19について自分なりに考えていくうえで参考になる。著者の結論としては共生せざるを得ないとのことであるが、なかなか厳しい道になるのだろう。人類あるいは生物というものの存在まで考えるとさらに難しくなる。
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・農耕の開始は食料増産と定住をもたらし、それが人口増加につながり、新たな感染症の流行に格好の土壌を提供した。
・野生動物の家畜化は、食料増産に寄与したが、同時に、本来野生動物を宿主としていた病原体はヒトという新たな宿主を得て、多様性を一気に増加させた。
・メソポタミアに代表される文明は人口増加を通して、麻疹や天然痘、百日咳に流行の土壌を提供した。結果として、感染症はヒト社会に定着した。
・「絹の道」はユーラシア大陸の各文明が持つ原始疾病の交換を促した。
・東ローマ帝国の衰退の要因の一つが繰り返し襲ったペスト
・「デカメロン」は1348年に流行したペストから逃れるために邸宅に引きこもった男3人、女7人が退屈しのぎにした小話を集めたという物語。
・1665年から66年にかけてイギリスを襲ったペストで、ロンドンの大学が休校となり、故郷に戻っていたニュートンは暇をもて余す中、微積分や万有引力の基礎概念を発見した。
・ヨーロッパ諸国はアフリカにおける現地住民を疾病から守り、生産性向上を図るということで、植民地主義を正当化する論拠とした。
・スペイン風邪はアフリカのシェラレオネの首都・フリータウンから始まったが、植民地時代に持ち込まれた海岸沿いや内陸部をつなぐ船舶、鉄道、道路などの交通システムと第一次世界大戦下で組み込まれた植民地の軍隊や労働力の移動により、爆発的な感染となり、アフリカ、インドが大きな被害を受けた。
・ウィルスにとって、宿主に病気を起こすことは自らの生存のためには不利となる。そのため、最終的には宿主と安定した関係を築いていくことになる。
・共生とは理想的な適応ではなく、決して心地よいとはいえない妥協の産物かもしれないが、それなくして、人類の未来はない。
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著者はアフリカやハイチで熱病対策に従事した経験のある医師。長崎で疫学調査にも携わっているようだ。自らの経験や、ジャレド・ダイヤモンドやW・マクニールらの先行研究にも触れながら、人類の文明と感染症とが相互に影響を及ぼしながら紡いできた歴史を紐解いてゆく。
社会のあり様は感染症の広がり方に影響をあたえ、それがさらに社会を変容させていくという動態的なフィードバックループを成している、というのが著者の主張。各種感染症自体の記述、特にウイルス性の疾患に関しては直前に読んだ「ウイルスの意味論(山内一也著・みすず書房刊)」のほうが詳細に記述されており既知の情報が多かったが、本書の主テーマである人類文明と感染症の相互作用に触れる第二章が興味深い。感染症が生物学的障壁として文明伝播に制限をかけた古代文明の事例に触れる中で、インダス文明のカースト制度の期限が感染症にあるとするマクニールらの説が紹介されるのだが、そこで「選別的交流」という概念が紹介される。ランダムな交流下では感染症の流行は初期では緩やかだが、最終的な流行規模は大きくなるのに対し、カースト制度下のような選択的な交流下では、初期の感染拡大は比較的早いが、長期的にみた感染規模は比較的小規模となることが数理的に示されるという。カースト制度が感染症の温床となったという反例もあるようだが、現下(2020年4月)のパンデミックな状況下における各国の感染拡大スピードの違いを考えると、極めて示唆的である。
また第4章では、16世紀以降のヨーロッパのアジア・アフリカへの進出において、疫病の克服が重要課題となったことから提唱された「帝国医療・植民地医学」の歴史が詳述されるが、そこで触れられる感性症の流行速度と株の毒性の強弱の関係も面白い。流行速度が緩やかであれば、宿主保護の必要性から長期的には弱毒株が優勢となり軽症化が進むが、人口密集環境などの速い流行が可能な環境下では新たな感染候補が豊富に得られるため、強毒株が優勢な状態が持続する、という。これも今日の我々にとって極めて含蓄に富むトピックだ。
病原菌/ウイルスと宿主の共生関係については他書でも頻繁に触れられる題材でもあるので、さほど真新しい視点というわけではない。しかし、感染症に関する様々なトリビアが多数紹介されており、純粋に読んでいて楽しく、また何より今後の世界を考える上でのヒントにも事欠かない。たとえば、14世紀のペスト流行時の引きこもり生活における退屈凌ぎの小噺がボッカッチオの「デカメロン」を生んだことや、アイザック・ニュートンが万有引力の法則を見出したのが17世紀ロンドンでのペスト流行を避けるための休暇中だったことなどは、感染症により変容を余儀なくされた人類が、適応努力の果てに大きな文化的成果を生んだことの好例といえる。現在の経済的停滞も「創造的休暇」であると考えれば、まだ堪忍のしようもあるのかもしれない。
第6章の「ウイルスのヒトへの適応段階」では、病原菌/ウイルスがヒトという「環境」に適応するフェーズを4段階に分けている。このように動的に感染症を捉えると、今という時間は永遠ではなくその断面でしかない��と、我々は常にダイナミズムの中にあるのだということに、改めて気づかされる。何しろ、今や恐れられることのほとんど無くなった結核ですら、なぜ死亡率が減少してきたのか、明確な原因は特定できていないというのである。「病原性」と人間社会の相互作用はことほど左様に複雑なのだから、「単純に根絶すればよい」といった短絡に対する著者の警戒も理解できる。
