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読書を楽しむのに理屈はいらない。
理解できないことを嘆くより、理解できた喜びやその先を目指したい、な。
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本を読むことは昔から好きだった。両親ともに本を読む家庭で育ったことも影響していると思うが、小さいころから本を読んでいると褒められたんで、次男の狡さで本好きになったと思う。何かひどく不自由したということではないが、それほど裕福な家庭だったわけではなく、おふくろはずっと内職してたから、親にしてみれば、本を読んでてくれれば手がかからずに有り難かったんだろう。
世界文学全集なんか買ってもらって中学時代からドストエフスキーやトルストイ、カフカを読んだ。きっと十分な理解なんかできてやしなかったに違いないが、周りの友達とはちょっと違うぞと思ってた。やなガキだったんだ。
「趣味は読書」というのはあるときから止めた。人に聞かれれば、「読書は趣味でなく生活の一部。飯を食ったり、ふろに入ったり、糞することと同じで生きていく上で必要なもの」と嘯いた。やな野郎だ。
だけど、世の中には、恐ろしいほどの読書家がいる。この本を読む前にも知ってはいたが、読んでまた思い知らされた。
「なんのために、読書をするのか?」
本書の著者も「楽しいから」と答えているし、自分もそう思う。
「読書が自分の血肉になっているか?」と問われれば、なってはいるだろうけど、必要な内臓器官や、筋肉になったかどうかは正直わからない。無駄な脂肪かもしれない。もっというなら、やな爺になりつつあるのは読書のせいかもしれない。
だけど、身近に本がなければ不安になる。ちょっと外出するにも前は文庫本1冊は持ったし、ちょと旅行や泊りの出張に行くとなれば、3~4冊は持った。本がなければ、雑誌でも、新聞広告でもとにかく活字が必須だと思ってた。
いまは、iPadで電子書籍。紙の本もみんな切り離してスキャナーで電子化しiPadに取り込んだ。いわゆる「自炊」というやつ。そのために、富士通のスキャナとPLSUの裁断機まで買った。(あほやね)。どこに行くのもiPadを持っていく。トイレにももってはいる。
こういう俺みたな人にはお勧めの本。もちろん著者は俺をはるかに超える読書人。
本の読み方なんか人に教わるものやないと思ってたし、今もそう思いけど、本書は押し付けがましく本の読み方をレクチャーしたりしない。著者は季節に例えれば、秋・冬の読書として「読書は楽しければいい」と断言する。こういった語り方が気持ちいい。
私も若いころ司馬遼太郎や山本周五郎や藤沢周平を読んで、とっても面白いから、これは年を取ってから読もうと思った。今読むのはもったいないと。親父やおふくろがすきだった推理小説(松本清張など)なんか読むのは時間の無駄だと思った。
65になった今、一番好きなのはマイクル・コナリーであり、川瀬七緒と若竹七海の新作を待ち望んでいたりする。堕落したなと少し思っていたが、本書を読んで改めて面白ければいいんだと納得した。(R・D・ウィングフィールドの「フロスト」シリーズを「お勧め」にして頂いてるのはとっても嬉しかったです。)
だけど、まだ著者より少し若くかつ現役である分、そうとばかりはいっておれない。ちくま新書の世界哲学史は7まで買った。いつか読むつもりで。楠木健の経営論も読むつもりで持っている。井上達夫の「憲法の涙」が面白かったので、「立憲主義という企て」も買った(これは読まないかも?)。年取った分だけ昔と違ってちょっと金銭的の余裕が出来て本が買えるようになったのと、電子化したことで場所を取らなくなったんで、やたら本を買ってしまう。嫁は読みもせんのにというが、「本は積読だけでエキスがしみだして身につくんだ」とゆうてる。(iPadから沁みだしたりせんやろ)
著者も「本好きが偉いとは思わない。本を読まない人間はバカだと思っていない」と言っているが、私もそう思う。私の周りにも本を読まない人間はいるが、決してバカではない。世の中には恐ろしいほどの読書家がいるのであり、私の読書など質・量ともにそういう人に比べれたらはるかに及ばないのはよくわかっており、けっして自分を変な意味で「本を読む人」と誇ってはいけないことは分かっていたつもりだが、本書を読んで改めて自覚させていただきました。
