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映画を観てから、その足で書店に向かった。
映画だけでは語られていない部分が多い。補完するべく読んだ。
そして思った。
「最後の冬 母になりたいと思った」
1年の話かと思ったら違うじゃん…(›´ω`‹ )
映画と本の両方のレビューをまぜこぜにして書く。
まず、この話は映画から観るべきだと思った。本からじゃダメだ。本はなんでいうか…「餅は餅屋」だ。
情緒的な描写があっさりしすぎている。もう少し間とかさ… 心理的な部分とかさ… ボリューム出ていいからもっと書いて欲しかったな…。宮部みゆきや京極夏彦レベルでもいいよ。読むよ。京極さん、読んだことないけど(爆
あんまりダラダラ書くと、昔流行った「泣かせる系」になるから、あえてアッサリなのかもしれないけれども。でもなー。もう少しなー(ノ)'ω`(ヾ)
他のレビューに「俳優の演技頼り」的なことが書かれていたが、うーん確かに…。草彅くん、上手かったな。短髪になったシーンで「つよぽんじゃん!」とハッとしたくらい。
トランスジェンダーがテーマでありながら、「母の定義」のようなテーマもある。どんなに愛しても、血のつながりには勝てないのか。
舞台の上で、一果がつぶやいた「お母さん」はどちらを呼んでいたのか。読者的には凪沙であってほしいけれども、早織も小学校低学年くらいまでは頑張って「母親」してたし。根っからの毒親ってわけでもないしなー(ノ)'ω`(ヾ)
弱くなると、幼い頃に守ってくれた人に行き着くのかもしれない。
映画の中で、凪沙と一果が『らんま』を読んでいたが、そこは『アラベスク』か『テレプシコーラ』じゃないのか(笑)
テレプシコーラのシーンがちょくちょく思い浮かんだ。アルレキナーダは六花ちゃんが踊ったし、千花ちゃんとりんがダブったり。
最後のシーンで、映画では泣かなかったのに、本でウルっときそうになった。が、涙は出なかった。
やはりそこは描写がですね…(略
映画もう一回観たい。
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お友だちに借り本
友人に勧められ、草彅くんの映画の予告映像観たのですが、
打ちのめされました。。。
これは原作読まねばと。
お母さんになりたい。
守るべきものの存在意義。
自分であること。
なんと純粋なことであろうか。
現実の厳しさと、
あがき、失望。
セルフネグレクトの流れは、あまりに切なくて胸が締め付けられました。
凪沙にとって、海を見に行くことの意味。
そして何より、このミッドナイトスワンというタイトルの意味を考えたい。
そして彼女の人生が、一果の未来と緩やかに繋がっていることを。
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ひさびさにこういうラストの本を読んだので打ちのめされた。
最後に望みを叶えられた凪沙が不幸だったとは言い切れないけど、幸福だったというには辛いことが多すぎる。
一果はこれから世界に羽ばたいて成功するかもしれないししないかもしれない、瑞貴は政治家になってみんなの生きやすい世の中を作っていくかもしれないし、そもそも選挙で勝てないかもしれない。
ハッピーなのかアンハッピーなのか分からない。冷たいような、しかし底の方でじわじわと熱を持っているような、なんとも落ち着かない読後感。
LGBTs的なことで言えば、この作品が「リアリティがない」と評価されるような世の中であってほしいと思う。
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この話には誰ひとり悪い人が出てこないと思った。誰も悪くない、それなのに悲しいし残酷だ。
トランスジェンダーの凪沙、育児放棄をされ孤独な一果、その母親の早織、凪沙の母、先生の実花。
人の為を思うばかりに、人生を崩していく。
もしかしたら自分のためだけに生きていった方が楽なのかもしれないとすら感じさせる。
『昔は何も持っていなかった。何かを手にすると、失うのが怖くなる。失いたくない。』
警察に補導された帰り一果を抱きしめたその日から、凪沙は母親の顔になっていく。
ハニージンジャーソテーを作って、夜の公園で一果にバレエを教わり、共に踊る。
その過程が美しい。そして切ない。決して叶わない現実だからこその切なさ。
『女になって母親になりたい。他の誰でもない。一果の母親になりたかった。』
皆が誰かを想って懸命に生きていた、自分は善良だと思って、だけど受け入れられないのだ。受け入れられないものを排除したいのだ。
何か『革命』が起きて、新しい色が『当たり前のような顔で咲く』日まで。
