投稿元:
レビューを見る
1964年に発表された、いわゆる戦争花嫁である笑子を主人公とした小説。
笑子は特段器量良しでもない自分に真剣にアプローチしてきた黒人軍人のトムに気をよくし、家族の反対を押し切って結婚する。
やがて生まれた娘を偏見から守るため、トムを追ってニューヨークに渡るが、そこで待っていたのは想像もしていなかった生活だった‥。
アメリカには、日本では知り得なかったさらなる人種差別があった。ことに、同じ船でニューヨークに渡った女たちが、それぞれ被差別人種の妻だったこと、そのことを当の本人たちも知らずに渡米しただろうこと、それゆえに辿ったその後の数奇な人生には悲壮なものがあった。
ただ、笑子自身の逞しさと行動力が読み物として読者を惹きつけて、ほかの有吉作品同様夢中になった。
投稿元:
レビューを見る
敗戦後の絶望的な状況下、占領軍関係施設で働き、そこで出会った軍人と結婚し、夫の母国アメリカに渡った女性がいた。彼女らは当時、「戦争花嫁(ウォーブライド)」と呼ばれた。この物語は、日本で米軍伍長と結婚し、1児をもうけた戦争花嫁が渡米、夫が黒人であったことから人種差別や偏見にあいながらも、逞しく生き抜いていくというストーリーになっている。
日本で生まれた娘に、親からも偏見の目を向けられ、いたたまれなくなった主人公・笑子は夫の待つニューヨークに渡るが、待っていたのは、貧民街ハアレムでの半地下生活だった。夫のトムは夜間、病院で看護夫として働いていたが薄給、しかも、日本にいた時のような覇気がなかった。そんな二人の間に次々と子どもが生まれ、笑子は生活のため、レストランやメイドとして働く。黒人の妻ということで、蔑みを受けながら持ち前の反発心で気持ちを切り替えながら強く生きていく笑子の姿が全編を通じてよく描かれている。
そして、何より強く提起されているのが黒人差別に代表される人種差別の実態。笑子は日本から渡米する際の船中で知り合った竹子、志満子、麗子とニューヨークで再会するが、彼女らの夫は黒人、イタリア人、プエルトリコ人と異なり、それぞれ苦悩を抱えていた。アフリカ黒人とアメリカ黒人がお互いに相手を蔑む実態も描かれている。いまだ解決されていない奥深い問題の内面がひしひしと伝わってくる秀逸な長編作品だ。
著者の文体は堅苦しさがなく、自分には親しみやすく感じられた。また、大阪出身の竹子の言葉の中に、「なんでまっと遊ばなんだんよ」と明らかな和歌山なまりが混じっていたことで、親近感が増した。
投稿元:
レビューを見る
ブレイディみかこさんの帯が気になってジャケ買い。
終戦直後、黒人兵と結婚し、戦争花嫁(ワーブライド)としてニューヨークに渡った主人公、笑子。
ニューヨークの貧民街で「ニグロ」の夫と暮らす半地下生活。どんどん「殖える」子どもたち。肌の色はいろいろ。同じくニグロの夫を持つ竹子、「イタ公」の夫を持つ志満子、プエルトリコ人の夫を持つ麗子。
人種差別とはあからさまに虐げたりするものでなく、息をするように自然に、違う人種だと見下すこと。「私は差別なんかしていません」という人がいちばん怖いという話。
1967年にこの本が出版されてから50年ちかく。今、読みたい本。
「プエルトリコをかばうのはええ気持やろ?黒より下の亭主持ってる女やと思えば、単純な私らは嗤いものにするけど、あんたはもう一つ手ェこんでいるだけや。同じことなら嗤うたり悪口言うたりする方が私は好きやな、正直で」
投稿元:
レビューを見る
手に取った時にすぐに想起したのはやはりBlackLivesMatterの問題だった。読了した今、自分のレイシズムに対する観念のなんと狭く薄っぺらであったことか。なんと無知だったことか。打ちのめされた。差別といっても様々に階層があり、憎悪も入れ子になっている。いくら過酷な時代だからといっても、主人公の人生を逞しいの一言でまとめることは私にはできない。主人公自身の差別感情が理解できてしまうからだ。テニス選手が「いつまで(こんな差別が)続くんだ?」と嘆いたことは広く知られているが、私も解決できない問題じゃないかと悲観してしまう。1967年に刊行され、この文庫は2020年に復刊されたもの。実にタイムリーだがこんな差別って本当にあったの?と言われる世界は遠い気がする。
