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【「このまま忘れてもらおう」作戦に惑わされない。】偉い人が嘘をついて逃げ出し、国民は監視され、言葉の劣化が加速し、メディアは無責任……。「現代の危うさ」に警鐘を鳴らす一冊。
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私たちはいつから、偉い人が間違っていることをしたことに対して声を上げられなくなってきたんだろう。
偉い人だけじゃなく、大衆に異論することに臆病になってしまったんだろう。
一人の大人として情けなく、このままではいけない。声を出していこうと鼓舞された思いです。
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著者がタモリ倶楽部に出て以来、注目していたが、本作の主題は秀逸だと思う。「こんまり」とは真逆に居たい、との発言に激しく同意。
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この本を読み終えた今日、2021/8/5、またしても一体何度目かと言う緊急事態宣言下。昨日の感染者数は全国で14,200人(東京4,166人の他、十数県で過去最多)。菅首相は、重症患者以外は自宅療養を基本とする、と新たな方針を打ち出しいている。「国民の命と健康を守るため」だそうだ。現場の医師たちが、「この病気は急に容体が変わることがある、重症化するかしないかを自宅療養で見分けるのは難しい、救える命が救えないくなる可能性が高い」と言っているのに、だ。
それでも、オリンピックは相変わらず行われている。
「偉い人ほどすぐ逃げる」なんて秀逸なタイトルなんだろう、と笑ってしまいながら、読み進めていた本書。
いつもながらの冷静な視線と、時には皮肉たっぷりの指摘に、痛快な気持ちすら持ちながら読んでいたのだが。
ここ数日の状況に、段々笑っている場合じゃないな、と思い、読み終わった時には、暗澹たる気持ちになってしまう。
だって、「偉い人は逃げ」ちゃうんですよ。
「このまま忘れてしまう」作戦に乗せられて、史上最多のメダル獲得に浮かれまくって、次の選挙でも「偉い人」たちは特にダメージを受けることなく、またこれから先も「俺は偉いんだぞ、と叫びながら逃げていく」んですよ。
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「天邪鬼」「ひねくれ者」という呼ばれ方は、自分にとっては長らくほめ言葉だと思ってきた。
だが最近では、そういう人を「面倒くさい人」「ウザい人」として社会が忌避するばかりか、公式非公式に弾圧すらされるようになってきたと感じる。
武田氏の著書で叫ばれる「当たり前さ」は、こういう世の中で「天邪鬼」でいることの誇りを取り戻させてくれる。
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武田砂鉄は、1日にどれだけの文章を読んでいるのだろうか。さまざまな話題と引き出しの多さに驚く。皮肉の効いた言い回しが冴えている。語彙の多さとピタッとくる言葉遣いは素晴らしいと思う。
なんとなくスルーしてしまいそうな言葉遣いにも敏感で、わたしはもう忘れてた、言われてみればそんなことあったよな、ということをしっかり思い出させてくれる。しかもきちんとした裏付きだ。毎月「プレミアムフライデー」も今でも、きちんと追ってくれている。
そういうバイタリティあふれる批評精神を見習いたい。
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偉い人ほどよく逃げる、というタイトルに惹かれて購入。確かにそんなコトばかり。歯切れのいい評論ばかりで、素直にうなずける内容ばかり。
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”災間の唄”の感想で書いたように、本作者の幕間コメントに大いに惹かれた身としては、単著たる本作は、どうしても読みたくなる一品。すぐ逃げる偉い人と言われると、真っ先に現&前首相が浮かぶ訳だけど、本書における矛先はそこに留まらず、企業のトップとか、各業界の権威にまで及ぶ。卑怯な逃げ方のオンパレードに、いい加減うんざりしてしまうんだけど、切り返しの妙が素晴らしくて、何なら笑えてしまうような文言まで散りばめられていたりして、実に痛快。言われてみれば確かにそうだよな、って大いに納得できる反面、でもそれ、自分で考えて自分で判断できなきゃいかんな…って、ちょっと自信喪失してしまったりもする訳だけど、”偉い人ではない人の思いを汲み取って、自分なりに反撃するのが仕事(だいぶ意訳)”という、著者の宣言が実に頼もしい。
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これほどまでに「ほんとそうだよな!」とイラついた記憶がふつふつと甦るタイトルそうそうお目にかかれない、秀逸すぎる。