この文章がよかった。
『一果は歌舞伎町の騒音が好きだった。あの町の騒音はただうるさい音じゃない。いろんな人生の音がぐちゃぐちゃに混じり合った、妙に安心する音だ。騒音がクラシックに聞こえることもあった。』
映画を観てから文庫を手に取った。
映画。
凪沙を海に連れて行き一果が「白鳥」を踊るシーンがとても美しかった。
一果の、指先から足先まですべてが綺麗だった。
文庫では一果のバレエを見ることが出来ないので、踊りを見るために何度も観たい映画だと思った。
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2人で暮らしているうちに、凪と一果、お互いがお互いの為に生きようと変わっていく姿に感動した。性別は関係ない。美しい親子愛に溢れていた。悔しいが、2人を取り巻く状況が悪くなるほど、一果の踊りは表現豊かに、磨かれているようだった。
映画で分からなかった、登場人物の感情を汲み取ることができ、より深く作品を味わうことができた。
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映画を2度観て、こちらを読みました。
映画ではいまいち分からなかった登場人物たちの心情がよく分かりました。
ラストは…始まりなのか、最期なのか。
胸が痛く、涙なしには読めません。
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映画は観ていないが「草彅剛」のはまり役ですね 彼以外いない気がします
東京でおかまバーで働く凪沙
性転換手術を懸命に溜め節約しつつ女になる日を夢見ている凪沙は、親戚の子供(一果)が虐待されているので当分の間、預かってほしいと強引に押し付けられた
中学生だった一果を学校へ通わせたが問題を起こし警察へ
帰りに一人にさせるのは危ないので凪沙のお店へ
そのお店はダンスショーの時間があり、おかま4人が白鳥の湖を踊るが酔っぱらったお客さんと口論になり舞台は台無し!
そこへ一果が見よう見まねでバレーを踊った!あまりにも素敵でみんながくぎ付けになる
才能ありと凪沙は思い一果をバレー教室へ ろくに口もきけなかった一果がだんだん明るくなるのを見て「バレーダンサー」にさせると心に誓う凪沙
しかし!バレーの世界はとにかくお金がかかる
おかまバーだけでは賄いきれなく、風俗、力仕事、とにかく一果をバレー習わすために必死な凪沙
そんな平和な日々も長続きしない
一果の母が連れ戻しに来たのだ、母の考えは「バレー禁止」
これを境に一果の性格が元に戻りつつあり
一果を取り戻すため凪沙の行動 そして最後に待つ受ける運命
「私、海に行きたい」
感動して泣けたわぁ~~
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妹が映画を観て本も買ったというので気になって一気読み。
ラストが悲しすぎて読後しばらく動けなかった…みんな頑張って生きてきて目標も達成したのに。
バレエのシーンは映画で観てみたいと思った。
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草薙剛さん主演で映画化された、内田栄治さんの作品。
映画監督さんの書いたお話を読んだことは3回目くらいなのですが、この作品も他のものと同じく、「熟練した文章」というよりは「日常語を用いて映像を言語化したもの」という印象を受けます。
台詞が多めで文章もギッチリ詰まっていないので、軽く4時間前後で読了できました。
昨今、日本でも同性婚やLGBTなどについて公に取り上げられることが多くはなりましたが、(私もそうですが)知り合いにLGBTがいるという人は少なく、彼(女)らについて「ちょっと自分とは関係ない人」という風に捉えてしまっている人も多いのではないでしょうか。
TVでは毒舌で場を盛り上げる役だったり、ちょっと異質、そして男でも女でもない立場から、第三者視点での意見を求められたりしていますよね。
この物語の主人公である凪沙には性別適合手術を受けて戸籍を女性にする、という夢がありますが、実の母親に自分が女性として生きたいと思っている、ということを打ち明けていません。ひょんなことから姪っ子(一果)を預かることになりますが、一果にも「言ったら殺す」と脅して口止めをします。
つい先日、「一橋大学アウティング事件」なるものがありましたが、自分がLGBTであることを知られても平気な人がいる一方で、知られては一大事、と思う人も中にいるわけで、凪沙はその一人なんですね。
作中には“ニューハーフ”である凪沙が感じる、世間の「偏見の眼」も描かれていて、ショーを見に来た男性客は凪沙やその同僚を「オカマ」として平気で見下し、バカにする描写があります。
