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被害者不在で仕組みが決められていて、男性側の世論は論理破綻した出版社らによってつくられている。
痴漢、という観点から見た研究ではあるけれど、別の物事を捉えても似たような構造が現れてくるのかもしれない。
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痴漢をめぐる法制度や、メディアで痴漢がどう語られてきたかを解説し、社会の痴漢への意識の変遷について分析した本。引用される過去の週刊誌や新聞、作家たちの文章がどれもひどく、本来は被害者がいる悪質な性加害であるはずなのに、それがあまりに軽んじられていたんだなと思う。けど、たしかに自分が昔読んでいた雑誌とかにも、こういうトーンの記事ってあったよな……。そのときは、あまり自分も問題だと思っていなかったはずで、本著を読むと非常に申し訳ない気持ちになる。しかし、著者はこれを書くために、どれほどこの手の資料を読み込んだんだろうと考えると、それだけでクラクラくるし、使命感に胸を打たれるな。
法制度の変遷や痴漢冤罪に関する考察は、さすが元警察官といったところか。個人的には非常に興味深かった。しかし、これ、なんで痴漢を刑法でしっかり取り締まるようにしないんだろうか。日本の性犯罪についての規定って、どれもバランスが悪い。
今後、痴漢や性被害について考えるとき、この本が前提となるんだと思う。全国民必読なのではないか。
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とてもいい本でした。著者の熱意が伝わってくる。痴漢行為の動機が猥褻ではなく、女性蔑視だったことに気付かされた。
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国立女性教育会館 女性教育情報センターOPACへ→
https://winet.nwec.jp/bunken/opac_details/?reqCode=fromlist&lang=0&amode=11&bibid=BB11452969&opkey=B160887262741807&start=1&totalnum=2&listnum=1&place=&list_disp=100&list_sort=0&cmode=0&chk_st=0&check=00
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この本はけっこうな労作で、うなづけないところもあるけども、「羞恥心」の話とか迷惑条例の制定意図とか非常に勉強になるところがある。この手の話(女性専用車両とか)に興味ある人は読むべし。
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オリンピック組織委員会を巡り、女性蔑視の発言が「これまで黙らされてきた側からのレジスタント」として社会問題化し、マグマのように吹き出している。「女性が入っている理事会は時間がかかる」「わきまえない」、首相の息子の接待問題では「飲み会は断らない」など、およそ国家の中枢を担っている要人の発言とは聞いて呆れる。日本のジェンダーギャップ指数は、144カ国中121位と年々さがり続けている査証であろう。
本書の出版社となるエトセトラブックスは、編集者である松尾亜紀子さんが前職の河出書房新社で編集を手がけたジェンダーやフェミニズムにまつわる本を多く手がけた経験を元に、2018年に独立して立ち上げたジェンダーの専門書店となる。
なぜ性犯罪がカルチャーとなり、冤罪ばかりが語られるのか。男尊女卑、ミソジニー(女性蔑視)により歪んだ理解で、「痴漢」という性犯罪について、歴史的経過や社会学について、膨大な参考資料を元に検証する。「事件としての痴漢」の項では、警察の取り調べや司法調書の取り方などから、「痴漢」に関わる司法と警察の問題を検証する。「痴漢の社会史」では、明治末期より男性の女性による「電車内での悪戯をされるのは既に日常茶飯事であった」などの記録を掘り起こし、年代ごとに「痴漢」を煽るマスコミや芸能関係者の問題、そして痴漢「冤罪」の問題へとすり替える論調を鋭く指摘する。「痴漢冤罪と女性専用列車」の項では、「冤罪」ばかりが問題となり、性被害の本質をそらす論調に警鐘を鳴らす。
満員電車では男女を問わず被害者となり得る事を踏まえ、周囲の同乗者が辛い思いをしていないか、性犯罪を許さず被害者を生まない我々への鋭い問題提起ではないか。
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・夏(8月)に痴漢が多いのは誤解。
・駅事務室に行ったら必ず逮捕は誤解。
・痴漢の冤罪は、それほど多くない。
・痴漢の立件には、「怒り」ではなく「羞恥」の証明が必要。→準じて、幼女や年配の女性、男性は「被害者資格」がないとされる。
・痴漢当時の細かな状況や動機、家庭環境などあらゆることを供述する必要がある。
◯以上4点から総じて、痴漢の立件は被害者にとってハードルが高い。
・1950年代から、主に雑誌上で、痴漢が犯罪ではなく娯楽であるように語られてきた。しかも、男性だけではなく、女性もそれを楽しんでいるとする記事があった。
・1962年に制定された迷惑防止条例によって、痴漢が取り締まられるようになった。
・しかし、現在まで「痴漢の文化」は残っており、被害者は多くいる。
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年代別にニュースや週刊誌のインタビュー記事などの媒体をもとに「痴漢」はどのように捉えられているのかを読み解いて、日本社会でどのように認識されているのかがまとめられている本。
