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雑事に追われて何となく過ごしてきた愚かな日々。漠然となんの根拠もなく、人生はずっと先まで続いて行くような気がしていました。でも明日死んでしまうことだってあるのです。「今日を最後の一日と決める」「悔いのないように今を生きる」・・わかっていても難しいですね。
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暴君ネロの元・家庭教師(途中で処刑されてしまう)、セネカの処世訓。内容は非常に含蓄があって、現代に生きる我々にも充分役に立つ。そうやっていいことを書いているにもかかわらず殺されてしまうあたり、当時の知識人の悲哀が感じられたりもする。
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答えがない。というのも、セネカ自身が答えの様々な可能性のなかで揺れているからだ。
一文を引用
「十分な冊数の書物を求めるのはよいが、一書といえども贅沢のためであってはいけない」
うむむ・・・
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セネカ(前4頃‐後65)はローマ帝政の初期というひどく剣呑な時代に生きた。事実、かつての教え子ネロ帝から謀反に加担したと疑われ、自殺を命じられるのである。良く生きれば人生は十分に長いと説く表題作、併収の『心の平静について』『幸福な人生について』のいずれもが人生の苦境にたちむかうストア哲学の英知に満ちている。
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お〜ぉ昔に、既にこんなことを考えている人がいたんだなぁという点が感慨深かった。
人類・人間というものに感動を覚える。
ありふれているかもしれない一つ一つの言葉が上記感動と共に身に染みる一冊。
老齢となり、自分の人生をいつか振り返る時が来た時に、自分の人生の使い方を整理した際に『何にどう時間を使っていたのか』、そして、それをどう感じるのか、考えさせられる一冊でした。
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■目的
人生について考えてみる。
■本の内容・特徴
時間の大切さ。また、自分のできること(狭い範囲)に集中。運命の流れに逆らわず甘んじて受け入れ、心を乱されないこと。
などについて。
ストア哲学。
■感想
基本的な考え方は、『7つの習慣』の「自分の影響できることに集中する」ということと同じだと思います。一日一日、またはこの瞬間というのは、限りある人生(時間)という物差しで見ると何より大切なものであり、影響できない事に惑わされず自分のできることに集中する、その重要性を感じました。
■引用
どの生もみな、奴隷的屈従である。それゆえ、人は自分の境遇に慣れねばならぬ。そして境遇についてできるだけ不平を言わず、自分の周囲に為になるものがあれば、なんでも掴まえねばならぬ。(P95)
あらゆる労力は一定の目的に向けられねばならず、一定の目的を顧慮しなければならぬ。勤勉が人々の落ち着きを失わせるのではなく、物事に対する誤った観念が人々を狂人にする。(P104)
幸福な人生の基は、自由な心であり、また高潔な、不屈にして強固な心であって、恐怖や欲望の圏外にある。それは徳行を唯一の善とし、背徳を唯一の悪とし、その他のものは価値のない雑物の集まりに過ぎないとする。(中略)このような人は自己自身のものに喜びを感じ、しかも自己本来以上のものを求めることはない。(P129)
幸福な人は、判断の正しくできる者である。幸福な人は、たとえ現況がどうであれ、それに甘んじ、自己の境遇に親しんでいる者である。さらに、幸福な人は、自己の生活のすべての在り方を理性から委されている者である。(P131)
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『心の平静について』:自分自身から逃れるために変化を求めてさまよい、また同じ所に戻ってきてを繰り返してついには環境のせいにする。。。と。耳が痛いです。まあね、ストア派な彼のことですからとにかく心を高みにもってけ!みたいな理論はお断りだ!って感じですが。いやでも、なにかを成し遂げるには、正気を越えた感動が不可欠だと、さらに、平静な心の強さを保つには、動揺する心を常に細心の注意をもって包み込まなければ行けないと。含蓄にとんだお言葉がございましたよ、ええ。図太さと繊細さ、冷静と情熱、このバランスを保持する力こそ、人間の強さなんやねー。
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「われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。」
「われわれは人生に不足しているのではなく浪費しているのである。」
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「人生の短さについて」