“現在存在する感染症は、生物学的時間軸のなかで、新たに出現した感染症と、社会から消えていく感染症の動的平衡状態を、「今」という時間で切り取ったものと見ることができる。”(p.181)
不安定ではあるが決して固定的ではない「今」を生きるための知恵が、ここにあると思う。
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人は、その発展の歴史の中で、すでに感染症からは自由になれないのだ。そう思ってしまう。人が文明を発達させ、環境を自由に変えることで、より豊かな生活を送ろうとして生きてきた。それはそもまま、それまでなかったような(出会っていなかった)新たな細菌やウイルスによる感染症に悩まされることにつながってきたのだ。
〇人類は、自らの健康や病気に大きな影響を与える環境を、自らの手で改変する能力を手に入れた。それは開けるべきでない「パンドラの箱」だったのだろうか。(p.38)
〇それぞれの文明がどのような感染症を「原始感染症」として選択するかは、文明がもつ風土的、生態学的、社会学的制約によって規定される。ひとたび選択された疾病は、文明内に広く定着し、人々の生活に恒常的な影響を与えると同時に、文明に所属する集団に免責を付与する。(p.55)
だとすると、文明と文明との出会いの際には、これまでの集団になかったはずの感染症にさらされることになる。インカ帝国もアステカ帝国も、感染症によってほろんだともいえるそうだ。
一方、ペストの流行によって、当時通っていた大学が通学禁止になったときに、ニュートンは「微積分法」や「万有引力の法則」を思いついたといわれている。だからこの時の休みを「創造的休暇」とも呼ばれているらしい。今の新型コロナの休みも、だれかの「創造的休暇」になることを期待したい。
本書の結論は、人類は感染症を全くなくすることはできない。とすれば、いかに共生していくのかを考えていくべきだというものだ。このあたりのことを歴史家のウィリアム・マクニールの「大惨事(カタストロフ)の保全」を引き合いに出して述べている。
〇感染症のない社会を作ろうとする努力は、努力すればするほど、破滅的な悲劇の幕開けを準備することになるのかもしれない。大惨事を保全しないためには、「共生」の考え方が必要になる。(p.194)
感染症との「共生」には、ある程度の「被害者」は防げない。しかし、被害者を最小に抑え、パンデミックを起こさないためにも、「共生」の考え方で立ち向かっていく必要があるのだろうと思う。
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人が文明を得て栄えていくにつれ、多種多様な感染症が大小の感染を繰り返してきた。
農耕文化が発達して定住が進めば、そこに感染症は入り込む。
環境に踏み込み、あるいは環境を変化させれば、新たな感染症が広まるきっかけとなる。
何度も流行を繰り返してきたペスト、スペインの侵攻に際して南アメリカにもたらされた天然痘や麻疹、西アフリカに派遣された宣教師を襲ったマラリア。
人が新しい地に移動すれば病原体もともに移動し、(敵対的であれ友好的であれ)地域間の交通が増せば、その土地に以前は見られなかった感染症が現れる。
感染症の病原体は得てして、宿主のシステムを利用するフリーライダーである。宿主を滅ぼそうとしているというよりは、自らの増殖のために、宿主のものを「拝借」する。都合がよければ、そこで増え、また次の宿主へと移動していく。
それが時として、宿主には不快であったり、不都合をもたらしたりする。
人のいるところ、感染症がまったくなくなることはおそらくなく、人と人との交流が重要である文明社会には、ある意味、感染症はつきものである。
感染症の一因であるウイルスの場合、往々にして動物を宿主としていたものが変異して大きな流行をもたらす。
元々は動物を宿主としていたウイルスがヒトに蔓延するまでにはいくつかの適応段階を経ると考えられる。最初は動物からヒトへの偶発的な感染の段階で、ヒトからヒトに移ることはない。次の段階ではヒト間の感染がおこるが、効率が低く、流行は長続きしない。さらにヒトへの適応が進むと、定期的な流行を引き起こすようになる。さらにはヒトの中でしか存在できないようになり、最終的にはヒトからも消えていく。
現存するウイルスはこうした適応段階のどこかにあり、つまりはウイルス自身も変わり続けている。
こうした話に加えて、開発によってもたらされたオンコセルカ症、結核がハンセン病を抑制した可能性といったトピックなども興味深い。
感染症の歴史を見ていくと、流行する疾患も時代によって移り変わり、流行の大きさにも波があることが見えてくる。生活環境や気候条件、衛生状態、さまざまなものによって影響を受ける。
好むと好まざるとにかかわらず、古くから感染症と文明は切っても切れない間柄にあった。
時には大流行で多数の犠牲をもたらすこともあるが、病原体も宿主がいなければ途絶えてしまうわけで、宿主に非常に大きな打撃を与えることは、長い目で見れば病原体にとっても好ましいことではない。「そこそこ」のところに落ち着くのが彼らにとってもよいはずである。そうして宿主の中に残っていく病原体は宿主の環境適応性によい影響を与える可能性もあるという。
環境は移り変わるものである。ある1つの環境にあまりにも適応しすぎてしまえば、環境が変わったときに対処ができなくなる。ある程度の振れ幅を許容できることが種の存続のカギとなるのかもしれない。
一方で、病原体を根絶してしまえば、その病原体と闘うために有利であった遺伝子等もやがてはなくしてしまうだろう。
