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原題は『The Great Pretender』、大詐欺師やなりすまし役者などといったニュアンスの意味を持つタイトルの本書。本書は、1973年に科学誌「サイエンス」に掲載され
たアメリカ心理学者デイヴィッド・ローゼンハンの「狂気の場所の正気の存在」という論文を巡る一流のノンフィクションである。
この論文が主張は極めて鮮烈であった。それは「精神科医は、正常な人間と精神病の患者を見分けることができない」というものである。その主張を裏付けるためのアプローチが凄い。というのも、ローゼンハンは自らを含む8名の偽患者に、嘘の病状申告をさせて精神病院に入院させ、診察や治療のデタラメさなどを暴き出すというものであった。
当然、この論文は精神医学界を巻き込んだ一大事件となり、この論文がきっかけとなり、より科学的な病状診断を行うための診断マニュアルの改訂などが進み、精神医学は進歩する一助になった、とされている。
著者のスザンナ・キャハランは、ニューヨークポストの記者として働いていた24歳のときに、急遽自らの行動の自制が利かなくなり、精神病と診断される。精神病院へ入院させられるギリギリのところで再診断を受けたところ、非常に珍しい脳炎に罹患していることが判明し、その治療により社会復帰することができた、という経歴を持つ。脳炎の”なりすまし”によって、精神病という診断を受けた著者は、何を持って精神病という診断が下されるべきなのか?、という問いへの一助として、冒頭のローゼンハンの論文に行きつき、この論文のバックグラウンドを調査する。
しかし、調べていくうちに、この論文には不自然な箇所が多数見つかっていく。また、ローゼンハンと関係のあった人々へインタビューする中で、彼をこう呼ぶ人たちとも出会う。「ローゼンハンこそが”The Great Pretender”だった」、と。
果たしてローゼンハンとは何者なのか、彼が行った実験の真実とは何か、そして精神病とは果たして科学的に再現性ある形で診断が可能なものなのか。こうした問いを追求する素晴らしくスリリングなノンフィクションの王道作品。精神医学に多少の関心がある人なら、絶対に楽しめる一冊であると推奨する。
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めっっっちゃ読むのに時間がかかった。文章自体は凄い読みやすかったと思うんだけど、うーん…。
内容は、二転三転していてスリリング。あらすじも覚えていなかったので、中盤以降の展開は実に面白かった。
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正気と狂気をゆるがす精神病院潜入実験 ではなくて精神病院潜入実験の真相を探る のほうが内容をよくあらあしているだろう.実験ではなく 実験の真相でもなくて 実験の真相を探る 探るとこがメインで 真相はわからないのだから.人名が多いので わからなくなることもあるし 実験の真相を探るという切り口で 精神病院とは 精神疾患とは ということを述べている本.
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これ、どこからチョイスしたのか分からん…。でも、興味深い内容だったからまあ良い。いかにも容疑者チックな表紙で、中身もそっち系かな、と思ったけど(なりすまし事件を起こした真犯人、みたいな)、違ってました。一義的には、精神科患者になりすまし、実際の入院生活を体験し、その暗部を告発する、というもの。ただ本作の場合、途中から別の顔を見せ始めるのがポイント。なんと、論文捏造の方向に話が展開していくことに。これは作者自身も狙っていた訳じゃないらしく、その動揺ぶりがうかがえる語り口も魅力的。読み応えのあるノンフ作品でした。
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ローゼンハンの偽精神患者の実験は広く知られている。しかし、そのニセ患者が自分と院生以外はいたかどうかわからない、という結論である。サイエンスに掲載された論文とともにこれを読むことがいいと思われる。ただし、400ページの本文のうち250ページは偽精神患者実験の説明であり、残り150ページがそのニセ患者の真偽をめぐる話である。したがって、この本を読むだけでローゼンハンの実験の説明になっている。
シンバルドや電気ショックの実験についても、それぞれ実験の過剰操作としての電気ショックの強要や、囚人役の過激な演技が記載されているが、これをもっとで説明している本が翻訳で必要であろう。
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1973年に行われた精神病院潜入実験「ローゼンハン実験」の真相を探求した刺激的なノンフィクションでした。本文にもある「もし正気と狂気が存在するなら、違いはどこにあるのか?」が本書のテーマでしょうか。結末がやや曖昧でした。偽患者として精神病院に潜入する体験談が(真偽はともかく)スリリングでした。
