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あとがきのあとおべんとうの時間がきらいだった 阿部直美氏
昼食に透ける家庭の暮らし
2020/8/22付日本経済新聞 朝刊
ふつうの人が食べている弁当を取材して20年近くになる。写真家の夫、阿部了とともに全日本空輸の機内誌「翼の王国」で連載してきた。そんなライターが自分が食べてきた昼食を振り返りながら、弁当と家族について考えた。
あべ・なおみ 70年群馬県生まれ。独協大卒、会社員などを経てフリーライター。写真家の夫、阿部了との共著に『おべんとうの時間』など。
あべ・なおみ 70年群馬県生まれ。独協大卒、会社員などを経てフリーライター。写真家の夫、阿部了との共著に『おべんとうの時間』など。
「お弁当からは、家庭の日々の暮らしが透けて見える。たいてい前の晩の残りものが入っているので、家族の情景が浮かんでくる。両親の仲が悪かった私はお弁当が大嫌いだった」
地方の小さな温泉町で育ち、すぐ怒鳴る偏屈な父にビクビクしていた。母はいつも忙しそうで、弁当に彩りがほしいと訴えれば途端に不機嫌になった。高校生になって映画やドラマで憧れた米国に1年留学したがなじめず、ひとりぼっちのランチがつらくてトイレでドーナツをかじったこともあった。
自ら家族をもつようになって食生活が劇的に変わった。そんなとき夫の発案で弁当取材が始まった。作り手ではなく、食べる人を撮るという。アイデアを面白がっていると、取材は小さい娘を連れての家族巡業となった。「撮影の合間に話を聞くと、職場にいるのにプライベートな話題で盛り上がる。同じ人のいろんな側面が見えて『人生』を垣間見ているように感じた」
夫は働く人の昼食を紹介するNHKの「サラメシ」にも出演し、弁当取材は定着してきた。地方都市ではみんなが自家製の漬物などおかずを交換するような職場も少なくない。新型コロナウイルスの流行で難しくなっているが、「お弁当は人と人をつなげる」という。
SNS(交流サイト)で見かけるような、かわいらしく飾り付けされたキャラ弁やデコ弁には首をかしげる。「お弁当は愛情が詰まっているものという思い込みは、なんかヘン。それぞれの家庭の当たり前の日常がお弁当だから。このところ自分で作る若い男性が増えていて、自然体でお弁当を楽しめるのがいいなと思う」と笑った。(岩波書店・1900円)
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この本のタイトル、気になりませんか?「何で?」と思う人もいれば、「わかる わかる」と思う人もいるでしょう。
お弁当にまつわる家族の話や、高校生の頃に留学したアメリカでの苦労話などが綴られたエッセイです。アメリカのホストファミリーとの出会いで、自分のことや、大嫌いだった家族のことを客観的に見られるようになるところなど、みなさんも共感できるかもしれませんね。
家族や将来のことでもやもやを抱えている人には、考えるヒントが見つかるかもしれませんよ。
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「おべんとうの時間」は大好きなシリーズ。いろんな人の、特別ではないいつものお弁当から見えてくる「その人らしさ」にしみじみ胸を打たれる。阿部了氏の写真がいいのはもちろんだけど、私は直美さんの文章が本当に好きで、折に触れて読みたくなる。
その直美さんが、「おべんとう」というものにこんなに複雑な思いを抱いていたとは…。確かに、お弁当には家庭や家族のありようが如実に表れるもので、みんながみんな温かい思い出ばかりというわけにはいかないというのは、考えてみれば当たり前なのだった。家族との葛藤を抱えながら、書くことで自分の道を開いていく著者の姿は、一人の働く女性として胸に迫ってくるものがある。
一方夫の了氏は、「サラメシ」で見る明るいキャラそのままの人のようで、この方がまあ実にいい味わいなのだ。直美さんは本当にいい人と出会って、いい家庭を持ったんだなとなんだか嬉しくなってしまった。
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食を通して考える、家族、夫婦と子を語る、自伝的エッセイ。
I 父と母
おべんとうの時間 音の番人 『E.T.』のピザ
II アメリカの家族
トイレでかじるドーナツ ハーリー家のごはん
III 夫と娘
ニッポン チャチャチャ 家族巡業のはじまり 父の弁当
夫婦での作品「おべんとうの時間」の文を担当する、著者のエッセイ。
家族への葛藤の悩みを語り、家族とは何かを読者に問いかける。
中学生時代のお弁当と家族との葛藤。
高校生時代のアメリカ留学先でのランチと人間関係の悩み。
“弁当の人”との出会いと結婚で得た“料理は心”と食べることの
楽しみ。“弁当を食べる人”撮影に揺れる心と気持ちの変化。
幼い娘も一緒に夫婦で、日本各地へ撮影と取材・・・そこで出会った
人々と“お弁当”は無限大の世界を広げてくれる。
食べることは糧。人との出会いは心の糧。
そして時の流れは成長を促し、心を柔軟に変化させてゆく。
最初の、父と母、自分と父、自分と母・・・との関係はきつかったですが、
晩年の父の姿と最後に父と母を受け入れる穏やかな文章は
しみじみとした心境で読むことができました。
「おべんとうの時間」の撮影と取材、連載に至る話も良かったです。
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文春の連載で平松洋子さんが推していた。
強烈なお父さん!
