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2024/04/23 14:52
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アメリカでも(政治・人権・経済等で)深刻な社会の分断が起きていて、その始まりは、「実力主義的な成功」によるものだと本書では指摘しています。
私たちは、能力主義の原則により忠実に生きる事よりも、選別や競争を超えた共通善を追求するべきだとの主張に、僕も同感です。
日本でも、勝間和代のように「やればできる」とか、ホリエモンのように自分が頭の良い事を、環境や世の中がたまたま評価する才能を持って生まれたことに感謝せず、社会的な弱者をたたく人たちが大勢いますが、彼らは、社会的絆と総意の敬意が共通善を作り出すことを理解すべきだと思います。
2021/07/03 11:46
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培われた能力は本人の努力だけでなく、その人の出自、家庭環境などの環境に依るところもあるのに、そのことに無自覚な一部のエリートは能力のない者を「努力不足」と一蹴し、社会で分断を生んでいる…という話。
イギリス、オランダ、ベルギーで行われた調査(その後アメリカで似た調査を行っても結果は同じ)で分かった、大学教育を受けた回答者は教育水準の低い人々に対するマイナス感情が、その他の不利な立場にある人々(宗教や人種、貧困、身体的不利など)よりも大きい、という結果が印象に残った。人種差別やジェンダー差別などは許されないという真っ当な価値観が共有され始めている中で、最後まで許される差別が学歴である。なぜならそれは個人の努力次第だからである、という考えが透けて見える結果であった。
世の中には「努力すれば願いは叶う」なんてとてもじゃないが考えられないという人がたくさんいる。そのことに思い当たらない傲慢さは社会に軋轢を生む、ということは当たり前といえば当たり前だと思う。
2021/06/14 11:40
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トランプが顕在化させた社会の分断、新自由主義による社会的弱者の切り捨てはどうして起きたのか、というのがここ数年の疑問だったのだが、それに能力主義という観点で真っ向から考えを提示してくれた。
個人の能力は環境に依る部分があり機会の平等になっていない、というのが趣旨なのかと思って読み始めたが、本書が真に伝えたいことは、機会の平等を完全に実現したとしても、能力主義では社会を分断してしまう、何故なら能力主義が行き過ぎると弊害として稼ぎの少ない人を努力不足で道徳的にも劣っていると蔑むようになり、共感性を失わせ社会を分断させるからだ、という点だった。新自由主義がここまで暴走し社会の歪みを生むようになったのも、能力主義という反対しにくい主張を背景にしているからでもあったのだろう。
教育の学歴偏重主義も労働の尊厳もまさにその通りだと思うのだが、個人的に本書で一番新鮮だったのは理論的な掘り下げをしてくれたこと。個人の責任で上がることもできるし下がった場合も自己責任、という点が個人主義に根ざしているのという点は改めて個人主義の功罪を問い直させる。またハイエクの頃から道徳的価値と市場価値を切り分けるべきと主張されていたというのも今日の過剰に市場社会での成功者を持ち上げる傾向を予想していたようにも見える。
福祉国家リベラリズムの祖であるジョン・ロールズは個人の能力はコミュニティに負っているのだからコミュニティに還元する必要があるとして、福祉国家を主張する。本書を読む限りではこれこそが著者が主張する共同体意識を育む必要性なのだと理解した。
新古典派経済学のフランク・ナイトは市場価値が社会への貢献の価値を示すという前提にさえ疑問を呈し、市場の需要によって決まるものでありそれ自体に価値は無く、真の価値はそれによって得られる道徳的価値にある、としているのは、経済が発展しても人々の心が豊かになっていないことが証明しているように思える。「消費者の需要は、それ自体に価値があるわけではない。その価値は、一つ一つの事例ごとに、需要を満たすことで叶えられる目的の道徳的地位によって決まるのである」(p207)。経済が社会発展の動力になっている側面も民間企業社員としては信じたいが、新自由主義への反駁としてこうした前提への疑義は忘れてはならないだろう。
経済的に成功した者を道徳的価値が高いと評価することを正当化する主張に対して、「名誉や評価の配分は最も重要な政治問題であり、古くからそうみなされてきた」という反駁は本書の主題にとっても示唆的だ。社会で低い地位に甘んじている人に対して、それは経済の問題であり補償と機会の平等の徹底を進めるだけでは解決されず、7章で提示される労働の尊厳を取り戻すことが必要だという点につながっていると思う。
こうして見ると己を謙虚にする神という存在は偉大だと思わされる。神無き現代においては、個人ではコントロールできないものがある、社会に負っていることを共通認識として持たせることが共通善と呼ばれるものなのかと思うが、それは現代では民主的な議論を経て合意形成していくもの、ということになるのだろう。
このように何に価値を置くべき��、社会はどこに向かうべきかについては多くの示唆がされているが、共通善(common good)や条件の平等といった概念については著者の前著で掘り下げられているようで、本書では触りしか書かれていない。是非本書を起点にして前著も読み、社会の有り様について考えたい。学生時代に出会っていたら進路も変わっていただろうな、いや社会の構成員である間は何かできるはず、と思わせてくれた。これから数年の思想的な礎になりそうということで、約10年振りの星5です。
2021/05/13 10:17
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能力主義の考え方が進む中で、
勝者は努力したから当然なのか?・敗者は努力が足りなかったのか?
