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技法とはなっているけれど、技法より以前の定義的な・根本的なところから考えてみませんか?と問いかける本。なので、どちらかと言うと哲学系寄りです。
哲学という切り口からってのが珍しいと思って手に取り、あれこれ考えながら年越さずに読了。対話というと改まった感じがどうしてもしてしまうけれど、その延長戦上にカウンセリングのやっている事があるんだろうなとは思った。カウンセリングは行動変容の促しを行うものもあるので、対話とは違ってくる。でもやり方や姿勢は似たようなものがあるし、そこから学べるものもあるような気がする。対話する自分はありのままの自分であり、職業や性別に拘らないとか。
あとどうしても結論がないと意味がない、成果主義的なところが強く出されがちになるけれど、行ったコト自体に意味があるというのはいろんな人に知ってほしい。
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これは勉強になったなー。
対話は真の自分に出会うためのものであり、耳の痛いことにも向き合わなければならない。
真の自分とは、「○○好き」とか「○○に勤めている」とか「○○の資産を持っている」といった表面的な自分を剥ぎ取っていく先に発見する裸の自分である。
反対に、自分を「○○な人間だ」と規定しまうと可塑性が薄れてしまう。
また対話の際に、自分の伝えたいことを十分に表現できるだけの言葉の豊かさが大事だというのは盲点だった。(「言葉が繊細で豊かに襞をもって意味を伝える場合、言葉そのものが自然に感情を担ってくれます。」)
逆に言葉の貧しさは強硬で荒っぽい言葉を使わざるを得ない。これがひいてはもどかしさに、そして暴力につながる。だから語彙が貧弱な子どもは八つ当たりをするんだなーという気づきも。
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向き合う勇気を持てよ、と背中を押された気分です。
どう向きあけばいいのかわからず、言葉が出てこずもどかしくなるのは語彙力がないということ。
言葉の豊かさと感情の豊かさは連動しており、
言葉が貧困になると感情をコントロールできなくなる
対話はある意味衝突、ぶつかり合い。
対話を避けることは対話の拒否であり否定。
対話が人間の在り方を成立させるとすると、このような傾向は一人ひとりが自立していないこと、つまり自分がない
自分で考えずにその場の雰囲気に流されるというのは、自分が人間としてきちんと成長していないということ…
言葉は現状追認になり、現実をより善く変える力を失う。
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何かしら話す場に向かうときに漠然とした不安を持つこともあったけど、それは結果を自分のなかで固定していないからこそで、「伝える」でなく「交わす」を前提にするならそう感じるのは妥当だとも思えてきて、自分のなかで持っている対話のイメージに対する肯定感を得たような気がした。
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対話=哲学
交わされる言葉に対して、自分を開いておくこと。
現在において形作られゆくものを言葉にすること。あるいは、場の経験を通して事後的に自己を、あるいは経験それ自体を言葉に落とし込んでゆくこと。
そのために、ニュートラルな自分であろうとすること。
といったところでしょうか。
現代的な課題と関わらせながら、丁寧に対話というものを説明してくれます。
かつてなく大量に言葉が飛び交っているのに(だから?)、ミソロゴス(言論嫌い)な現代人。でも、チャンスはあるみたいです。
と、内容はよいのですが、日本語の表現にミスが多すぎます。校正が甘いのかな??
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日々、否応なく、コミュニケーションの渦の中に巻き込まているが、どこまで「対話」できているのかと反省。
ちょうど国政選挙の時期だった。ソクラテスは「煩いアブ」だったと言われるが、民主主義だからと言って「対話」があるわけではなく、好まれるわけではないようだ。
1.「対話」が会話や会議、討論と異なる出来事ならば、その成立には限られた場面設定が必要。
2.対話の目的は、単に答えや解決策を導き出すものではない。問いそのものが対話となりうる。
3.すると、対話の相手やその方法はむしろ限定されることなく、究極的には「自分自身との対話」に行き着く。
4.対話によって、不知への接近、自己の変容、裸の自分との遭遇。そしてまた新しい対話へ。その無限のいとなみ。