日本はLGBTに関しては後進国、と作中のニューハーフ達も語っていますが、皆さんもご存知の通りLGBTどころか男女差別さえ今もまだ平気でまかり通っている国です。
このお話に出てくる地方の議員という男は、「男が一番偉いと信じてやまない人」の役割を担っています。そういう人だとしたら、男であることを捨てて女になる、ということが全く理解できないのも分かります(同調はできませんが)。
凪沙はそんな日本にあって、LGBTに属する者が“当たり前”に存在できるようになれば良いな、と考えている当事者の一人なんですね。
凪沙の姪である一果は母親がDVの容疑があり、凪沙のところに預けられますが、預け先の人はこの人だからと渡された写真とは似ても似つかない、女装した男性である凪沙が現れても、戸惑いこそすれ奇異な目で見つめることはありませんでした。凪沙は一果の眼差しに嫌悪感を抱いて一果を遠ざける一方、仕送りを期待して家に置くことにしますが、ショーで使っている白鳥のチュチュを見られてしまいます。
しかし、この白鳥のチュチュというのがキーアイテムで、白鳥の踊りをショーとして披露している凪沙、一方で一果はというと、バレエに強烈な憧れを抱いている少女でした。
物語は“白鳥”がキーとなり、凪沙と一果は次第に打ち解けていきます。
読後、強く感じたのはLGBTだからといってレズというのはこういうもの、ゲイというのは……と、型にはめた解釈を社会はしがちなんだな、ということでした。
男だか��力が強くてタフなわけではないし、女だからといってお裁縫や料理が得意なわけじゃない。我々は既にそんなことを知っている筈なのに、なぜかLGBTの人たちに関しては「だってオネエってこういうキャラでしょ」と決めつけてしまっている気がします。
LGBTであろうとなかろうと、一人の人間。「属性」ではなく「今、目の前にいる個人」を見なければならないと強く感じました。
そしてやはり、自分の精神とは別の性別に生まれてしまったとはいえ、大金を貯めて痛い思いをして、命がけで性別適合手術をする、というのは(当たり前だけど)大変なことなんだなと。違う性別に生まれたとしても、全員がこんなこと出来るはずがない、という思いも同時にありました(でも、世間って「手術したの?」って無遠慮に、興味本位で聞きますよね)。
LGBTに少しでも関心がある方は興味を持って楽しめる、そして考えさせられる作品だと思います。
-------【以下、若干のネタバレ要素あり】-----------
クライマックスのハラハラする展開は映像が頭の中で広がっていくようでした。終わり方は賛否両論あるのかもしれませんが、私はアリだと思いました。ただ、切ない……切なすぎる。
著者がこの幕引きを選んだのは、やはりこの社会における弱者に光を当てるためだったのでしょうか。
物語というものの上では大抵の人が幸せに幕を閉じるけれど、社会的弱者はどうだろう? という視点からなのかなと感じました。
この切ない終わり方の中で、当人たちは幸せだったのかもしれません。そうなると俗に言うメリーバッドということになりますが……。
一果は留学が出来て、凪沙は一果に会えて、でもこの悲壮感は何なんだろうと読後ずっと考えていました。
そこで私が得た答えの一つなのですが、凪沙は性別適合手術を受けるという夢を叶えたにも関わらず、幸せにはなれなかった、ということ。凪沙の夢は本当は「性別適合手術を受けて戸籍を女性にすること」ではなかったのではないか、ということです。同僚で親友の瑞貴が言ったように、最後の最後で凪沙は「母になりたい」と願った。それが本当の願いだったから、でもそれを叶えることは出来なかったから、物語のラストには悲壮感が漂うのだと私は結論づけました。
途中から自分のことを投げうってまで一果にバレエをさせてあげたい、留学もさせてあげたい、と願っていた凪沙ですが、結局留学できたのは「奨学金を得られたから」で、凪沙が母としてできたことはそばに居て短い時間励ました、ということなのです。終盤のバレエのコンクールで頭が真っ白になってしまった一果を本来救うべきだった凪沙ですが、その役は一果の本当の母親である早織にかすめ取るようにして奪われてしまいます。
そこで凪沙は一旦、精神的に死んだのではないでしょうか。ニューハーフとして仲間と愚痴を言いながらも何となく生きてきた凪沙はそれなりに幸せな筈だったのに、現実をまざまざと突き付けられて壊れてしまったんですね。
これが現代社会でニューハーフである凪沙が直面した悲劇なのです。そして恐らく、その点を著者は問題提起として読者(あるいは映画の観客)に差し出しているのだと思いました。