時間の大切さについて、考えさせられる1冊。
「暇」の重要性を説いているが、果たして「暇」とは何なのか、どのように過ごせばよいのか、そこら辺をよく考えなければならないだろう。
自分の人生の過ごし方について見直すべきときなのだろう。
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○生の短さについて
・われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する。
・生のこの期間は、自然のままに放置すれば足早に過ぎ去り、理性を用いれば長くすることのできるものである。
・全ての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり(真に)生きている人なのである。
○心の平静について
・公人としての務めを話そうとする意気込み、行動を望む、生来落ち着きのない精神は、当然、みずからの内に見いだせる慰めが僅かなために、そうした閑暇の生や孤独な学問研究には耐えられないからだ。
・最善の策は、実生活の行動に従事し、国政に携わり、市民の義務を果たすことに専念することであろう。
・演壇や民会に近づくことが君には禁止されているとしてみよう。しかし、無辺の領域のどれほど広大な領域がまだ君の背後に開けているか、どれほど多くの諸国民がまだ君の背後に残されているか、振り返って眺めてみると良いのである。
・われわれはまずわれわれ自身の問題を、次にはわれわれが取り組もうとする仕事の問題を、次には誰のために、あるいは誰と共に仕事をするのかという問題を吟味してみなければならない。
・多数の著作家のあいだを当てもなく渡り歩くよりは、少数の著作家に身を委ねるほうがはるかにましなのである。
・自分が母胎に宿された、まさにその瞬間から死を定められていることを弁えているものは、その約定に従って生き、変わることのない強固な精神力をもってそれを履行するから、生じる出来事の何一つとして突発的なものはない。
・われわれは心を柔軟にし、予定したことに過度に執着しすぎないようにもしなければならず、偶然の出来事が我々を導いいた状況に順応し、静謐さの最大の敵である軽薄さが、取って代わって、われわれを支配しない限りは、計画や境遇の変化を恐れないようにしなければならない。
・四六時中精神を同じ緊張状態においてはならず、時には緊張から逸らして娯楽に向かわせるようにしなければならない。
○幸福な生について
・何よりも肝要とすべきは、羊同然に、前をいく群れに付き従い、自分の行くべき方向でなく、皆が行く方向をひたすら追い続けるような真似はしないことである。
・幸福な生徒はみずからの自然(の本性)に合致した生のことであり、その生を手に入れるには、精神が、第一に健全であり、その健全さを永続的に保持し続ける精神であること、次には勇敢で情熱的な精神であること、さらに見事なまでに忍耐強く、時々の状況に適応に、己の肉体と、肉体に関わることに気を配りながらも過度に神経質になること無く、また、生を構築するその他の事物に関心を寄せながらも、そのどれ一つをも礼讃することなく、自然の賜物を、それに隷属するのではなく、用に供する心構えでいる精神であること以外に道はない。
・われわれは自由を目指して脱出しなければならないのである。その自由を与えてくれるものは、運命の無視をお���て他にない。
・幸福な人とは、それがどのようなものであれ、現在あるもので満ち足りている人、今ある自らの所有物を愛している、自らの所有物の友である人のことなのである。幸福な人とは、理性の勧めに耳を傾け、理性の勧める、自らが関わる物事のあり方を受け入れる人の事なのである。
・賢者は富のただ中にあるときこそ、とりわけ貧窮に思いをいたすからである。
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「他者への信用」よりもむしろ「自らの判断」に拠って生き、他者のためでなく自分のための時間を過ごすべき。自分の今後の人生観に少なからず影響を与えるであろう一冊だと思います。
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多くの病人の死亡原因は、自分の病気を知ったことであった。
誰にでも起こりうるのだー誰かに起こりうる出来事は
多忙な怠惰
ヘラクレイトスは公衆のなかに進んで行くたびに泣いたが、デモクリトスは笑った。前者には人間のしていることがすべて哀れに見えたが、後者には愚かに見えたのだ。
弱い心を保護するに十分強力であるためには、真剣な絶え間のない気遣いをもって動揺する心を包んでやらねばならぬ。
われわれを害悪に巻き込むことの最も甚だしいのは、多数者の賛成によって承認されたことを最善と考えて世論に同調することであり、また沢山のことを我々の先例として、道理に従って生きるのではなく模倣に従って生きることである。
幸福な人は、判断の正しくできる者である。幸福な人は、たとえ現況がどうであれ、それに甘んじ、自己の境遇に親しんでいる者である。
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<抜粋>