よくぞ阿部さんがぐれずに育ったって感じ。
昭和のお父さんってよく怒っていた。
うちの父も、明治生まれの祖父も。
でも、阿部さんのお父さんはその何倍も強烈だ。
アメリカ留学時代の話も、その場で経験しないと見えなかった景色だと思う。
ダンナさんとの馴れ初めなど、とてもおもしろいけど、よくぞここまで書いてくれました。
あとがきの小黒さん、ラジオでよく声を聞いていたので、口調が聞こえる。
阿部さんの誠実さが伝わってくる。
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ANA機内誌の人気連載「おべんとうの時間」
の著者です。
最近はお弁当ブームであり、関連本も花盛り
ですが、連載当初は全くマイナーな企画であ
ったそうです。
その著者自身が体験してきた「おべんとうの
時間」はさぞかし華やかで楽しいものであっ
たと思いきや、全く違うそうなのです。
米国留学時代のランチタイムも含めて、苦い
思い出しかないが故に、他人の「お弁当」に
対して真正面に向き合って、深く優しい目で
その背景を文章にすることができる理由が、
この本から読み取れます。
単なるエッセイではなく、一人の女性の波乱
万丈の人生が詰まった一冊です。
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「茶色弁当」。みんな自分のお弁当は、そう思っていたんですね。私もそうでした。母に良く文句を言ったものです。
自分が母になり、お弁当というものは最も高度な料理ではないかと思うようになりました。手短かに作る必要があり、かつ栄養のバランスを考え、さらに数時間後に食べる、もっといえば食材同士が混ざって変な味にならない、という配慮が必要です。
それはそうと。
本書は、構成が素晴らしい。面白くできていると思いました。
自分の中学時の弁当→家族のこと→食事→米国留学時のホームステイ先→留学で変わった価値観→若い頃のフットワーク→結婚→新しい家族(ここから3つに分割)1)父の死、2)ヨウ 3)サトル君 そして弁当の写真。最後に、母に感謝する父、飾らない母、と展開していきます。
よく考えられた流れ。編集者さんが素晴らしいのか、著者のセンスなのか分かりませんが、文章を書くものとして見習いたいなと思いました。
そして最後に父母を受け入れられたこと、良かったな。という読後感です。
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「おべんとうの時間」という連載は知らなかったけれど、サラメシは好きで、たまに観ている。
阿部直美さんの子供時代から現在までを詳細に綴ってあるのだけれど、子供時代について記した前半部分は読んでいるだけでつらくて、胸がぎゅーっと縮こまるような気分だった。
怒ると手がつけられず、家族にも周りにも怒鳴り散らす父親と、不満を抱えながらも父の言いなりで、かといって娘に寄り添ってくれることもない母親。
家庭内には、本来あるはずの安らぎがなく、絶えず重苦しい。そんな著者にとっては、お弁当の時間が何よりも苦痛で、家族の重苦しい気がそのまま詰まったような茶色い弁当が嫌で嫌でたまらない。
正直、阿部さんがよく精神的に参らずに過ごすことができたな〜というくらい、父も母も強烈…。「亭主関白」ではくくれないくらい、いびつだ。
お弁当に詰まっているのは、おかずだけじゃなくて、家族の姿そのものなのだと改めて思う。どれだけ手の込んだものを作っても、作り手が暗い気分であれば意味がないし、たとえ冷食でも、作る人が鼻歌交じりならばそれはハッピーなお弁当になる。
この本を読んで、私の家族のことが頭に浮かぶ。
私の幼い娘にも、いずれお弁当を持たせる日が来る。私の作ったお弁当を、できればにこにこ食べてもらいたい。
そして、高校時代には朝5時過ぎに起きて、お弁当を毎日作ってくれていた母のことも思い起こされる。母と私は何でも話せるような関係ではないし、ヒリヒリするような喧嘩を何度もしてきたけれど、母のお弁当には、私が健康で美味しくお昼を過ごせるようにとの思いが詰まっていたなとようやく気づく。
お弁当を通して、家族の姿が見えてくる一冊です。きっとこの本を手に取る人は、家族というテーマに何かしらの思いがあるはず。これから何度も繰り返し読みたい。
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外からはわからない家族の影がこれでもかと描かれている。お弁当が嫌いになる理由には充分足りるもの。そこから逆転ホームランのように少しずつ変化が訪れる。アメリカへのホームステイ、就職、了さん、娘さん、ライターとしての仕事。おべんとうの時間がきらいだった、という過去になってよかった。
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エッセイ風ストーリーなので久々にサクッと読めた。
中学時代のおべんとうが、カレーだったり、鍋だったりと…つまりは昨晩の残りを詰め込んでいたという。
なんと、、衝撃的すぎる。
確かに余りものを詰めて…というのはたびたびあった。
全体的に茶色いおべんとうもあるあるな感じで気にもならずに食べていたが。
…というか中学時代は給食で高校時代のみおべんとうだったが。
それを超えて上をいくのには正直驚いた。
そしてこうと決めたら曲げない父親と言いなりの母親。
アメリカのファミリーに憧れて高校時代に留学するが、馴染めずお昼には一人になることも…。
ただ、タイトルが「おべんとうの時間がきらいだった」なので実際これが記憶に残るほどのつらい時間だったのだろう。
思うほど悲壮感が感じられないのは彼女自身がもともと明るい性格だからだろうか。
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次女に薦められて読んだ本。
アメリカ留学のくだりは面白くすいこまれた。
苦労して、夢みて行った先の経験。
家族とは自分にとってなんなのか。
またその意味もかわってる。
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「食べる」をテーマにしたお話。
どのエピソードにも「食べる」が関係していて面白かった。
アメリカへの留学のお話が、自分が留学したらこんな思いするんだろうなということがモロに書いてあって引き込まれた。疑似留学体験できたみたいで、楽しかった!