いまだ、「女の幸せは結婚」と言われています。
ステレオタイプの幸せを作ってそこから脱落した者は落伍者のように扱う社会って息苦しいですよね。
それはLGBTであるかどうかには関係のないことです。
私たちに出来ることは何でしょうか。
私は考え続けていきたいと思いました。
あっと驚く仕掛けや伏線はありませんが、深く考えさせられた作品でした。
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波のように悲劇が降りかかってくるのがきつかった。
最後はフランダースの犬を見ているようで、涙が止まりませんでした。
読後も、しばらくは放心状態で…
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涙、涙。。。。。
とても素晴らしい作品だった。
悲しすぎる結末だけど不思議とあったかい気持ちにもなれた。
映画観てみたいな。
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映画を見てから読了。映画がとても良かったので、映画の答え合わせのような心持ちで読みました。映画では役者さんの表情や声色、モーション、演出で表現されている部分がト書きで繊細に描かれていて、もう一度映画を見たくなりました。
映画では描かれていない部分(凪沙の昼の仕事、瑞貴のその後、りんの結末等)も小説では描かれていて、映画を見て想像したものの答え合わせができましたが、そこには新たな希望があったり、さらなる悲しみがあったり………
「凪沙のなりたいもの」と「一果が凪沙に求めていたもの」は少し違っていた。母になりたいと願った凪沙に対して、一果は"母"になって欲しかったのではなく、ずっとただ"凪沙"でいて欲しかったのだろうなあと。本当の母の早織にできなかったことが凪沙にはできたし、母のような役割はもちろん担ってもいたのでしょうけれど、それも含めて一果は母のようであり、友のようである凪沙に、凪沙らしくいて欲しかったのだろうなあと感じました。
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この幸せがずっと続けばいいのに…ってシーンが中盤にくるお話は大体辛い
ラストの美しさと残酷さが合わさったワンシーンは素晴らしかった。
世界の終わりを感じさせるような物語の極地だと思う
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映画に興味があったが、映像で見るとしんどそうだなと思い、まず小説をと思って手にとった。
映画監督の内田英治氏が自ら小説化したものとのこと。
凪沙の母親の和子が、一果を預かって欲しいと言い出す。
同じ東広島の町では匿いきれないからなのか、噂になるからなのか
東京の凪沙のところまでひとりでやるのも正直大人として愛と責任感が無いと感じる。
凪沙に預ける理由としても、「テレビに出たら困る」という言い草だし
別の描写でも「隣の人が役所に通報しちゃった」と言う言葉が出てくるし、
一果のことを思っているわけでは全く無いのだ。
世間から白い目で見られることだけが嫌なのだ。
狭い田舎に住んでいると陥りがちな思考な気がする。
親戚一同で話し合い、出し合ってなのか養育費を凪沙に振り込むくらいなのだから
それまでも親戚づきあいはあっただろうに、冷たい。
見ず知らずの女の子ではなかろうに。
それは凪沙に対しても思ったし、嫌々でも受け入れたのだから
もうちょっと迎え入れてあげて欲しいと思った。
勿論、凪沙にそうした心の余裕が無いことはわかるのだが。
しかし、それが段々と変わっていく。
一果がそんなにも見てわかるほどの才能に溢れていて、それを目にし、
バレエをやらせてあげたいと思う凪沙。
わかりやすい母親のような愛情の注ぎ方でなくとも
できることはなんでもしてあげたいと思う彼女の思いに胸が苦しくなった。
今の日本で、結局問題として立ちはだかるのは大抵人間関係とお金なのだ。
勤務先のスイートピーの仲間たちがいるとは言え、
親とうまくいっているわけでは無い凪沙は孤独だ。
そんな中で一人、お金を稼ぐ為に風俗を始めようとしたとき、辛かった。
それを止めたのは良かったが、男装して昼職に挑む姿が悲しかった。
女性の姿のままでは決まらなかった仕事が、男装したらあっさり決まった事実も辛い。
凪沙が割り切った人で、都合よくどっちの姿もすればいいや
と思っている人なら良いが、男の名前を備品に書くだけで泣いてしまうくらいなのだ。
凪沙という名前の男性だっているのだし、せめて凪沙と名乗るくらいの
大雑把な度胸が彼女にあれば、もう少し生きやすかったのかもしれない。