つまりはすべての病原体を根絶やしにするこ���を目指すよりも、「共生」していく道を探るべきではないかというのが著者の主張である。
だが、共生にはコストがかかる。
著者は言う。
共生とは、理想的な適応ではなく、決して心地よいとはいえない妥協の産物なのかもしれない
感染症には致死性のものも少なくない。共生にいたるまでに失われる命もある。
目の前の感染症と闘いながら、クリアカットには解決しない、感染症とともに生きる道を探っていかねばならないのだろうか。
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著者は医師である。俳優上がりのそそっかしい政治家と同姓同名だが誤解なきよう。
https://sessendo.blogspot.com/2020/04/blog-post_30.html
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新型コロナ絡みで一時期話題になっていたので読んでみた。情報の少ない新型コロナを本書にあげられた感染症と比較するべきではないが、視野が広がった気がする。
人の移動を伴う文明の伝播に、地理的な制約と同等かそれ以上に生物学的障壁が大きかったというのはこれまで意識したことがなかったので勉強になった。
人類も他の動物もウイルスも適者生存していく以上、不利益も享受するしかないと思うが、それを一個人として受け入れることは、目に見える自然災害への対応以上の困難を伴いそう。
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コロナ禍がなければ手にすることはなかったであろう本。1章、2章では、文明の揺籃期から始まった感染症の歴史に触れる。筆者は歴史学者ではないから致し方ないのだけれど、このパートの記載、特に農耕・定住やオリエントの記載はちょっと古い印象。参考文献もとても古い。その点では少し残念。
筆者は医師で、国際保健学の専門家。だからむしろ本書で読むべきは後半部分。特に開発と疫病というのは思いもしなかった視点だった。なるほど。
刊行は2011年なので、まさか世界がこんな風になるとは予想もしていなかっただろう。筆者は疫病との「共生」を説く。その道はとても険しそうだ。
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感染症が出現したのは、人類が農耕を始めたからだとの解説(p37)は非常に納得できるものだ.人類がある程度の規模で共同生活するようになり、感染症が蔓延する舞台ができたことになる.今回の新型コロナウイルスについても、本書にあるような対処の技術が生かされて行くものと期待している.最終的には集団感染の状況が出現するまで、小規模の感染は避けられないと思っている.
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人類の歴史は感染症との戦いの歴史である。
その割には、現在の我々は科学・技術がこんなにも発展したにも関わらず、その備えができていないのではないか。
その戦いに勝つことが、必ずしも正解ではないとあるが、今、余りにも多くの人命を失い、余りにも不自由を強いる、この状況も正解ではないことは、明らかである。
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感染効率高→致死性高
感染効率低→致死性低
ウイルスは感染を拡大して種を増やすのが目的。
これは新型コロナウイルスに当てはまるかもしれない。
野球やサッカーのスタメンが外れたら、ベンチにいる選手が入るのと同じように、ウイルスも消滅した後に生態学的地位を埋めるために、新たなウイルスが出現する危険性がある。そうだとすれば、根絶が人類に与える影響は無視できないのではないだろうか。
ウイルスの根絶は未知の影響を与え、共生は安定的な影響を与えると著者は述べている。
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タイトル通り、感染症と文明の関係を説く1冊。文明史か疫学か、いずれかの知識がある程度ないと難解なところが多いと思う…多少歴史知識がある程度では太刀打ちできなかった。とはいえ、人間が社会生活を送るということが即ち感染症と隣り合わせであるということ、人間社会の変化と共に感染症も姿を変えることは理解できた。2011年の本なので、現状に対する提言がある訳ではないが、社会の在り方を見直すことが本質的な感染症対策には必要であろうと改めて思った。
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『感染症と文明』山本太郎
読了。
終盤は圧巻だった。ウイルスにとって毒性の高さは宿主を死に至らしめウイルスは住まいを失うことになる。つまり活発な感染がなければ滅びる。その上でウイルスの生存戦略のひとつは弱毒化であると。最終章のキーワードは「適応」であった。
著者はいう。
「共生とは、理想的な適応ではなく、決して心地よいとはいえない妥協の産物なのかもしれない」
感染症はなくならない。それは地球がなくならないことに等しい。
素晴らしい本をありがとうございました。
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幕内秀夫さんが紹介していた。
https://ameblo.jp/makuuchi44/entry-12701941642.html