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著者には脳炎を精神病と誤診された過去がある。危うく精神病棟に移送されかけたが、別の医師が脳炎を見抜き、事なきを得た。なぜ簡単に誤診が起きてしまうのか? 精神病とはいったい何なのか? 著者は自身の体験から、こう問い続けた。脳疾患と精神疾患の境目について調べていく内に、著者がたどり着いたのは「ローゼンハン実験」だった。
ローゼンハンと実験協力者は、統合失調症の症状を偽って訴え、精神病棟への入院を果たした。入院後、自分たちの症状が「回復」するまでの経緯と精神病棟の現場における実態を詳細に記録した。研究成果は「狂気の場所で正気でいること」という論文に結実し、権威ある学術誌である『サイエンス』誌に掲載された。
1つの重要な事実はローゼンハンたちが偽患者として入院を易々と果たしたことで、ローゼンハン実験は「正常」と「異常」の区別が付かないことを端的に示したのだった。科学的な診断基準が確立していない精神医学はその他の医学領域と大きく異なる。正確な判断が付かないならば、誤診が蔓延するのもむしろ当然といえる。
ローゼンハン実験は著者が探し求めていた答えを与えてくれるものだ。この実験を知り、著者はきっと快哉を叫んだことだろう。
精神医学の闇を白日の下に晒したのはローゼンハンの功績と言える。その一方で著者は、ローゼンハン実験の罪を弾劾する。ローゼンハン実験以後、社会全体が精神医学を敵視する傾向が強まり、精神衛生システムに予算をまわすのをためらいがちになった。結果、精神科医や病院が減った。「入院のためには演技が必要で、入院したければ、自分が危険な存在だということを提示するか、著しく心身の機能が損なわれている状態が必要とされる」(327ページ)状況が実現するに至った。ローゼンハンたちが入院のために演技を必要としたことを思えば何とも皮肉な結果である。「病人の行き着く先は病院でなく刑務所」となった。
著者の議論にはうなずける所も多いが、この「罪の告発」はいささか大げさであるようにも思う。ローゼンハン以前から精神医学に対する不信感は社会に根強く、ローゼンハン実験はいわば最後の藁に過ぎないように感じられる。『サイエンス』の権威が絶大とはいえ、1本の論文が社会をまったく変えてしまうとは、私には考えられない。
ところで、本書のドラマは上記とは別の所にある。
著者はローゼンハン実験に感銘を受け、実験の詳細を知りたくなった。そして、実験について詳しく調べていく内に、衝撃的な事実が明らかとなっていく。ローゼンハン実験にはデータの捏造があり、それどころか、論文中で言及されている偽患者のほとんどについて、その実在が確認できないのだった。ローゼンハン実験から30年以上も経つので、確認しようがない情報も多い。それでも、隠された証拠から真実に迫っていく本書には、どこか推理小説のような趣がある。
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なりすまし――正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験。スザンナ・キャハラン先生の著書。正気と狂気を見極めることができない精神科医。精神疾患である人とそうでない人を見極めることができない精神科医。もしそうであれば精神医学に意味はあるのと疑問に思う人がいても不思議ではない。でも狂気に苦しむ人がいて精神疾患で苦しむ人がいることは紛れもない事実。精神医学や精神科医に完璧を求めたところで仕方のないこと。
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読み進むうちにどんどん期待していた方向とは離れていったけれど、それはそれとしてたいへん興味深く読みました。
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面白かった!アメリカを始めとした精神医学の歴史がわかって興味深かった。
・戦争のPTSDを発端とする精神医学と治療の必要性の高まり(DSMの始まり)
・フロイトを始めとする精神分析とアサイラムの広がり
・ローゼンハンの論文(精神障害の定義の不明瞭性と不当な精神病院への収監、非人道的な治療法への批判)1973年
・症状別の詳細な病名の定義(DSMⅢ 1980年スピッツァー)と対処療法の確立→診療の標準化を果たす一方で、根本的な病因の究明の視点の欠如(治癒の有効性への疑問)、一人間としての包括的な診療の妨げ、製薬企業との癒着といった問題も
・公的支援の不足による精神病院の閉鎖、地域福祉に包括されることなく刑務所へ回収される精神障害者たち
・遺伝子学・免疫システムの観点・技術の進歩により解明されてきた精神障害の要因、精神病院の復活(コミュニティ形成、治療者との対話による信頼のプラシーボ効果、症状に対する文化判断による悪化を防ぐ効果のあるオープンダイアローグ)などの今後の希望
...という理解!
