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引用メモ
私たちは1度しか生まれない。前の生活から得た経験を携えてもう一つの生活を始める事は決してできないだろう。私たちは若さの何たるかを知ることもなく少年時代を去り、結婚の意味を知らずに結婚し、老境に入る時ですら、自分が何に向かって歩んでいるのかを知らない。
ミラン・クンデラ「小説の精神」より
ライフアフターライフは、そうした人間の未熟を踏まえつつ、今生きている人生をいかに実りあるものにできるか、その可能性と限界に超絶技巧で挑んだ転生の物語と言うことができるだろう。
訳者あとがきより
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難しかった。主人公はアーシュラ。でも私がミドルネームを知ったのは最後の方。ラストネームもいまいちわかってなくて、トッドって誰?と最初の方思ってました。内容はアーシュラが死ぬ度に元にもどって人生をやり直すのですが、死の記憶が強い胸騒ぎや既視感で完全ではないため、主のルートというのが無いんです。なんだか並行世界の話に次々飛んでるような感じ。そして話は急に数年飛んだり戻ったりして、知らない登場人物が突然出てきて、誰コレ?となって、グッと我慢して読み進めると誰か分かるといった感じ。やり直しの人生も同じルートを何回かやったりするので、前回どうだったか分からなくなったり、私の記憶力もひどいので、本当に読みにくかったです。アーシュラは最後の方(何度もやり直して良くなってるハズ)の人生でも、後悔したりしてる。人生やり直せても完全に良くなることは無いんだなと思いました。
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本文2段組・550ページに及ぶ大作。購入後すぐに読み始めたのだが、まとまった時間を取れないと訳がわからなくなりそうで一旦放置し、年末休みを利用して読了した。これは1910年2月21日に生まれたアーシュラ・トッドの人生の記録である。いわゆる“ループもの”で、彼女は死ぬたびに同じ人生を生き直す。他の類似作と異なるのは彼女にその自覚がないこと。そのため過去に経験済みの事態でもうまく対処できない。まあそこは多少の逃げ道(既視感とか第六感)も用意されてはいるのだが……。繰り返される生はなんのためなのか。言及はないが「これかな?」と見当はつく。成就したら人生は全うできるのか? わからない。不確かな時代を生きるぼくも、もう一度人生の意味を考えたい。
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面白い
重量級のボリュームなので一気に読みきるのはなかなかしんどいが中盤以降特に引き込まれた。
何回も人生を繰り返してもおそらく正解は無い。
どの分岐を選んでも全ての人が幸せ自分も幸福な事はなかった。
歴史的事実を背景にしているので知っていれば面白い。スペイン風だったりロンドン大空襲だったりヒトラーの愛人がエヴァだったり。
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命は儚い。
生と死を分ける分岐点。それは、事故や病気かもしれないし、結婚や戦争かもしれない。
「人生とはいまこの瞬間の経験を生きることなのだ。」
読み終わっても、パリンプセストのような主人公アーシュラの人生が、まだまだループして終わらない気がする。
とても面白かった。
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一人の人間(1910年生まれ女)が何度も死んで何度も生き返って人生をやり直すパターンの連続。よくあるドラマとかの展開では「前回までの失敗した記憶はそのままに時間だけリセット」という、いわゆるゲームのリセットボタン形式ではなく、ただただ淡々と産まれ、いろんな理由で死んで、また初めから生まれて生きるというパラレルワールド形式でした。これを他の作家がやったら、とんでもなく緞帳に退屈で脳味噌沸騰しそうだが、この作家の場合、独特に洗練されていて、全然イライラしなかった。
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第六感は前世で体験したことという解釈が面白い。
輪廻転生。
生まれて来た目的、今、生きている意味、成し遂げるべきものの為に、人生でいろんなことを体験している。
点が線になる。
虫の知らせは無視しない。
今、生きてるっていうことが、奇跡に近い。
精神科医も輪廻転生していた。という事は、全ての人が輪廻転生しているのか?