という疑問を問いかけてくる本だった。
努力したから上手くいったのだと考えることは、心地が良く、誰にとっても平等であるように見える。
しかしそういった考えが周りを見下すことを正当化し、敗者を追い詰めていく。それらがポピュリズムなどの考えが力を持つ要因となったのだと考えさせられた。
2021/04/30 18:12
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米国で広がる経済格差について道徳的観点、特に能力主義(功績主義)を切り口に論じている。
能力主義(功績主義)とは、過去の成功した行為(功績)に応じて分配を決定するというものである。本書の解説にも書いている通り、能力主義で扱われる能力とは、人々に潜在する能力のことではなく、過去に行った行動による功績のことであることは注意しなければならない。能力主義では、歴史的背景より、功績はその人の必然的な結果であり、功績によって得られた報酬は独占できると考えられている。
能力主義は功利主義及び学歴社会と混ざり合い、人々の学歴に応じて所得が分配され、所得の高さによって、その人の価値が決定するというイデオロギーが形成されていく。
このイデオロギーが、能力主義の勝者である高学歴高賃金のエリートには奢りを、低学歴低賃金の労働者には辱めを与える原因となっている。
米国では、アメリカン・ドリームをはじめとする能力主義が歴史的に支持されており、「機会の平等化」が推し進められている。そして、その起点となっているのが大学である。人種や貧富の差に関わらず、能力のあるものが入学することで社会的流動性の高い社会の実現を目指していた。
しかし、現在のアメリカでは高学歴の大学に行くのは高収入の家庭の子供が大半で、低所得の家庭の子供はレベルの高い大学はおろか、大学入学もままならないのが現状である。
この事実が、労働者の能力主義に対する不支持を加速させ、能力主義を熱烈に支持する民主党ではなく、エリートを批判するドナルド・トランプが大統領選挙で勝利した一因になった。
能力主義による副作用に対して、筆者は二つの案を示している。
一つ目は、学歴信仰の抑制だ。具体的には、一定の入学適正を認められた者の中からランダムに入学者を決定することで、学歴に誰が見ても分かる偶然性を挿入することだ。この学歴の偶然性は学歴を功績と分離することを狙いとしている。
二つ目は、能力主義を功利主義と切り離すことだ。具体的には、労働者には政府から追加所得を与え、金融資産には多くの課税を与えることだ。これによって、所得と社会的価値には関係性がないことを、政治的に表明することが目的である。
筆者は能力主義それ自体を否定している訳ではない。現在の大学入試制度による社会流動性の低下と功利主義に基づく功績を批判している。筆者の目指す能力主義社会では、「尊厳の平等化」を目標とする。その社会では、功績は共通善に道徳的な行動によって規定される。現在と違い、功績が所得の数値によって優劣が決定するものではない。道徳的という曖昧な基準になるため、エリートや労働者を問わず市民が等しく、自身の功績を誇れる社会になるだろうというものである。
2021/04/23 16:25
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能力主義による弊害が不平等をを生み出す。
完全に自分は能力主義な考えで、貧困の人は
努力してないから仕方ないと思っていた。
努力しても報われない社会になってきているからこそ
私たちはお金による富以外の幸せをもっと
考えていくべきだと思った。
2021/04/23 23:42
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相変わらず明快な語り口のサンデル先生。ただし、エリート大学の競争的なアドミッションへの処方箋は納得できない。この辺は、科挙の伝統のある東アジア諸国の経験に学ぶべき点があるのでは。都立高の学校群制度の結末とかも。
2022/02/17 07:13
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新自由主義と能力主義が手に手を取って、グローバル化という船に乗りました。辿り着いたのは暗黒郷。そこでは誰かのために汗を流すのは愚か者、指先ひとつで自分のためだけのことをするのが賢い者とされ、愚か者は満足な暮らしどころか人としての誇りさえ持つことは許されませんでした。自由に能力を発揮しさえすれば人種や性別は関係ないことになりましたが、それはもっと深刻な差別と分断を生み出しました。しかも、それを解消することは金融経済という金脈をあきらめることを意味しました。賢い者の欺瞞に気づいた愚か者たちは、憎しみによって自分たちのリーダーを選びさえするようになりました。それが、アメリカという国でした。
という話。
根が深い。
日本にはまた違った文脈があるようにも思える。
2021/04/27 12:56
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どちらかというと能力主義の立場だったが、個人主義が強く、著しい格差社会が現状であるアメリカを見ると、その弊害も小さくない。
個人的に興味深かったのは、大統領選2016の文脈。能力主義が進んだことで、それに対抗するトランプが勢いづいたこと。本書のテーマとも言える。
このあたりはロールズの著書なども読みながら理解を深めていきたいところ。
2022/06/08 18:55
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アメリカの大学はかなりの高額の学費で、もはや裕福な家庭の子供しか通えないと、アメリカに住む親戚から聞いていた。
そして根強い差別意識が蔓延っているのも事実。
ハンク・アーロンがメジャーリーグで実力で本塁打王をとり能力主義を体現したのではなく、本塁打を打つ事でしか乗り越えられない差別主義があったという指摘は深い考察だ。
2021/05/05 17:18
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サンデル教授の新刊が出たということで、連休中に読んだ。
アメリカにおける能力主義追及が引き起こしたことについて、政治的側面に止まらずにまとめられている一冊。
著者は能力主義を全否定してる訳ではないが、当初の思惑と異なる方向に能力主義が進み、それが結果としてエリート層の傲慢に繋がっていったということが、読んでいて伝わってきた。
著者は労働の尊厳を取り戻すこと、共通善が大事だと主張する。共通善の具体的なことはいまいち触れられていないのだが、ここで挙げられていることは対岸の火事とも思えないと感じた。
少し本題からずれるが、個人的に科学を勉強するほど環境問題について意見が割れたという調査結果が、驚きだった。
科学者でもトンデモが出てくるのも、この理論からなのか…
2021/05/10 22:10
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【感想】
トランプ当選後、彼を支持していた白人労働者にキャスターがインタビューを行っていた。
テレビカメラを前に興奮気味に話す彼に投げかけられた、「何故トランプに投票したのか?」という質問への答えが、私の中で強く印象に残っている。
「トランプだけが、俺たちの話を聞いてくれる」
その言葉は、分断の原因をこの上なく端的に説明してくれていた。
現代社会の根幹を成す学歴主義――勉強さえしっかりすれば誰でも成功できるという信仰――が、実のところ富める者をさらに裕福にしているだけだということは、今や広く知られる事実である。
しかし、かといって全ての大学入試をくじ引きで行うわけにもいかない。万人が平等の所得を得られるよう、ランダムに職業を割り当てるわけにもいかない。
民主主義社会においては一定の能力主義と格差はつきものなのだ。
では、能力主義のどこが不公平なのだろうか。
それは、能力主義によって格差が生まれることではなく、能力主義世界にいるにもかかわらず、階層間を上がるための努力を重ねても状況が好転しないことにあるのだ。そして、成功者たちが「努力」という曖昧な概念を紋切型に当てはめて、「努力をしたけれども這い上がれなかったのは、努力の量が足りていないからだ」と、各人の事情も知らずに切り捨てることにあるのだ。
努力という言葉は、確かに甘い響きを持っている。
しかし、よく考えてみれば、努力とはなんとも抽象的で胡散臭い概念ではないだろうか?