1980,90年代は痴漢=娯楽という風に捉えられていて、欲望を抑えられない男たちという風に話されていて、あまり悪いことという認識は薄い。(中には今だったら炎上しそうな発言をしている著名人もいたり)
そして2000年代に入ってくるとそれが少しずつ変わり、痴漢として捕まると逮捕されてしまう、など男性は脅かされる。そして冤罪などのニュースが大きく取り上げられ、「それでもボクはやっていない」という痴漢の冤罪で巻き込まれてしまう男性についての映画が話題となる。その映画の本来の目的は日本の裁判についてフォーカスしているものの「冤罪」という部分が世の中にはフィーチャーされてしまう。
そして2005年ごろから少しずつ増えた女性専用車両について、最初は女性が股を開いて淫らになっている、などと取り上げられていくが徐々に男性差別だ!と訴える人が出てくる。
この本を通して感じたのは、マジョリティの男性は何か損になること、脅かされること、怯える対象が出てきた時にすぐに揚げ足を取る。
個人的には最後の方の女性専用車両のことが身近で面白かった。
作者自身は警察官の経験があり、1年目の頃に痴漢を捕まえた話が入ったとあとがきがとても印象に残った。
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本書の執筆は、辛い作業だったと「あとがき」に書かれている。
ほんとにそうだろう。痴漢が深刻な性暴力だという認識が生まれてくる以前、それがいかに男たちの気軽な娯楽としか考えられていなかったか、読んでいるだけでも辛くなるのだから。1988年には衝撃的な御堂筋事件が起きていたにもかかわらず、有名作家や週刊誌記者が「通勤時の息抜きだ」「女だって楽しんでいるはず」と放言してはばからないありさまには吐き気がしてくる。痴漢とは、まさに男性中心的な日本の「性文化」だったのだ。
それでもしだいに、痴漢は性暴力の一種であり犯罪であるという認識が生まれてくるとともに、鉄道会社も、女性専用車両の導入や警察との連携に前向きになってきた。
ところが被害者の視点に立った議論は、しっかりと根を張る前に、すぐに激しいバックラッシュにさらされることになる。2000年代に、検挙された被疑者が無罪となる事例が相次ぎ、痴漢冤罪を描いた映画のヒットもあって、まるで痴漢問題=痴漢冤罪問題であり、男性こそが最大の被害者であるかのような風潮がまたたく間に作られてしまった。むろん冤罪は問題だ。だがその責任は警察の捜査にあるはずだし、犯人の取り違えがあったとしても、それは被害がなかったことを意味しない。にもかかわらず、痴漢冤罪をめぐる男たちのファンタジーの中では、「男をはめる女」像が作り上げられていく。かつての「女だって楽しんでいる」ファンタジーと地続きのこの身勝手な想像力が消し去るのは、女性被害者だけでなく、男性被害者も同様である。
「文化としての性暴力」を実態的に明らかにした本書はまた、近年有力になってきている「病としての痴漢」言説にも批判的目を向けている。加害者を病的な他者とするこの解熱もまた、多くの男性たちを、痴漢という性文化の主体的担い手であることから免罪し、自らを楽々と被害者の位置に置くことを許しているのだ。
この差別的文化の根は深い。それを正すにはやはり、女性男性を問わずすべての人の基本的権利の一部としての性的権利を侵すものとして痴漢を含む性暴力を位置付ける対抗文化を創り出していくしかないのだろうと思う。
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非常に有用な本だった。
特に為になると思ったポイントは以下。
・【痴漢の統計について。痴漢の見えにくさ】
痴漢検挙の罪名は強制わいせつか迷防条例違反。多くは迷防条例違反の検挙となるが、これは刑法犯認知件数には含まれない。
一方条例違反は、相談件数は統計として存在せず、あるのは検挙件数のみ。したがって、相談されないがゆえの暗数が多いだけでなく相談件数の実態すら明らかにならない。
・【迷防条例違反の構成要件】
条例では、卑猥な言動によって「羞恥させること」と記されている。したがって警察も被害者の供述調書をとる時、「恥ずかしいと思った」旨のことを話させようとする。
この要件がある為、小さい子供など「羞恥する能力がない」と見なされる者にはこの要件が適用されず、いっしょにいる親などが被害者として扱われることがある。
このような「間接的な被害者」が想定されていることからは、条例は痴漢被害を、個人の性的自由の侵害行為ではなく公的空間の性的秩序を乱すものとみなしているのでは?
→実態を把握していなさすぎておかしい。痴漢されたら、恥ずかしくなるんじゃなくて、気持ち悪いという嫌悪感と怒りが生じる。
・【痴漢冤罪の語られ方】
2000年代に無罪判決が相次いだことによる。
大抵は被疑者の人違いによるものとみられる(?)
これにより、「多くの男性は痴漢なんかしないのに、勝手に犯人に仕立て上げられて男性が痴漢の「被害者」である」かのような語られ方がされるようになってしまう。
それまでの言説では、「男は性欲があり誰でも痴漢になりうる」という語りを男性自身がしていたにもかかわらず。
→筆者は「痴漢冤罪は警察や検察の捜査訴追の杜撰さの問題である」「映画『それでもぼくはやってない』は日本の司法や刑事手続の問題として描かれたものだが」としている。
捜査がどのようにずさんで、刑事・司法手続のどんな点に問題があるのか、具体的に知りたい。
捜査側からすれば、確かに痴漢の立証は難しそうにも思えるため。