投稿元:
レビューを見る
状況的には絶望すぎるな。
笑子は離婚するんじゃないかと、勝手にイメージしてたけど、異国の地で逞しく生きる笑子の姿にページをめくる手が止まらず。
有吉佐和子さんの書く文章、テーマはほんと魅力的。
投稿元:
レビューを見る
色に非ず。誰かを下に見る心は、ここにあるのだ。
黒人兵トムと結婚し、子どもを連れてニューヨークに渡った笑子。思った以上の苦しい生活でも、彼女は戦い続ける。そのエネルギーとなったのは、何への反骨芯か。日本人、黒人、イタリア系、プエルトリコ、ユダヤ。複雑に絡み合う差別の視線の中で、笑子が最終的に掴んだものは。
アメリカの人種差別は、階級闘争なのではないか。この言葉が印象的であった。この小説が書かれたのは1964年だという。東京オリンピックの年で、アメリカでは公民権運動がピークになっていた頃、そしてアフリカの国が次々と独立していた頃。アメリカの黒人に対する、アフリカの黒人たちの冷ややかな目や、アメリカの黒人のプエルトリコ人への強烈な差別意識、そして南部からニューヨークに憧れて出てきた黒人の語る南部の暴動の激しさ。つい「アメリカ人」とまとめて言ってしまいがちで、しかしその時のイメージはいわゆる白人である。作品内でも何度か言及されていたように、イタリア系だとかプエルトリコ人だとか、アイルランド系だとかの「アメリカ人」の中の違いは、日本に生まれ育ってきた人にとって、意識するものではなかった。
「差別はいけない」「どんな人も等しく扱われるべき」美しいことを言うのは簡単で、笑子の行動のいくつかを糾弾したくなることもあるだろう。しかし、人種や国籍、性別に限らず、誰でも「私はあの人たちより上だ」とか「あの人たちと私は違う」と思ったことがあるはずだ。決して、肌の色ではないのである。確かに肌の色や髪の毛、目の色などはわかりやすい差で、生まれ持ったものだから標的にしやすい。けれど、そこではない。氏より育ちという言葉があるように、言葉や動作を学び、強く生きようとする人間は、変化するエネルギーに満ち溢れている。最後に笑子がエンパイア・ステイト・ビルに上ってみよう、というのは、そういうことではないだろうか。上に行こう、というエネルギー。この作品の書かれた1964年は、上に行こう、という行動指標が最も肯定される生き方だったのではないか。
どうしても「下にいるあの人たちとは違う」という意識がある。この意識からは逃れられない。しかし「あの人たち」は、固定化されてもおらず、生まれつきのものでもないことを、必ず心に止めておきたい。そうすれば、一緒にエンパイア・ステイト・ビルに上ろう、大陸で変わった桜は素晴らしい、と思った笑子のように、共にいる彼らと一緒に生きていこう、という気持ちになれるだろう。
投稿元:
レビューを見る
#英語 "Not Because of Color" by Sawako Ariyoshi
“Without Color” という訳もみつけました。
一気に読みました。
米国の人種差別を扱ったすばらしい小説が、日本の作家によって1964年に書かれていたとは…
有吉佐和子さんの視点が素晴らしい
"金持は貧乏人を軽んじ、頭のいいものは悪い人間を馬鹿にし…インテリは学歴のないものを軽蔑する。人間は誰でも自分よりなんらかの形で以下のものを設定し、それによって自分をより優れていると思いたいのではないか。それでなければ落着かない…生きて行けないのではないか" 『非色』有吉佐和子
自信ないけど私訳してみた。"The rich despise the poor, the smart make fun of the bad...the intellectuals scorn the uneducated. I think we all want to set ourselves up by putting others down, and thereby think of ourselves as superior. If not, we cannot settle or we cannot live."