「才能」と「努力」というのは、本来であれば複雑に絡み合っており、簡単に切り離せるものではない。優秀な成績を収めた者にとっては、どちらが優位に働いたかというのは分からないままだ。
ただし、「敗者が負けた原因」を論じる際には容易に分離できる。「お前が失敗したのは努力が足りなかったからだ」と、簡単に切って捨てることが可能になるのだ。
とすると、「才能」と「努力」をめぐる議論が紛糾し、能力主義を擁護するのに役に立ちそうにない理由というのは、強者側がこの言葉を、自分に都合のよい文脈で恣意的に使っている点にあるのではないだろうか。言いかえれば、自説を補強するためだけに言葉を悪用しておきながら、敗者側の言い分を聞きもせず上から抑えつけていることにあるのではないだろうか。
歴史を紐解くと、こうした「都合のよい言葉」の数々が、労働者に不信感を与え続けてきた。
グローバリゼーションでは、労働環境の複雑化に伴って果たすべきだった「国内労働者の権利保護」を政府が放棄し、「より能力の高い働き手になろう」という言葉で、ツケを労働者側に押し付けていることをごまかしていた。
また、リーマンショックで銀行に救済措置を行ったときの「規模が大きすぎて潰せない。公的資金を注入せざるを得ない」という言い訳は、それほどまでに脆弱化したシステムにメスを入れずに放置してしまった政府の責任を、債務者のリテラシー不足とすり替えてしまった。
結局のところ、エリート層と政府は、労働者の話など聞かず、自分に都合のいい文脈で言葉���すり替え続けていたのだ。
こうした積み重ねが労働者の怒りを買い、トランプを勝利に導いた。
彼らにとって「話を聞いてくれる人」は、今までどこにも存在しなかったのだ。
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【本書の概要】
能力主義的な信念は、連帯をほとんど不可能なプロジェクトにしてしまう。われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。
消費者的共通善ではなく市民的共通善が、機会の平等ではなく条件の平等が必要だ。
サンデルの主張は次のとおり:大学入試については、社会階層別アファーマティブ・アクションと適格者のくじ引きによる合否決定を行う。また、名門大学における道徳・市民教育を拡大する。労働や福祉については、賃金補助と消費・富・金融取引への課税を行う。
これを通じて、社会的に評価される仕事の能力を身に着けて発揮し、広く行き渡った学びの文化を共有し、仲間の市民と公共の問題について熟議する社会のあり方を目指す。
【本書のまとめ】
1 能力への入札
勝者は自らの才能と努力によって成功を勝ち取ったと信じたがる。裏を返せば、失敗すれば、その責めを負うのは自分だけなのだと信じ込んでしまっている。
この考えが市民感情を蝕んでいる。自分のことは自分で作り上げるという考えが強くなるほど、感謝の気持ちや謙虚さを身につけるのはますます難しくなるからだ。
2 勝者と敗者
労働者階級と中流階級の多くの有権者がエリートに感じている怒りを駆り立ててきたものはなんだろうか。それは不平等自体よりも、その裏にひそむものであった。
不平等の拡大を受け、主流派の政党と政治家は、労働者の再教育や人種・ジェンダーの壁を取り除くことで対処してきた。これは「機会のレトリック」であり、そのレトリックを支える考えは、「機会を与えさえすればみな努力する」「やればできる」というものだった。
そのレトリックはもはや破綻している。現代の経済においては、生まれによる格差が機会の平等を凌駕している。貧しい親のもとに生まれた人は大人になっても貧しいままなのだ。
そしてなにより、例え完全な能力主義が実現したとしても、正義にかなう社会となるかどうかは疑わしい。自分の才能のおかげで成功を収める人々は、同じように努力していながら、市場がたまたま高く評価してくれる才能に恵まれていない人々よりも、多くの報酬を受けるに値するのだろうか?