我々は人生に不足しているのではなく、我々がそれを短くしているのである。p10
かつてはは君に、君がどんな人であろうとも、目をかけてくれたし、君の事はに耳を傾けてくれたし、君を傍近くに迎えいれてくれたこともある。それなのに気味は、かつて一度も自分自身を省み、自分自身に耳を貸そうとはしなかった。p13
あなたが持つ年月は、あなたが数える年月よりも、もっと少ないでしょう。p14
諸君は今にも死ぬかのように全てを恐怖するが、いつまでも死なないかのように全てを熱望するp15
実際多忙な人に限って、生きること、即ち善く生きることが最も稀である。また、生きることを学ぶことほど難しいことはない。p22
髪が白いとかしわがよっているといっても、その人が長く生きたと考える理由にはならない。長く生きたのではなく、長くあったに過ぎない。p25
生きることの最大の障害は期待をもつということであるが、それは明日に依存して今日を失うことである。p28
万人のうちで、英知に専念するもののみが暇のある人であり、このような者のみが生きているというべきである。p42(歴史に生きる)
現に暖かい地の通っている間に、はつらつとした元気をもって、より良い方向に進まなければいけない。この主の生活においてか意味を待ち構えているのは、幾多の立派な仕事である。すなわち、説くの愛好と実践であり、情欲の忘却であり、生と死の認識であり、深い安静の生活である。
人々は自分からも暇を得ることの方が、法律から得るよりも難しいわけである。
あえて自分自身に真実を亜kたる人は稀ではないでそうか。たとえ賞賛者・迎合者の群の中に身を置くとしても、自分が自分の最大の追従者ではないでしょうか。p67
誰でも彼でもこんな風に、いつも自分自身から逃げようとする。(ルクレティウス)p74
我々がまず第一に吟味すべきは自分自身であり、次は、今から始めようとする仕事であり、その次は、仕事の相手とか仕事の仲間ということになろう。p83
また事物の効用は評価しても装飾は評価しないように習慣をつけよう。p90
十分な冊数の書物を求めるのは良いが、一緒といえども贅沢のためであってはいけない。p92
誰にでも起こりうるのだ。誰がに起こりうる出来事は。p100
我々は無益なことに骨折ってもいけないし、無益に骨折ってもいけない。
死によって不死に達したのである。p113
我々が知ろうとするのは、一体何を行うのが最善であるか、ということであって、何が最も多く世の中に行われているか、ということではない。p124
最高の善は心の調和である。p136
哲学者が財産を軽んずべきだというのは、それを持ってはならぬ、とういのではなく、それにこころを動かされずに持て、ということなのである。
p159
私の場合は財産がある程度の位置を占めるに過ぎないが、君の場合は最高の位置を占めている。要するに、財産は私の持ち物であるが、君は財産の持ち物である。
仁税の現実派、たとえ君達が自分の状況をあまり承知していないにしても、自分よりも立派な人々の悪口を言うため下を会ってニ動かす余��のあるほど、それほど暇が有り余っている状態には無い。p176
<感想>
非常に痛快に感じられる文章が多かった。存在論ではなく、意味論で人を、人生を語っていると感じられた。他人や財産の奴隷になるのではなく、自分がまず自分の支配者になり、泰然とした状態で得を追求していけるのが重要なのだと思った。自分を大事にするという言葉が何度か出てきたが、それは自己の利益を追求するといった意味ではなく、責任、より良い人生、他者へのあり方を考えるときの「主体」としての自分を考えるという意味なのだと考える。自分の本質とは何か、ということに今一度目を向けさせられた一冊。
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善く生きれば人生は短くないと説く短い本。
セネカと言えば、ローマ帝政の初期の哲学者で、イエス・キ1とほぼ同時代を生きた人です。そのセネカが書いたのがこの本で、人生は短いと嘆く多くの人達に対して、「われわれは、短い時間を持っているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大な事をも完成できるほど豊富に与えられている」と説いています。
これは、2000年前のローマの時代の言葉ですが、現代でも十分に通用します。仕事と遊びが繰り返す毎日を送り、いつの間にか季節が巡り、年を取った自分が一体何をしてきたのだろうと思うことがあります。こんな疑問が湧くこと自体が、時間を浪費している証拠なのかもしれません。今からでも遅くないので、セネカの言葉に従って、充実した毎日を送りたいものです。
ちなみにセネカは、皇帝ネロに自殺を命じられます。
自分自身の運命を予期していたからこそ、自分の大事な時間を善く生きたいと願っていたのかもしれません。
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自らの行為が誰のためのものなか。
そして、その行為は人生における残り時間の総量のどれ程を占めるものなのか。
時間の捉え方が人生の捉え方を規定する。