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『非読書家のための読書論』
著者 小鷹昌明
幻冬舎メディアコンサルティング 2021年
本を読むという行為は今も変わらず高尚なものだと思われているようだ。趣味は読書といったものなら、文学はたまた難しい哲学?もしくは理系の専門書?なんにせよとっても頭が良さそうという頭の悪い返答をされそうである。
読書家となればなおさらであろう。熱心に読書をする人が読書家であるならば、そんな人はとても高尚な人物に違いない。なんて、よくよく考えれば、読書なんて今の時代趣味の一つでしかないことだから、その人の人格にはなんの関係もないはずなのに。
この本は、「自分は決して読書家ではない」と語る著者が、読書に関するあれこれに関して語ったものである。いわゆる読書論というと、ある程度、本を読みなれている人が書くようなイメージであるが、これはすこし毛色が違う。もちろん、ある程度本を読んでいることは確かであるが、この著者は例えば、古典をむやみやたらに推奨することはないし、速く読め!などいうことはない。ただ、ひたすら、本を読みなれてない人目線で、「なんか、読書家の人ってああだこうだ言ってるけど、結局は…」のような温度感で、読者を包んでくれる
印象に残った箇所を引用しよう
日常的読書のメリットについて快活に答える人の説く本は、「読むのが当たり前」、「良いこと以外に何もない」ということを前提に書かれているので、どれを読んでも感情移入できません。本がいかに素晴らしいかを強調されても、こちらとしてもますます萎縮していくのです。のきなみ、読書以外からだって十分楽しみは得られるし、それによって賢くなれるということに躍起なります。
この本の基本的なスタンスがこの文には含まれていると考える。
ともすれば、読書を至上主義とする風潮に片足を突っ込んでしまいそうになる。それでは、筆者が読書で目指していることはなんだろうか?こちらも引用する
結局のところ、本の役割は、本をきっかけにどこまで考えられるかということのようです。声を大にしていった割には普通の答えで恐縮ですが、でも結局そういうことでした。大切なのは言葉に出会い、言葉を糧にできるかどうかなのです。
果たして、私はこれまでいくつもの糧に出会ったのだろうか