ほんとに何回も何回もあの人達は逃げ出した。
言いたいことも許してないことも忘れててないことも沢山ある。後は法は絶対に犯さずに自分が出来る行動(投票)などで自分の意思を表明していきたい。
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安倍政権から続く世の中の不条理、理不尽を作者が爽快にぶった切りする一冊。
読んでいくうちにそういえばそんなことあった、こんな事言っていたというのを思い出した。
最初のうちは大多数は怒るがそれが
↓
半数ほどが怒りを残す
↓
一部しかもう怒っていない
↓
大多数が忘れ結局なかったみたいな事に繋がる。
これを忘れてもらおう作戦と筆者は名付けている。
去年から色々ありすぎて、何が起きたかほぼ忘れていて気付けば結局ずーっと同じことを繰り返す。
菅政権になってもそれは一緒。
これらをスパッと切った筆者は爽快である
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これはもうタイトルが絶妙過ぎて笑う。与党政治家、ネトウヨ作家、出版社社長、大手マスコミ…。この国に蔓延る不誠実で無責任な発言の数々にしっかりと対峙し、精緻に批評して見せる武田砂鉄氏の論説は、私に胸のすく思いをさせてくれる。読んでいて何度も快哉を叫ばせてもらった一冊。
#武田砂鉄
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この本を読んで、「ホントそうだよ!よく言ってくれた!」とスッキリして、何もしないのが一番悪い、と自分に言っておく。
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【感想】
「今や時事問題って、問題点を刺して検証する前に、気づいたら溶けて無くなっているのだ」
本書の言葉どおりのことが、まさに今起こっている。
例えば東京五輪。開催までの間に数々の問題が発覚し、そのたび関係者の辞任が繰り返された。国民の感情が麻痺し、「そんな細かいこと気にすんなよ」「もうどうでもいいよ」という声が何度も聞こえた。
しかし、政権は相変わらず、「東京五輪はやります。みなさんいい加減納得してください」と言う論調である。必要なのは「開催か中止か」の議論にも関わらず、国民の意見を議論の俎上にも上がらせずに、「どうせやるなら私たちにできることを精いっぱいやろう」という方向に誘導している。
こうして7月23日、東京五輪が開幕した。コロナの蔓延を抑えながら無事全競技終了できるかは、パラリンピックが閉会する9月5日まで分からない。
だが東京五輪は、確実に成功を約束されている。それは終了後、「ね、やってよかったでしょ?」という論調のもと、開催に至るまでの犠牲と今後の展望は検証されず、「コロナ禍で開催した」という実績だけが報道され、「無事成功」というカテゴリに丸め込まれるのが確定しているからだ。そして、誰のためだか分からない「レガシー」という言葉が強調されて、「東京五輪は成功した」という歴史が後世に受け継がれていくのだと思う。
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【メモ】
1 政権
国家を揺るがす問題であっても、また別の問題が浮上してくれば、その前の問題がそのまま放置されるようになった。どんな悪事にも、いつまでやってんの、という声が必ず向かう。向かう先が、悪事を働いた権力者ではなく、なぜか、追求する側なのだ。
何も政治的な決断をしていないのに10ポイント近く支持率が上がった経験を、これからのオリンピック、大阪万博、リニア新幹線開通などに活かそうとするはず。騒いで、興奮させて、何かを紐づけして、自由に動かしていく。
問題が発覚する→どういうことですかと問い詰められる→逃げる→国民がすごく怒る→そのうち忘れ始める→一部の国民が怒り続ける→大体の国民が忘れる→問い詰められていたほうが胸をなでおろす…。
今や時事問題って、問題点を刺して検証する前に、気づいたら溶けて無くなっているのだ。
今、ネットでは日替わりのように、いや、毎時間ごとに、誰かしらが集中的に叩かれている。このところ、自分のそばに「わかる人はわかってくれる」を用意して、元々の言動からの回避に使うケースが増えてきた。
突然批判を浴びた当事者やメディアのそばにいる人たちが、「いきなり騒いでる人たちったら、この界隈のルールや空気を知らないくせに、根こそぎ批判ってどうなのよ」と回避する流れである。おしなべてセコい。
この国に女性が活躍できる社会が到達しないかが端的に見えてくる。政治家がさほど重要な問題だと思っておらず、先延ばしにできると思っている。ひとまず言ってみて、あとで適当に取り繕うことができる。コロナ禍のもとで毎日のように思ってきたことではあるの��が、改めて、本当に無責任な人たちである。
2 五輪
なぜ彼らは、文化の輸出や拡散方法を練り上げようとする際、培ってきた文化の変遷を丁寧に見渡すのではなく、とにもかくにも日本人の心を問うて、ピンポイントで好みの周辺を引っ張り出し、「神」や「血」等々で塗りたくろうとするのだろう。