投稿元:
レビューを見る
年末にベストオブザイヤーな本に出会った! 戦後の冒険譚としても読み応え抜群、そして米国の人種問題の刳り方がパワフル。無意識の差別など差別の根源に気付かされた。人間の底浅さが醜くて怖い。ユーモラスな筆致で暗くなり過ぎないところもよかった。 この本が50年以上前に書かれながら、現在もBLM運動が行われてることで根深さがより一層浮かび上がる。 もっと有吉佐和子の本を読みたい。
投稿元:
レビューを見る
1番驚くのはこの本が1960年代に書かれたということ。今読んでもまったく色褪せないのは、本質が何も変わっていないから。ここ数年、読むのがこんなにつらかった本はなかった。多くの人に読んで欲しいと思う。
投稿元:
レビューを見る
「打ちのめされる本」とかいうのがあった気がするけど,まさにそれ。先が気になりすぎて日曜つぶして読んだ。『華岡青洲の妻』でも打ちのめされた記憶が蘇ってきた。有吉佐和子すごい。どうしようもなく絶望してしまう話な気がするけど最後上を向くところが良い。すごく好き。
BLMのこと何も分かっていなかったよ,と思う(これを読んだことで理解できたとも思わないけれど)。そりゃ根深いわと思う。ウェストサイドストーリーも全然別の話に思えてくる。
「阿川佐和子さんがラジオで勧めてた」という情報から読みたいリストに入れてた記憶。阿川さんにも感謝。
投稿元:
レビューを見る
黒人が生まれた瞬間から直面する人種差別や偏見を真っ向から書いていて、陰惨なだけの話になってしまってもおかしくないのに、ぐいぐい読ませるのはさすが有吉佐和子さん。主人公の笑子を貫く闘争心が、全編にエネルギーを与えている。
「人間は誰でも自分よりなんらかの形で以下のものを設定し、それによって自分をより優れていると思いたいのではないか。それでなければ落ち着かない、それでなけば生きていけないのではないか。」と笑子がたどり着く一つの結論は、いくら平等が謳われる世界になったところで、厳然とした事実のように思われる。
その上でどうするか、というのがこれからの社会の課題なのかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
久しぶりに、寝る時間も惜しんで読みたいと思えた本でした。
これが60年も前に書かれたとは思えない、今の現状…
投稿元:
レビューを見る
アメリカに一年ほど留学した作家が、差別の構造について深く考え書き上げた小説なのだろう。黒人と白人。プエルトリコ人。イタリア系。ユダヤ系。アフリカ人。アジア人についての記述は少ないが、戦争花嫁として生きるということ。考えさせられることが本当に多く、物語としても面白く読めた。
投稿元:
レビューを見る
パラサイトが描いたことと通じている
60年前の作品だなんて信じられないしかなり切ない。。
最後、元気づけられる一方で、やはり生き抜くためには世界の分断を積極的に受容し、そこで上を向いていく必要があるのかと思う。。
投稿元:
レビューを見る
ブクログのランキングに入っていて、ブレィディみかこさんの帯【人を分かつものは色ではない。では何なのか?この小説の新しさに驚いた】の言葉にも惹かれ、手に取った。
この『非色』は1964年に発表された小説。 絶版状態だったが、2020年11月に再度文庫化 された。現在では差別用語としてNGである言葉も使われているが、「作者に差別的意図のなかったことは自明であり、書かれた時代的背景を鑑み、いまなお残る重要な問題を孕んでいる優れた作品である」として明らかな誤植以外は訂正されず、そのまま再文庫化された、とのこと。読み終わってまず思うことは、この作品を再発売してくださったことへの感謝の気持ち。深く考えされられる、良い作品だった。
この作品は、差別問題をテーマに描かれたもの。本の紹介には 「終戦直後黒人兵と結婚し、幼い子を連れニューヨークに渡った笑子だが(後略)」とあるので、アメリカでの黒人差別を描いた作品なのかな、との第一印象を受けるが、問題はそう単純ではないのだ。