精神医学、正常と異常の区別が歴史上終始曖昧すぎてちょっと唖然とした。
個人的に面白かったのは、
・電気ショック療法を好んでやりたがる通称「火花先生」(“誰にでもやりました、そのチャンスさえあれば。ええ、職員も含めて”)←職員にもはもはや趣味すぎて笑える
・電気ショック療法の創始者(“ローマのと畜場を訪れたときに、突き棒で電気ショックを受けると豚がおとなしく従うのを見たと聞き、考案した。どうしてそういう発想に至ったのかは、分からない”)←本当に分からなすぎてうける
・フェミニストの妻を精神病院に厄介払いするも、妻が作家で有名人なためすぐ退院され糾弾された作家←厄介払いで入れられるの怖すぎるけど妻が強くて面白い
・ローゼンハンとスピッツァーの仲の悪さ(外交的で魅力的、主張は的を射ているけど細部は適当なローゼンハンと、データ分類が好きできっちり仕事するスピッツァー。表向きは丁寧に文通しているけどお互い慇懃無礼に批判しあっている)←研究者っぽい面倒くささ。これが現代の診療基準の根幹になっていると思うと興味深い。(あとスピッツァー、子供の頃に女の子の色気評価尺度作ってるの割と気持ち悪くて面白い)
・DSMⅢ策定は合議制で誰もが相手に被せるように話していてスピッツァーがタイプするのに精一杯だったこと←スピッツァー偉そうな割に1番面倒くさい所を担ってるし、きっちり分類してる割に肝心の根拠が曖昧で笑える。自分もこういう仕事しがち。
ケネディ家のローズマリーの話は可哀想すぎたしぞっとした。完全なる人権侵害なのにわりと最近まで行われていたのが怖かった。
それらを読んだ上で、はたから見たらだいぶおかしい側面もあるけど、それら全て含めて、精神医学はこれだけ曖昧なものに立ち向かい解決するために戦い続けてきたんだと思ったらホロリとした。
日本でも、精神障害の診断を下される人が増えている一方で嘘と言われやすかったり、発達障害がスペクトラ���(連続体)であるという概念が広まったりしているなと思っていたけど、そもそもの診断基準がこんなに曖昧(議論を繰り返し更新していくもの)なのかと分かった。
定義を広くして助けを必要としている人を取りこぼさないようにするのか、定義を狭くして重症の人々へのケアを手厚くするのか、考え方の問題でも変わっていくことも分かった。
精神障害者のケアをどこが担うかという話も、精神病院への収容と拘束が問題になる一方で、仕事で関わる人の話を聞くと、やっぱり暴力的であったりコミュニケーションが難しい人を家族が軸となって世話したり周りに迷惑をかけずに自立して地域で暮らしていくのは限界があるという意見があったりするし、軽度の障害が生活を最もやりにくくさせる、そういう人が結局刑務所に行き着いてしまうという話も聞くから、社会問題として現実につながっている話だと思った。