能力主義的なおごりは、勝者の次のような傾向を反映している。すなわち、彼らは自らの成功の空気を深く吸い込みすぎ、成功へと至る途中で助けとなってくれた幸運を忘れてしまうのだ。
同時に、能力主義は敗者に屈辱を与える。能力主義社会の中で低い地位にあることは、100%自己責任として勝者から見下されることになる。
トランプを代表するナショナリズム政治に勝利をもたらしたのは、この屈辱が復讐心に転化して人々を動かしたからなのだ。
3 「能力の道徳」の歴史
かつてのカルヴァンやピューリタンにとって、神の目から見れば誰もが同じように卑しい存在であった。誰もが報いを受けるに値しないのだから、救済は神の恩寵にすがるしかなかった。
しかし、リベラル化した神学者が自らを救う人間の能力を強調し始めると、成功は個人の能力と摂理による予定の収斂を意味するようになった。信仰が経済的不平等を宗教的に承認する手段となったのだ。
「繁栄の福音」という言葉がある。「神は信仰に対して富と健康をもって報いる」とする考えのことだ。
この言葉は裏を返せば、世に起こるあらゆることは、われわれの生き方への報酬あるいは罰である――われわれの偉大さは善良さに由来し、今苦しんでいるものはそうしなかった罰が下っている――という考え方なのだ。
4 出世のレトリック
能力主義の専制を打破するということは、能力を考慮せずに仕事や社会的役割を分配すべきだという意味ではない。そうではなく、成功についてわれわれが抱く概念を再考し、頂点にいる者は自力でそこに登りつめたのだとするうぬぼれに疑問を呈しなければならないのだ。
能力主義にとって成功は美徳だ。われわれは自分の運命に責任があり、わたし自身の価値は自力で手に入れたものに値しているという考えが強まっている。頂点を占める人々も底辺に甘んじる人々も、自分のいるべき場所に立っているという風潮がある。
加えて、機会に対する不公平な障壁を取り除きさえすれば、誰もが才能と努力の度合いによって自分の居るべき場所に到達するはずだという考えも一般的になっている。同様の理論は「能力」の観点のみならず「責任」の観点にも適用されている。
これが出世のレトリックであり、オバマまでの米国大統領が揃って口にした概念である。
しかし、能力主義エリートは次の点に気づかなかった。それは、底辺から浮かび上がれなかったり、沈まないようもがいている人々にとって、出世のレトリックは将来を約束するどころか自分たちをあざ笑うものだったという事実だ。
能力の専制の土台には一連の態度と環境があり、それらが一つにまとまって、能力主義を有害なものにしてしまった。次の3つが具体的な害だ。
①自己責任論が人々の連帯を蝕んだ。
②大学の学位の過度な尊重が学歴偏重の偏見を生み出し、大学に行かなかった人々を貶めた。
③社会的・政治的問題を最もうまく解決するのが、高度な教育を受けた価値中立的な専門家だと主張することが、民主主義を腐敗させた。
多くのアメリカ人は、賢明に努力する人々が出世できる「アメリカン・ドリーム」を信じている。しかし、今日の世界では、アメリカ本国にそのチャンスは少なく、北欧諸国や中国のほうが、経済的流動性(階層移動の確率)が高く、アメリカン・ドリームを体現できる環境にある。
5 学歴偏重主義
学歴が武器となる現象は、能力や功績がいかにして一種の専制となりうるかを示すものだ。
この数十年のあいだに、リベラルで進歩的な政治によってなされた基本的主張は、グローバル経済が、まるで人間の力の及ばない事実であるかのように、どういうわけかわれわれにのし��かり、頑として動こうとしないというのだ。政治の中心問題は、そうした事態をいかにして変革するかではなく、いかにしてそれに適応するかであり、低所得労働者の保護ではなく安楽死であったのだ。
状況を変えるための具体的な方法として提案されたのは、彼らもまた「グローバル経済の中で競争し、勝利を収める」ことができるようにすることだった。
高等教育の間口を広げようとしたのである。
しかしそれは、グローバル経済の中で過酷な状況に出くわしてしまう責任は、大学の学位を持っていない人「自身」にあると暗黙のうちに認めている。
現代の容赦ない学歴偏重主義は、労働者階級の有権者をポピュリストや国家主義者の政党へと走らせ、大学の学位を持つ者と持たない者の分断を深めることとなった。
しかし、学歴偏重主義のなにがいけないのだろうか?高い教育を受けた者に政府を運営させることは、彼らが健全な判断力と労働者の暮らしへの共感的な理解を身に着けている限り、一般的には望ましいと言える。ただ、歴史が示すところによれば、一流の学歴と、実践知や共通善を見極める能力のあいだには、ほとんど関係がない。
それどころか、欧米においては、低学歴の人々も高学歴のエリートたちも、「低学歴者」に――違う人種の人間や性的マイノリティよりも強く――否定的態度を示すことが分かっている。いい点を取る能力と、政治的判断能力や道徳的人格の高さは関係ないのだ。
6 成功の倫理学
実際問題、完全な能力主義社会が実現し、すべての子供に平等な機会が与えられたとき、正義に叶う社会が成立するのか?