サラメシに繋がってるのもびっくりした、、
本を読む楽しさを思い出させてくれた作品!
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「翼の王国」の連載やNHK「サラメシ」などで人気の、カメラマン 阿部了の妻でフリーライターの著者の生い立ちから、阿部了氏との結婚から、いかに「お弁当」にまつわる写真と文章を書くに至ったかが述べられる。
「お弁当」、特に学生時代、親が作るものはその家のあり様がなんとなく見えてくる。毎日のことであるから、特別感もなく、日常の食生活と家庭の事情が反映されると言ってもいいかもしれない。著者は中学時代のお弁当が嫌だったという。飾ることのない、白と茶の見栄えのしないお弁当は女の子だったから、特に嫌だったのだろう。
お弁当から始まり、著者の家庭環境、親子関係、夫婦関係が語られる。その後、高校時代にアメリカ留学をするが、その時にもランチという「食」に引っかかったり、そこからアメリカの人種や貧富の差で生じる複雑な階層なども体験する。
著者の親子の「愛憎半ばする」関係も血のつながりがあり、家族であるが故に複雑な感情という部分もよくわかる。
今、著者が素敵な夫と娘に恵まれ、家庭を築き、「お弁当」の仕事をしていることに幸せを感じていることが伝わってくるエッセイだ。
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ANA派なので何度も読んだことがある「おべんとうの時間」。
その連載を書いている著者の子供時代から現在に至るまでの軌跡が記されたエッセイ。
見映えのよくないお弁当を持たされ、それが恥ずかしくてたまらない上に、あまり好きではない自分の家庭環境を思い出さざるを得ない、そんなお弁当の時間が嫌いだった中学時代。
著者の根っこには、どんなに大人になっても、その時代のあらゆる記憶があって、家族と食卓、というものが自然と自身の人生のテーマみたいになっていたのだと思います。
とは言え、家族とはかくあるべき、とか家庭料理やお弁当はこうあるべき、とかそういうお説教じみた結論に帰するのではなく、
ただ淡々と彼女が思ったこと、感じたことが書かれているのも個人的にはとてもよかったです。
大きな事件やハプニングがあるわけではないのに、引き込まれるように読めてしまうのは、読み手である私との共通点を感じたから。
恐らく多くの読者が、自分と重なる部分を見つけるのではないでしょうか。
それくらい、良い意味でごく普通の一般市民の感覚で書かれた一冊です。
この本を読み終わって思うのは、自分と家族との関係性。
あれこれと思いを巡らせています。
2021年28冊目。
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「手作りは愛情」「お弁当箱には愛がつまっている」という安易でのんきな方向に行かないところが信頼できた。
自分の境遇や気持ちと似た部分が多くて(下で引用した部分はわたしの実感と全く同じ)、トラウマ再放送で読んでいて苦しかった。苦しいけどもなんだか泣けた。
"あの父と母のもとに生まれたから、今の私がいる。(p.230)"
といえるところにまでわたしはまだ到達できていないが、いろいろ経て年齢も重ねてだいぶ近づいてきている。これを読んでいろいろ思い出して、考えさせられて、また少し何かわかりそうな気がした。読めてよかった。
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"家の中で自分が怒鳴られる分には我慢できても、人を怒鳴りつける姿を見るのは忍びなかった。 その娘だと見られることが、耐えられない。 家から一歩出て家族で行動している限り、私はいつだって連帯責任を負わされている気分だった。油断できない。地雷はどこにあるのか、見当がつかない。"(p.102)
"いつも、家族のことばかり考えていた。何をやるにも、家族が絡んでいた。 家族なんてくそくらえと一九歳で家を出た私は、家族というものに心底うんざりしていたのに、いつだって電話が鳴り、その本の細い糸を切ることができなかった。断ち切れたらどんなに楽になるだろうと思っても、ぎりぎりのところで踏みとどまってきた。"(p.194)
"父は死にかけていても父であり、母はどんな状況にあっても母なのだった。"(p.209)