主人公の林笑子は、戦争中に学徒報国隊で働いていたが、敗戦で戦争が終わると、国は何も保障してくれることはなく、放り出された。そのために食べられなくなって、働きに行ったところにアメリカの黒人兵がいて、その黒人兵トムと結婚する。まもなくメアリィと言う娘が生まれるが、娘がひどい差別を受け、ニューヨークに渡る。
トムがアメリカに戻ってしまってからも、初めは、笑子は夫についていく気はなく、日本で暮らそうとしていたが、メアリィが差別を受けている上、笑子の母からの差別発言にも反発し、アメリカに行けば黒人もたくさんいるのだし日本にいるより良い、アメリカへ行こう、と思って夫のもとに行くことを決意し渡米する。しかし、ニューヨークに渡ってみると、日本よりはるかに深くて厳しい、そして複雑な差別があった。 と言う流れで、この東京での様子を描いた部分が3分の1ほどで、 残り3分の2でニューヨークでの生活を描いている。
アメリカへ渡る貨物船の中には、同じような戦争花嫁が3人いた。白人と結婚した志満子。笑子と同じく黒人兵と結婚した竹子。 そして麗子という美しい女の人もいて、相手はたいそう美男子で、スペイン語がわかる人だった。
後に、 3人がニューヨークの日本料理店で働くことになり再会したことで、 志摩子の夫はイタリア人、麗子の夫はプエルトリコ人、と言うことがわかってくる。
さて、ここで、ニューヨークではもっと厳しい、 複雑な差別があった、と先に書いた。どういう差別かというと、まず白人と黒人。ところが、同じ白人でもイタリア人は下に見られている。そして差別されているイタリア人やプエルトルコ人の間にも差別感情があり。イタリア人は黒人を差別し、黒人はイタリア人を「最低」と言い、イタリア人も黒人もブエルトリコに関して 「最低だ」と言う。さらには、黒人の中でも、金持ちの黒人は貧しい黒人を差別する。アフリカや国連から来たような偉い黒人は、アメリカにもともといる黒人を差別する。そして、この小説の中では、あまり深く描かれてはいないが、勿論、黄色人種に対しての差別もある。
こんな風に、あらゆるところに複雑に絡み合って差別が存在する。そんな様々な差別を目の当たりにし、自分も差別を受けるうちに、笑子がこう考えている場面がある。
『金持は貧乏人を軽んじ、頭のいいものは悪い人間を馬鹿にし、逼塞(ひっそく)して暮す人は昔の系図を展(ひろ) げて世間の成上りを罵倒する。要領の悪い男は才子を薄っぺらだと言い、美人は不器量ものを憐(あわ) れみ、インテリは学歴のないものを軽蔑する。人間は誰でも自分よりなんらかの形で以下のものを設定し、それによって自分をより優れていると思いたいのではないか。それでなければ落着かない、それでなければ生きて行けないのではないか』つまり、この「差別」と言うものが、単純に 『色の故ではない』 と気づいたのだ。『非色』だ。
戦後から80年近くがたった今の世界はどうだろうか?差別は無くなっているのだろうか? 残念なことだが、誰もがノー、と答えるしかないのではないか。
なぜこの本が、2020年のこの時代に話題になっているのだろう?いくらなんでも、64年の本なんて少し時代が違ってしまって古いのでは?と思いながら読み始めた私は、そんな自分の当初の感覚を恥ずかしいと思う結果になった。なぜこの作品が 『非色』なのか。そのことを、改めて考えさせられた。差別とは確かに、肌の色、人種、 宗教、ジェンダー、と種類を分けて捉えることも出来るが、その根底には笑子の言葉通り『自分よりなんらかの形で以下のものを設定し、それによって自分をより優れていると思いたい』と言う、その気持ちがあるからだと、非常に納得できてしまう。有吉さんが提示してくれたこの問題は古くて新しい、現在進行形の根深い大きな問題なのだ。しつこいようだが、このことは“残念”なのだが、この小説はまだ当分、大人が若者に読むことを勧められる良書だと思う。