見事な作品だと思う。
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主人公は物語の初段で二度死亡する。
以降.夫からのDV他の理由により何回も亡くなってしまう。過去の微かな記憶を持ちながら死んでしまう。面白い物語ではないが感動はある。
もう一度読み返したいかと言われたら拒否するが駄作でないことは間違いない。
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市の図書館のサイトで予約して、いつもの図書館で受け取る時に、初めて知った本書の分厚さを目の当たりにして、思わずたじろぎそうになったが、読み終えるとそれは、一人の女性と彼女を取り巻く人達の、人生の歩みが積み重なった結晶であったことを認識することで、とても納得出来るものとなった。
ケイト・アトキンソンの凄いところは、人の良いところも悪いところも、あっけらかんと気持ちの良いくらいに、そのまま描写することにあるのだと思い、そこに非情なまでの冷徹さと、場違いなまでのユーモアを同居させて、それぞれの日々を描いていくことに、フィクションとはいえ、現実に私が歩む人生に抱く感情に限りなく近いものを感じさせられ、それこそ、まさにデジャヴュ感があったようなリアルさであるからこそ、時に読むペースが落ちる程の重たい気分となり、時に手放しで自分事のように喜びたくなる、そんな読書体験に、人生の妙な生々しさが見え隠れするようであり、その物語の大部分が、取るに足らないようなありふれたことや、悲しく辛いことではあるのだが、それが却って、人生とはそんなものだといった共感を引き起こし、大きな励みにもなる。
そんなアトキンソンの描写もあってか、本書の最大の特徴であろう、人生を繰り返すことに関しては、あまり印象に残るものがなく(前の人生のことを覚えていない設定は新鮮だったが)、訳者の青木純子さんのあとがきの思いも、それはそれで興味深かったのだが(もしかしたら、今の私も既に何回目かの人生を繰り返している途中なのかも)、本書で実感できたのは、たとえ、何度人生を繰り返そうと、その人にとっての窮地や辛く悲しいことには、違った形で、どうしても出会ってしまうことであり、そこに安易なタイムリープものとは違った、「人生をやり直せるって、なんて素晴らしいのだろう」と思ったところで、それを回避して、「はい、人生終わりました」とはならないということを冷静に述べている点に、アトキンソンの真骨頂があるのだと思い、その時点では幸せなのかもしれないが、その後も人生は非情なまでに続いていくのである。
ただ、そうは書いたものの、それによる、素敵な可能性を提供してくれたものとして、終盤のあの出来事には、嬉しい感動を呼び起こしてくれるものがあり、そこにあったのは、それまでの現実味がやや薄まり、やはりフィクションだったかといった困惑感というよりは、アトキンソンの、人生には時にこうした奇跡も起こり得るのだという思いの方が強く、それは、ここまで読んできた読者へのプレゼントにも感じられた、序盤のそれを挽回したような、真のサプライズでありながら、このまま終わってしまうのではないかといった懸念を、いともあっさりとかわしてしまう、本来ならば決して交わらないようなもの同士が交わってしまったり、相互に存在し合ったりする、そんな対照性や意外性にも、アトキンソンならではの作家性が感じられて、要するに読めない人なのだと感じ、それがまた、物語に様々な彩りを与えてくれる。
そして、そこには、アトキンソンならではの祖国イングランドへの強い思いもあり、それは主人公アーシュラに��「どうせ死ぬなら、イングランドという国家のためでなく、フォックス・コーナーのために死にたいものだ」と言わしめた、『牧草地や雑木林、ツリガネスイセンの花咲く森を流れる小川のあるような景観の地こそが、イングランドなのではないのか?』といった望郷の念に加えて、何よりも戦時中の描写に含まれた、時に楽観的とまで感じさせるような、この国特有のブラックジョークの多さには、もはや尊敬の念を抱き、確かその素晴らしさを述べていたのは、ブレイディみかこさんだったか、その笑いに抱いたのは決して悪印象ではなく、寧ろ、そうした彼らの国民性に、そう簡単には絶対に挫けない、どんな状況でもユーモアを忘れない余裕を持つことの素晴らしさや精神的強さを感じられたことには、これまでの偉大なる歴史を積み重ねてきた、一つの証を垣間見たようでもあった、そんな素晴らしさは、まさにアトキンソンの作風とも一致し、それは、そのまま彼女の作品の素晴らしさでもあり、シリアスさとユーモラスさが平気で同居する、人生の妙味の素晴らしさでもあるのだと、私には思われたのであった。
本書は、彼女のデビュー作『博物館の裏庭で』に続き、二度目のコスタ賞受賞作品であり、それにも大いに納得できる私ではあったが、如何せん、邦訳されているのは、今のところ本書(2013年)が最後となっており、本国では、本書と対をなす『A God in Ruins(アーシュラの弟テディの物語)』が三度目のコスタ賞を受賞したり、『探偵ブロディシリーズ』が、既に5作品刊行されていたことを知ると、何故もっと邦訳されないのかと疑問に感じてしまい、そのまるで実在するかのような登場人物たちの人生を、ここまで、こと細かくウィットに富みながらも、冷徹さと笑いと涙で描き切る方は、そうそういないのではないか? そんな貴重な作家に、私は思えてならないのです。