それはいささか疑わしい。まず、能力主義の理想にとって重要なのは流動性であり、平等ではない。格差は問題ではなく、自身の努力や堕落によって階層間の移動が容易に起こり得ることを望んでいるのだ。
ハイエクは「功績」と「価値」を明確に区別している。ある人が優れた仕事をしたからといって、その人の価値自体が高いわけではない。たまたま社会が評価してくれる才能を持っていることは、自分の手柄ではなく、道徳的には偶然のことであり、運の問題なのだ。
ロールズは、「格差原理」によって、才能ある者にはその才能を育て発揮するよう促すとともに、そうした才能によって市場で獲得される報酬はコミュニティ全体と分け合うべきだと主張している。
両者はともに、経済的報酬は人々が値するものを反映すべきだという考え方を拒絶している。
「懸命に働き、ルールを守って行動する人々は、その才能が許す限り出世できなければならない」。能力主義エリートはこのスローガンを唱えることにすっかりなれてしまったので、そのスローガンがグローバリゼーションについていけなかった人々への侮辱を内包していることに気づかなかったのだ。
7 高等教育がいかにして選別装置と化したか
コナントは、高等教育の機会の平等化に力を入れていた。しかし、将来の市民全員を政治的民主社会の一員として教育することが大切だと考えてはいたが、公立学校のそうした市民的目的は二の次で、重視したのは地頭のいい学生へ奨学金を貸し付けるという「選抜制度」だった。彼が求めていたのは平等の解消ではなく、ヒエラルキーの位置を流動的に変えられるシステムだった。
彼の理念は、大学を支払い能力による入学から能力にもとづいた入学に変えるというものであり、実際、大学教育は彼の理念どおりに方針転換した。しかし、100%彼が期待したような展開にはならなかった。
①SATの得点は富に比例している。
②能力主義が不平等を固定化している。
③能力主義時代の高等教育は社会的流動性を生まず、特権階級の親が子に与える優位性を強化している。
しかし、勝者が生き残るトーナメント制の高等教育のどこが好ましくないのだろうか?
その理由は2つある。第1に、不平等を拡大したことだ。第2に、勝者に大きな犠牲を強いることだ。
名門大学のキャンパスには裕福な家庭の子女が圧倒的に多いことを考えれば、勝敗はあらかじめ決まっているようなものだ。ところが、熾烈な受験競争の中にいると、合格は個人の努力と学力の成果だとしか考えられない。こうした見方が、「成功は自らの努力の賜物であり、自力で勝ち取ったものである」という信念を芽生えさせる。
こうした大学受験への(たいていは大学入学後も続く)選別と競争の消耗戦のサイクルが、学生にかつてないほどの精神的苦痛を与えている。彼らは「ひそかに蔓延する完璧主義という病」を患っているのだ。
現在の大学入試制度に対するサンデルの意見は主に次の通りだ。
・貧困家庭へのアファーマティブ・アクションを実施する
・標準テストの受験を必須としない
・SATへの依存を減らすとともに、レガシー出願者、スポーツ選手、寄付者の子どもなどの優遇をやめる。
・ある程度適格な受験生の中からくじ引きで入学者を決める(能力を資格の一基準として扱うだけで、最大化すべき理想とは捉えない)。
8 労働を承認する
能力主義の時代は、働く人々を陰険なかたちで傷つけてきた。労働の尊厳を蝕んできたのだ。だからこそ、グローバリゼーションがもたらす不平等が多くの怒りと反感を生んだのだ。
繁栄する人々がいる一方で、グローバリゼーションから取り残された人々は悪戦苦闘しただけでなく、自らの労働がもはや社会的評価の源ではないとも感じてきた。社会の目に、そしておそらく自身の目にも、彼らの労働は共通善への価値ある貢献のようには映らなくなった。
経済的懸念は、自分の懐にあるお金だけに関わるわけではない。経済に果たす役割が社会の中の自分の地位にどう影響するかにも関わる。言い換えれば、経済においてわれわれが演じる最も重要な役割は、消費者ではなく生産者としての役割なのだ。
労働の尊厳について議論することが必要だ。共通善への真に価値ある貢献とは何か、市場の裁定のどこが的はずれなのかについて、慎重かつ民主的な考察を促す方法を論じ、規定することが求められている。
また、税負担を労働から、消費と資産と金融取引に移すことも必要だ。
そして、機会の平等を、広い意味での「条件の平等」に変えていくことも大切である。社会的に評価される仕事の能力を身に着けて、発揮し、広く行き渡った学びの文化を共有し、仲間の市民と公共の問題について熟議することによって、万人がまともで尊厳���る暮らしができるようにしていくことが求められている。
2021/05/11 14:47
投稿元:
日経ビジネス2021516掲載
毎日新聞202158掲載
産経新聞2021523掲載
日経新聞202165掲載
プレジデント2022218掲載 評者:山口周(独立研究者、パブリックスピーカー)
2021/08/14 22:05
投稿元:
【はじめに】
『これからの「正義」の話をしよう』が十年ほど前にベストセラーになったハーバードで政治学の教鞭を取るサンデル教授が、グローバル資本主義の「能力主義」が生む弊害について論じた本。2016年のトランプ大統領の誕生やブレグジットの成立の社会的背景をこれまでとは違う視点で指摘しており、『これからの「正義」の話をしよう』や『ハーバード白熱教室』ほどではないが、日本でもそれなりに売れてベストセラーとなっている。
その内容には反対や留保を付けたがる意見も多いと思われるが、少なくとも謙虚に耳を傾けるべきものが多い。
原題は、”The Tyranny of the Meritcracy”だが、『実力も運のうち』という邦題は出色の出来だと思う。「運も実力のうち」という日本語にうまく掛けた上、本の内容・主張を端的に表現しているし、キャッチ―でもある。副題として添えられた『能力主義は正義か?』も原題の意図を汲んで、著者の主張を明確に伝えるという役割も果たしていてよいと思う。これだけ成功していると思える邦題訳も珍しいかと。
以下、少し長くなってしまったが、ざっと見ていきたい。
【概要】
■ ドナルド・トランプの勝利