五輪を真っ向から反対する行為が咎められる、これぞまさしく世の中の多くが「どうせやるなら派」になった証左である。
東日本大震災から8年が経過するのに合わせてNHKがおこなった被災地に住む人たちへのアンケートでは、「復興五輪」との言い方が復興の後押しになるかどうかとの問いに、後押しになると考えている人はわずか14.3%しかいない。「『復興五輪』は誘致名目にすぎない」「経済効果に期待が持てない」「復興のための工事が遅れる」を、5割以上の人が理由として挙げた。
大きなプロジェクトである五輪をひとつひとつ動かしていくときに、「で、これ、何かしら復興と絡められないかな?」という後出しのこじつけが重ねられる。怪しい金儲けを隠蔽するコーティングとして「復興」が使われている。今回は「復興」という言葉で、2週間程度の宴が強引に「成功した!」との結論に持ち込まれるのだろう。
ほぼすべてのイベントが延期・中止となり、ライブハウスや映画館などの文化施設は存続そのものが危ぶまれている。こういう事態に陥ったとき、選手の声を特別視する必要はない。
スポーツ団体から、次なる五輪に向けた言葉は出てきても、「社会に寄り添う」という観点は出てこない。
3 劣化する言葉
発言した後に世間の反応が芳しくないと察知した政治家が「真意とは異なる」「本意ではない」と、自分の発言を崩さぬまま、受け取るみなさんがちゃんと理解してくれないから困っちゃうよね、と渋々取り下げるのが、与野党を問わず永田町のブームとなっているのならばむなしい。
昨今、ポジティブな言動がまるごと礼賛され、ネガティブな言動がまるごと批判される。ボクが信じているモノを信じてくれない人を信じない、と区分けする人を信じることなんてできない。
坂上忍が「毒舌」と称される場面を未だに見かけるが、とっても乱雑な括りであって、これまで毒舌と語られてきた人たちまで軽視されかねないのでやめてほしいと切に願う。彼は目下の人間に厳しく、目上の人間に従う。坂上は目下の人間にものすごく厳しい。この「ものすごく」の部分を「毒舌」と変換されると、毒舌という状態がまるごと疑われてしまう。
4 メディアの無責任
乱雑な文句や皮肉や批判が溢れた結果、ただそれを向けることに対して、無駄に勇気が求められていやしないか。緩慢な悪口の連呼によって、文句や皮肉や批判を投じる行為のハードルが上がっていることについて、嘆かわしく思いたい。
出版界は身内に甘い。早稲田大学文学学術院の元大学院生の女性が、文芸評論家の渡部直己から繰り返しセクハラを受けた件に、厳しく指摘する声がどうにも弱い。
ハラスメントを放置し、過度な保身で、女性の訴えを繰り返し踏み潰そうとした組織の結託が明らかになった。
政界、文学界、スポーツ界は、どこか���特権意識が残っている。偉い人の悪事を追求するというのは、組織を健全に保つための最低条件ではないかと思うのだが、偉い人がやったことだからしょうがない、という悪しきテーゼが、衒いもなく黙認されている。
「今の世の中、黒か白か、○か✕かを決めて、一斉に叩きのめすようなことばかりです。誰かがバッシングされたと思ったら、マスコミは早速次のターゲットを探している。正義と悪というのは、そんなに簡単に区分けできるものでしょうか。一方の声だけを聞いて判断するのではなく、もう一方の声を聞く必要があります。みんなが悪いと思ったからといって、袋叩きにしていいのでしょうか」
あちこちでこの手の見解を見かける。おっしゃる通りだ。おっしゃる通りなのだけれど、これが抜け道に使われていると気づく必要もあるのではないか。批判の内容は問われることなく、批判が大きなうねりになっている様子についてのみ取り上げられ、取り急ぎ「正義の暴走」などと処理されてしまう。
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堀内勉:『偉い人ほどすぐ逃げる』責任を取らない「偉い人」 日本社会「劣化」の本質(HONZ 2021年07月24日) https://honz.jp/articles/-/46046
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タイトルが秀逸すぎる。
コロナ禍でのオリンピックを見ただけでも、逃げた「偉い人」、たくさんいたなぁ。
どうして、謝ることができないのだろう。完璧な人はいないし、ぬる~い人権感覚が晒された日本という社会で、私も含めて愚鈍(という言葉が適切かも心もとない)な部分がたくさんある。だからこそ、指摘されたこと、批評されたことは、真摯に向き合うことが大事なのではないかと感じる。そして、適切ではなかったり、間違っていたりしたことは、きちんと謝る。なんか、謝ることが負けみたいな変な空気(?)が蔓延しすぎているような気がする。
武田さんが取り上げていたことで、言われてはじめてそうか!それが問題の本質だ!と気づかされることがたくさんあった。
ホイホイも熟慮もどちらも大事に、とにかく「学ぶ」姿勢を怠らずにやっていきたい。