それと、佐藤優と大西巨人について自分の認識が間違っていたかもしれないと気付かさせて頂きました。勢古浩爾さんありがとうございました。
さいごに勢古浩爾にお伝えできるなら、読後の感想『ああ、おもしろかったよ』とお伝えしたい。
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読書は面白ければ良い。守破離の末に筆者が辿り着いた老境ともいえる心境。読書体験と昨今の読書家への容赦ない斬りこみが楽しい読書論。
読書論的な本は数多くある。だがたいていは格式ばっていてつまらないものだ。本書はあえて理論を語るのでなく、筆者の読書体験にテーマを絞っているところが楽しい。多くの名著に挑戦し途中で挫折したり理解できなかったり、人間味というか共感を持てるところが何より良い。
本書の中では「第5章読書家たちの読書論を読む」が圧巻。立花隆、丹羽宇一郎、出口治明、齋藤孝、佐藤優、森博嗣、又吉直樹、斎藤美奈子など名だたる読書家に対する容赦ない批評が楽しめる。「東大読書」に対する評価は特に笑える。
筆者は73歳、そろそろ読書の終焉も考えている歳。ご高齢の方ならではの物事への批判的視点が良い方向に出ている。
他の読書論がつまらないと思う方にも本書はきっと楽しめることだろう。
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勢古浩爾(1947年~)氏は、明大大学院政治学修士課程修了後、洋書輸入会社に勤務する傍ら読書を続けてきた、エッセイスト、評論家。
人生論、読書論を中心とした著作を多数発表している。
本書は、70歳を超えた著者が、これまでの読書人生を振り返ったものであるが、その面白さは、著者も本書で取り上げている立花隆、丹羽宇一郎、出口治明、斎藤孝、佐藤優、松岡正剛ら所謂エリート「読書家」とは異なる(こんな言い方をすると、勢古氏には誠に申し訳ないのだが)、市井の「読書家」である著者が、古今の名作・名著(著者は、文学を「名作」、哲学を「名著」と呼び分けている)と格闘した様子が綴られていることにある。
著者は、少~青年時代には読書に興味がなかったのだが、24歳のときに不意に読書の春が訪れ、日本文学を読みまくった後、真夏の熱風に煽られように哲学という迷宮に迷い込み、その内部でひとしきりじたばたしたものの、満足のいく成果を得ることなく、40歳代終わりに迷宮から脱出し、70歳を過ぎた今は、自由で楽しい読書を楽しむ秋~冬を迎えているという。
私は、やはり社会人になってから読書に目覚め、名作・名著は読むべきものと思いながら、脳力も時間もお金も(本を置く)場所もないと言い訳し、著者と違って挑戦すらしないで諦めている。そういう自分を見ると、勢古氏が我武者羅に挑戦した末、「わからない」、「わからなくても何の問題もない」という結論を得て、「読書はおもしろければよい」という境地に達したという読書遍歴を披瀝する姿は実に潔く思われるのだ。
これほどの本に触れ、格闘してきた著者であるから、巷にあふれるような一通りの読書のハウツー本を書くことなど朝飯前であると思うのだが、著者はそれを全く意図することなく、自らの読書人生を赤裸々に語っており、それ故にこそ、著者にしか書けない「おもしろい」本になっているのだ。
私はこれまで、著者の『自分をつくるための読書術』(1997年)、『思想なんかいらない生活』(2004年)などの作品を読んできたが、著者の独特の言い回しに読み難さを感じる向きもあるかもしれないが、年のせいか表現も角が取れ、とても読み易くなっている。
著者は、「本書を読まれる方が、読み終わったあとで、もしも「ああ、おもしろかったよ」と思っていただけるようなら、素直にうれしい。・・・「ああ、おもしろかった」は、本に対する最高のほめ言葉だからである」と書いている。その目的は十分に達せられた一冊と思う。
(2020年6月了)
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勢古氏の老後読書本ということで・・立ち読みで済むような気もしたが、購入。なんだか自分もこういう風に読書と感想文の老後を過ごすのかな、という思いもあり。
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名著、名作に挑み、格闘し、敗れたのちに開眼する!?