トランプが2016年の大統領選を事前の想定を覆して制したとき、さらにはそれ以前にトランプが人気を集めて共和党の予備選を勝ち上がったときから、その理由を多くの人、トランプを支持した人も含めて、おそらくは理解していなかった。少なくとも自分は理解できていなかったその理由を本書は明確に示している。それについて、自分を含む多くの人びとは単に気づこうとしていなかったのかもしれないし、何かがそれを気づくことを妨げていたのかもしれない。
その理由とは巷間そう思われている経済的な不平等や貧困ではなかった。本書によれば、少なくともそれだけではないし、それが主な理由ではないという。彼らの不満の主な理由は、不平等であるがゆえに彼らがエリート層や民主党政治家に見下されていると感じたからだという。そこにあるべき「労働の尊厳」が奪われたことによる怒りがその源であった。そう指摘されると、おそらくはそうだったのだろうと納得がいった。
考えてみれば、不平等の拡大を正当化するためにしきりに持ち出された「トリクルダウン」も随分と見下した考え方である。誰もおこぼれに預かりたいわけではないし、少なくともおこぼれで生かされているなどと他人から思われたくないのは当然だろう。
この話を読んでいたとき、少しほろ苦さとともに思い起こした動画がある。当時、さすがオバマは違うといたく感心した動画だ。
”Slow Jam the News with President Obama”
https://www.youtube.com/watch?v=ziwYbVx_-qg
その年の秋に大統領選挙を控えた2016年6月、トランプの勢いがいよいよ無視できなくなっていた中で現職大統領であるオバマが有名なトークショーに登場し、定番コーナー”Slow Jam the News”で、二期に渡って務めた大統領としての成果をバンドの音に乗せて歌い上げている。このとき、オバマも数か月後にヒラリーがトランプに負けるなどとは思っていなかっただろう。気候変動対策、オバマケア、同性婚、キューバ、イラン核���意、TPPなど ―― いずれも歌の中でその名前を挙げることで笑いが起きたトランプによって後にズタボロにされた政策が並ぶ。トランプ支持者は、それがオバマ政権が推し進めた政策だからというだけではないだろうが、喝采を送ってトランプを称えた(ように思われた)。
今見返すと、この動画には民主党やエリート層が持っていた驕りの態度というものが詰まっている。オバマはたくさんの仕事を作ってきた、と胸を張り、”He put us back to ... work, work, work, work, work♪”と歌う。しかし、トランプを支持していた人びとが求めていたのは単なる仕事ではなく棄損されてきた「労働の尊厳」だったことをわかっていなかった。民主党に必要なことは、Netflixのドラマをもじって”Orange Is NOT the New Black”などとオバマがうまいことを言うことではなかった(オレンジはトランプのイメージカラー)。オバマやヒラリーなど民主党員や支持者の態度は既存の支持者をさらに惹きつけることはしたが、彼らに反する人びとからはさらなる反発を招くだけだった。そのアピールは結局は投票行動を変えることなく、その分断をますます深くするだけだった。彼らは、与えた成果を誇るのではなく、謙虚になって感謝を口にするべきだったのに。そして、そのことを誰もわかっていなかったのが大きな問題だったのだ。そういったことが本書では事例を挙げて繰り返し説明される。その原因が原書のタイトルにもなっている「能力主義の専制」であることが説明される。
■ 能力主義の専制 (The Tyranny of the Meritocracy)
主流の政党や政治家を含めて、いわゆる成功を勝ち得た人びとは、自分たちの側にはいない人びとの不満が何であるかに気が付かなかった。経済的不平等があることは認めつつ、それを克服するための機会はこのアメリカでは誰しもに平等に開かれており、その気があれば誰でも同じ立場になることができるのですよ、と言うことでよしとしていた。その能力主義のテーゼである出世と責任のレトリックは、能力主義社会における成功者が必然的に持つことになる観点とマッチし、成功に手が届いていない人に対してではなく、自らに対して非常に心地よい言葉であったために、そのことに疑問を差し挟むことができなかったのだと次のように指摘する。
「「懸命に働き、ルールを守って行動する人びとは、その才能が許すかぎり出世できなければならない」。能力主義エリートはこのスローガンを唱えることにすっかり慣れてしまったので、それが人を鼓舞する力を失いつつあることに気づかなかった。グローバリゼーションの恩恵を分かち合えない人びとの怒りの高まりにも鈍感で、不満の空気を見逃してしまった。ポピュリストによる反発は彼らを驚かせた。能力主義エリートは、自らが提唱する能力主義社会に内在する侮辱に気がつかなかったのだ」
それが、トランプが選挙を制することを許した理由だった。なぜなら、成功者はあまりにもそれが自分にとって当たり前であるがゆえに違う考え方があるということに気が付かなかったからだ、という指摘だ。さらに踏み込んで言えば、それに気付きたくなかったのだ。
「不平等な社会で頂点に立つ人びとは、自分の成功は道徳的に正当なものだと思い込みたがる。能力主義の社会において、これは次のことを意味する。つまり、勝者は自らの才能と努力によって成功を勝ち取ったと信じなければならないということだ」
成功者は能力社会の正当性を心から信じるあまり、反対側から見ると自分たちの主張がどのように見えるのかを考える想像力が欠けていた。想像することの必要性を感じることができず、想像するという発想すら妨げられていたのだ。サンデルの次の指摘はおそらく正しいと思う。自分は納得した。
「底辺から浮かび上がれなかったり、沈まないようもがいている人びとにとって、出世のレトリックは将来を約束するどころか自分たちをあざ笑うものだったのだ。トランプに一票を投じた人たちには、ヒラリー・クリントンの能力主義の呪文がそんなふうに聞こえたのかもしれない。彼らにとって、出世のレトリックは激励というより侮辱だった」