本当に、ニューハーフショークラブに来る客はこんな人たちが多いのだろうか。
小説にするにあたって誇張しているのだと思いたい。
一果がりんと出会い、凪沙とも馴染んだことで事態が良い方へ進むかに見えたが
彼女の運命の歯車も中々うまくは回っていかない。
りんと実花との出会いはかなりの強運だし、ふたりがそんなに一果に良くしてくれる理由が
あまり無いのではと思うほどだが
かき消すほどの暗い流れに押し流されていく過程が辛かった。
自分が幸せで、その自覚の無い人ほど
家族なんだから話せばわかると無責任に無遠慮に言ってくるものだ。
本当に、放っておいて欲しい。赤の他人より自分の方が母のことは知ってる
という言葉、そのとおりだと思う。
凪沙が、女性になりたいだけでなくお母さんになりたかったのなら
自分の力ではどうしようもないし、養子縁組ならまだしも産むことはできないから
どうしたら凪沙が幸せになれるのか、読んでいて辛くて仕方なかった。
自分が友達から借りた漫画を勝手に親に捨てられた経験があって
嫌だっただろうに、思わず一果の漫画を破いたりするのが、
染み付いたものを感じて気持ちが沈む。
気がつくと大嫌いな親と同じことをしていて、自分の中に流れる血のことを思う。
りんがコンクールの日に電話をくれてほっとしたのも束の間、
りんは飛び降りてしまい、一果は緊張で踊れず
しかも母親の早織にそのまま拉致られてしまう。
舞台上に乗り込んでくる母親。
コンクール会場も騒然となり、他の出場者の子たちも動揺してめちゃくちゃになっただろう。
子供や動物など虐待されている対象を善意の第三者が保護したいのに、
親とか飼い主という肩書は強くて、法的に助けることができない現実を
自分も度々目にするので、吐き気がするほどきつかった。
早織が一果を愛していることは本当なのだろう。
しかし、その愛し方で一果は幸せになれないのに。
一果は常識がなくて口も悪い子だったけれど
少しずつ凪沙やりん、実花に気持ちを開いてくれていたし
コンクールにママたちが応援に来るのを嫌がることもなくて
素直に真っ直ぐに育っていたらさぞかしもっと早くに綺麗に花開いただろうか
と思ってしまう。
早織のやることが直情型でめちゃくちゃなだけで、コンクールを見にはきてくれたのか
と思ったら、ただ一果を連れ戻すためだけで、彼女の演技は全く見てくれていなくて
自分の勘違いだけで娘が本当に大事にしているものを取り上げる。
親という肩書があるだけで、どうしてこうもひとりの人間の尊厳を踏みにじってくるのだろう。
一果のおかげで一緒に夢を見ることを許されている、と言っていた凪沙なのに
一果を取り上げられ、良い人だった同僚の純也も異動になり、ひとりぼっちだ。
ここで膝をついてしまってもおかしくなかったのに、お金をためて手術を受けて
女性として、自分が母親になってあげたいと思って一果を迎えに行く凪沙。
会いたくない親、足を踏み入れたくない田舎町、それでも一果を迎えに行くのなら行動できた。
事前に根回しをするとか誰かに付き添いを頼むとか、そうしたことをする余裕もないいほどの勢い。
この行動を取ることで、一果以外の全てを失う可能性が高いことも、
頭ではきっと分かっていただろう。
一果が凪沙を選んでくれたら、早織は兎も角凪沙と一果の人生は
ひょっとしたら日向に出ることができたかもしれない。
追いかけてくれなかったことが悲しかったが、本当は追いかけようとして
早織に止められてしまったと知り、嬉しい気持ちと悲しい気持ちがないまぜになった。
早織が一果を縛っても、誰も、早織自身も幸せにはなれないのに。
実花が広島まで自腹で通ってレッスンをしていたことに驚いた。
それ以上に、凪沙がなけなしのお金���実花に渡そうとしていた事実を知り
涙が止まらなかった。
もしこうなっていなかったら、もしこうだったら
という思いは尽きず、歯痒いことばかりだが、
瑞貴がどん底から自力で這い上がったことは素直に嬉しく、恰好良い。
だからこそ眩しく感じて凪沙が会いづらく感じるという気持ちも、わかってしまう。
一果が、子供という立場ですぐに行動を起こせなかったとしても
早織とそれなりに折り合いをつけ、凪沙を探してくれて、
諦めないでくれて良かった。
最後に凪沙が一果と再会した後、凪沙の念願の海辺で
白鳥を見る光景は、物悲しくもこの上なく美しかった。
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アカデミー賞をみて。
映画にはいけそうにないため、とりあえず
小説をと読み始めたが想像以上に哀しかった。
哀しすぎた。
そして小説では誰にも感情移入することが
なかった。映画で観た方がいいのかも。