古希を過ぎて総括する読書人生の終着点とは? たかが活字が並んでいるだけなのに、おもしろい本はなぜかくもおもしろいのか――。すべての趣味の中で読書だけが残る
【構成】 615
第1章 いきなり読書の横道から入って――人はいかにして読書に目覚めるか
第2章 読書の「守」――不自由な読書だった
第3章 読書の「破」――名著と格闘する
第4章 読書の「離」――もっと自由な広い世界へ
第5章 読書家たちの読書論を読む
第6章 おすすめ純粋おもしろ本の世界
第7章 読書の終着点―いま読書できることの幸せ(内容)
普通一般の読書で、本はこう読みなさい、というルールはなく、読書は技量の上達や心の成長を競うものでもない。つまり、読書の作法は人それぞれだ。ただし、自分自身を相手に、自分なりの読書の道筋として「守・破・離」を見つけられるとしたら、どうだろうか?加齢とともに移り変わる読書傾向は何を意味するか?約1万冊を読んできた、名うての市井読書家による渾身の読書論。
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出口さんや斎藤さん、佐藤さんやその他諸々の諸氏の書評本をたくさん読んできた。そういう本と比べると、全然気負ってないところが新鮮だった。
結局のところ、自分の好きな本を好きなように読めば良いし、残存率も血肉になるかどうかも気にしなくても良いんだろうと思う。
人生はあと三十余年くらい残ってるかもしれないが、本を読めるのはどれくらいあるかわからない。
自分の場合は次から次へと興味が移るから、なかなか繰り返し読む本はないのだけれど、今年はともかく、来年からは少し減らしてでも、面白かった本をもう一度読んでみるような読み方をしたいと思っている。
まぁ、それにしても120ページくらいのところで、著者が哲学書を読んで、さっぱりわからず何だこれは?なのであるとか言ってしまうところは、声を出して笑った。
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1万冊読んだ著者による読書論。読書家の殆どが通る道、それは哲学書に親しめるか挫折するか。著者は哲学書に約20年を費やした結果「結局、自分をこじらさせただけでなんの収穫もなし」と結論付けているが、「自分をこじらせた」という経験もひとつの大きな収穫と言えるのではないだろうか。そもそも読書の醍醐味は「自分をこじらる」事にあると思うのだが。
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僕も作者同様、本を読み始めたのが遅かったので、共感するところは多かった。やはり好みは人それぞれ、今は楽しい本、心に沁みる本と出会えれば幸せかな!
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勢古浩爾の読書論は面白い。
今まで名作と言われるものを読んで、どこがいいんだかよくわからない、ぜんぜん面白くないと思ったことが多々あった。
でも私は、名作と言われる文学や哲学は読まなければ真っ当な読書家とは言えない、という呪縛に長年囚われていた。
著者は「読書は面白いが基本だ。何かを得ようと思って本を読むなんて私は考えない」と指摘。
名作の呪縛からスッキリ解き放してくれる。
著者が、色んな作家の批判(悪口っぽい)を気持ちよく言うのが痛快。そこまで言っていいの?と、他人事ながら心配になる。
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著者は本が好きなんだなーという熱量が、よく伝わってくる本でした。
本の読み方や目的などは人それぞれで正解はなく、「本が好きだから読む!」という理由だけでいいでしょ!という論旨で、私も同意出来ました。
ただ、他の著名人の悪口が多すぎるのが気になりました。。。。
ぜひぜひ読んでみて下さい。
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我らが凡人と同じ目線での読書論。こうした本を待ってました!
読書好きなら誰もが感じる、他人には言えない悩み。名作や古典といわれている本がそれほど面白いと思わない、読めば人生が変わるとまで言われる哲学書が難解過ぎて読み進められないなど「趣味が読書」と自他ともに本好きを自称していながら、自分の読解力や感性に問題があるのではと疑心暗鬼のあなたに捧げる凡人のための読書論の登場です。
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著者の読書歴、本の読み方、読書論、推奨本を紹介した読書エッセイ。
著者が1万冊以上読んできた読書家だったとは知らなかった。しかも他の読書家と違って、24歳までほとんど本を読んでいなかったらしい。 なので、子供の頃からの読書家とは視点が違うように思った。本を読み始めた時期にはすでに大人だったので、本に没頭する感じではなく、少々冷めた目で本を見ているように思った。著者は立花隆さんや斎藤孝さんのように、子供の頃からの読書家で、本が血肉になるほどの読書はしていないと謙遜して言うが、少なくとも自分の思想を支える知識にはなっていると思う。 巷で読書家を自認する人でも、一冊の本さえ上梓するのは大変難しい。70代になった著者が、今でも著作を出版できるのは膨大な読書のおかげだろう。
ひとつ、この本で読んでいて気になったのは、これまで読書した本のタイトルを本文中でずらずらと並べていること。 これは章末や巻末に一覧表にして欲しかった。読書した本を取り上げるなら印象に残った本だけで良いと思う。