この行き過ぎた能力主義の弊害の指摘がこの本の主題である。サンデルは、この「能力主義(Meritocracy)」という言葉を初めて使ったともいわれているマイケル・ヤングが能力社会をディストピアとして描いた1958年の先見性のある風刺小説「The Rise Of The Meritocracy」の紹介や、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘した神の恩寵の変質、ハイエクとロールズという対極的な主張を持つ思想家の能力主義に対する意外な共通性の分析、などを通して能力主義の課題をしつこくあぶり出していく。
■ 大学受験競争の過熱と「くじ引き」の意義
そのような能力社会において、教育の重要性を強調することは、能力主義の正当性を支える上での肝になっている。貧困家庭の学費無償化や奨学金の強化は、経済的な理由で大学進学をあきらめるようなことがないようにという正しそうに見える理由から、機会の平等性を担保することで逆に成功者自らの現在の状況を平等な競争と努力の結果であると正当化することに貢献している。
実態としては、裕福な家庭の子息は受験競争において大いに優位に立っている。この本によると、アイビーリーグの学生の2/3あまりが所得規模で上位20%の家庭の出身であり、プリンストン大学とイェール大学にいたっては、国全体の上位1%出身の学生の方が、下位60%出身の学生よりも多い状況であるという。つまり、個々人の努力以前にどういう家庭に生まれたかということが、上位校に行くことができるかどうかを大きく左右しているのだ。しかしながら、成功者はその「幸運」を簡単に忘れてしまう。
貧困家庭から出てイェール大学を卒業して成功をつかんだ『ヒルビリー・エレジー』の著者とその物語は、貧困と尊厳の喪失に喘ぐ人びとの希望などではなく、言い訳を封じてしまう忌むべき存在であるのかもしれない。
個人的には、アメリカの受験戦争がいまや日本よりも激しくなっているということに驚いた。「いまや学歴授与機能が肥大化し、教育機能を圧倒しているのだ。選別と競争が、教育と学習を押しのけてしまっている」とのサンデルの指摘は、過去の日本と同じだ(今はずいぶんとマシになっているように感じるが)。昔は、日本の大学は入るのは難しく出るのは易しいので、大学がレジャーランドになるとして批判され、一方でアメリカの大学は入るのは易しいが、出るのは難しいので皆必死で勉強すると持���上げられていたのだが。韓国や中国でも受験競争は熾烈を極めるとも聞くが、よい大学が出世のための切符だといったん認識されると、その社会や文化の違いに関わらず同じ状況に収斂するものなのかもしれない。大学の学位、特に上位校のそれは、規律に従って受験を通りぬけることができる能力を有している「シグナル」として機能しており、採用する企業側がその人の能力を評価する手軽で効率的な指標のひとつとなっているのだ。長らく維持されていた大企業での終身雇用の神話が崩れて、東大や京大に行っても成功するとは限らないよ、という必ずしも妥当かどうかはわからない認識が広まりつつある日本は逆に受験競争の熾烈さは緩和されているのかもしれない。
本書は、アメリカで起きた大規模で組織的な大学入試の不正問題から始められている。その事件が能力主義がいかに社会に根深く浸み込んでいるかを示しているからである。サンデルはあるべき大学教育と過熱する受験競争について詳しく持論述べるのだが、それは彼が教育を能力主義へ対抗する際に、アプローチすべき重要な標的のひとつであると認識しているからだろう。
サンデルは大学入試について次のことを提案する。
1. SATへの依存を減らす
2. レガシー出願者、スポーツ選手、寄付者の子どもなどの優遇をやめる
3. 一定の基準を満たした層でのくじ引きの採用
なるほど、1.や2.は、SATが共通試験に当たるとすれば、東京大学が堅持していた入学試験方針ではある(どうやら2016年から推薦入試を始めたらしいが)。ただ、よい問題が多いとの評価もある二次試験一発勝負は能力主義と成功者の驕りをさらに高めるようにも思うが。サンデルは、よほど2.の弊害が大きいと感じているのだろう。
3.のくじ引きの採用については、おそらく実際に行おうとすると能力主義や平等の観点から大きな反発が想定される。しかし、自分としてはサンデルの意見におそらく賛成である。また、もう少し踏み込んで考えると、能力主義による選抜は大学入試以外の様々な場面で行われているのであるから、受験以外の場面でも採用されてもよい制度ではないかとも思う。例えば、裁判員が抽選で選ばれるのであるから、議員の選出の過程の一部に抽選を取り入れてもよかろう。議員の多様性の確保にもそれは貢献するだろうし、民主主義的概念を絶対的価値と信ずるなら、それにも適うだろう。
くじ引きという仕組みを取り入れることに違和感と嫌悪感を覚えるとすると、それはもしかしたら能力主義の専制の罠にはまっている証拠なのかもしれない。もし、能力主義が必然的に次のような弊害を生み(そうであるように思われる)、また同時に社会から取り除くことが不可能であるのであれば、その課題を解消するためのくじ引きという「仕組み」の導入はもっと真剣に検討されてもよいように思われる。そこには新たな道徳の起源となるものがあるようにも思われるのである。
「頂点に登り詰める人の場合、不安をかき立て、疲れ切ってしまうほどの完璧主義に導き、脆い自己評価を能力主義的なおごりによってどうにかごまかすよう仕向ける。置き去りにされた人には、自信を失わせ、屈辱さえ感じさせるほどの敗北感を植えつける。
これら二つの専制には、共通の道徳的起���がある ―― われわれは自分の運命に個人として全責任を負うという普遍の能力主義的信念だ」
くじ引きは自分の運命は自分の責任だという信念を壊してくれるだろう。そして、日本ではすでに国立小学校の受験においてくじ引きが制度として採用されていることと(目的は若干違っているが、一部の効果は同じものがあると思われる)、柄谷光人という人がNAMという団体で代表者をくじ引きで決定するという試みを行っていたことをサンデルさんには伝えたい。
■ 共通善 (Common Good)について
本書で、”Common Good”を「共通善」という聞き慣れない言葉に訳しているが、「公益」とした方が分かりやすいのではないだろうか。「共通善」とすることで、何らかのこれまでにはない新しい概念であるかのように誤解させ、理解を妨げてしまったのではないか。サンデルはここでそれほど難しいことを言っているわけでも新しいことを言っているわけでもないように思われる。「公益」というより一般的であろう訳語を当てていれば、もっと最後の提言や理念を語ったパートが理解されやすくなったのではないか。
一方、インターネット上のブリタニカ国際大百科辞典で試しに「共通善」を引いてみると、次のように説明されている。
「共同体の成員によって達成すべく合意された普遍的価値ないしは集合的目標をさすが,しばしば支配の正統性の根拠とされる政治思想史上の概念である。中世キリスト教世界では,カトリック信仰の確立とキリスト教的諸価値に基づく社会の安寧が共通善とみなされ,それに合致するかどうかの解釈権は教会のものであった。近代になると,中世的世界観の解体と自由な個人の出現によって,共通善の解釈に新たな問題が生じる。すなわち,それが政治社会全体の利益なのか社会の成員一人一人の利益の総体なのかという議論である。それは,同意を正統性や政治的服従の根拠とする解釈から共通善をへだてる議論でもある。ルソーによる一般意志と全体意志の区別は有名であるが,それはカントや功利主義者の議論を経て,今日においても政治哲学上の大きな論点である」
これを読むと単に「公益」と訳すのもサンデルが伝えようとする大きな何かを落としてしまうような気がする。訳者も悩んだ点だったのだと理解した上で最後の章は読み進めるべきなのだろう。
「だが、共通善に到達する唯一の手段が、われわれの政治共同体にふさわしい目的と目標をめぐる仲間の市民との熟議だとすれば、民主主義は共同生活の性格と無縁であるはずがない。完璧な平等が必要というわけではない。それでも、多様な職業や地位の市民が共通の空間や公共の場で出会うことは必要だ。なぜなら、それが互いについて折り合いをつけ、差異を受容することを学ぶ方法だからだ。また、共通善を尊重することを知る方法でもある」
上記の指摘を読むと、大学受験の仕組みへの提言とされたくじ引きの多様な社会システムへの導入が、何だか「共通善」の実現の鍵になりうるのではないかとも思える。何となれば、サンデルが主張する「共通善」実現への必要条件とすら思えてくる。神の恩寵がかつていた場所に、代わりにくじ引きの恩寵がその場所を見つけるのである。それは極論なのであろうか。
本書は、次��ような成功者への呼びかけで終わっている。
「いったいなぜ、成功者が社会の恵まれないメンバーに負うものがあるというのだろうか?その問いに答えるためには、われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば、ある種の謙虚さが生まれ、こんなふうに思うのではないだろうか。「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた」。そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ」
【所感】
すでに言いたいことはここまでに書いてしまっているような気がする。
この本の受け止め方は、読む側が分断線のどちら側にいると考えているのかで大きく違ってくるだろう。サンデル自身は、この本のメッセージを分断線よりも上にいるエリート層に向けて発している。何しろ自身がハーバード大学の教授であり、いつも授業で話しかけているのはエリート層にいるであろうハーバード大学の学生なのだ。このことは、報道ステーションが行ったサンデルへのインタビューの中で明確にコメントしている。
https://www.youtube.com/watch?v=N-HrFRnATTE
(17:55 「そうですね 私のメッセージは 主にエリートや政治家に向けられたものです」 マイケル・サンデル)
ただ、どちらの立場にいようともサンデルがここで指摘する内容は現在のグローバル資本主義社会において非常に重要な指摘だということは言えると思う。
「能力主義の倫理は、勝者のあいだにはおごりを、敗者のあいだには屈辱と怒りを生み出す」ということが必然であるならば、何らかの対応が必要な時期に来ていると思われる。そして、サンデルのその指摘をまず第一に受け止めるべきであるのは、成功を味わっている層なのだ。大学受験競争過熱への対策として提案されたくじ引きの受験に限定しない社会システムへの何らかの導入は試みられてよいのではと思った。それには、本書で論じられた内容や倫理的感覚が広く受け入れらることが必要ではあると思うが。
同じような主張を繰り返す、というサンデルさんのいつもの癖が出ていて長くなってしまうというところはあるが(大事なことなので繰り返し言ってます、ということなのだろう)、多くの気づきを得られた本であった。
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『ヒルビリー・エレジー』(J.D.ヴァンス)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4334039790
『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』(マイケル・サンデル)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4152091312
『完全な人間を目指さなくてもよい理由-遺伝子操作とエンハンスメントの倫理-』
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4779504767
『それをお金で買いますか――市場主義の限界』
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/415209284X
2021/06/06 00:14
投稿元:
"「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた。」そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。"