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絡み合う生命 奥野克巳 AKISHOBO
人間を超えた人類学だという
つまりアニミズムが示す魂を見つめた話?
人類学者だけでは無いが有名になる多くの学者がことの内容を端的に伝えることよりも背伸びした言葉遊びを誇らしげに楽しんでいるように見える
成長期を過ぎての迷いが外目線へと向かわせて淀んでいるようにも思える
この本は自分の研究を語る上で
取り上げる人類学の解説本でもある
アニミズムを人間とそれ以外にわけ
あらゆるこの世の存在が
身体と内なる魂からなるモノとして捉え
さまざまに分析している
ヒューマニズムの人間主義を超えた
自然の一部としての人間を見つめる
マルチスピーシーズ人類学と言うジャンル
そもそも時代の流れに取り残され
昔の感覚を持ち続けている人達を
研究対象とした結果を現代に持ち帰り
旅人はその交流の中で
何を得ようとしているのか?
そこに嘘はないのか?
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◎以下引用
人間と人外がともに暮らしている空間-ハイブリッドコミュニティ
人間と異種がともにつくりあげている生活空間、共異体
野生動物を知りたいと思ったら、とにかく見ること。世の中には情報や知識が氾濫しているからついわかった気になってしまう。でも自分の目で見る。体で見る。あるいは風や光を感じる。そうした体験を通じてしか、わからないことがたくさんある
モノが人間に現れる範囲でしかとらえられてこなかった相関主義を批判し、ものとものが能動的でもあり受動的でもある役割を演じながら独立的に作用する
モノを媒介にして複数のアクターが競合関係を築きあげるサッカー。ボールは単なる対象ではなく、それ自体、他のアクターの働きかけや関係を集約したもの
制作的空間におりていくと、異質な視点と感応的な関係を取り戻すためには、言語を用いているだけでは不十分。現象を超えて、実在を感じること、音やリズム、形としてつなぎ合わせること。鏡の向こうに降りて、鏡の中で乱反射を浴びることで、自らの身体を作り変えなければならない
本来生きることは、他人との関り以前に、多種との関り
アニミズムー人間と人外の間で互いが身体的物質的な見かけは異なるが、内面的、精神的な面では通じているとする思考と実践
結局のところ、意思は歩き回り、自らの重さで、あるいは水や氷や海の波によって運ばれ、がれ場の斜面を転がっていく。また医師は互いにぶつかったりするときに音をたてる。まるでそれぞれの石が人間のように、独自の声をもっているかのよう。もし話すことが、音でそこにいることを知らせる方法なら、石の音についても同じことがいえないか、この意味で石もまた話すのである
★★アニミズムとは何か
◎いのちが石のなかにあるということではなくなり。むしろ、石がいのちの中にあるのだ。人類学では、モノの存在および生成についてのこのような理解、この存在論がアニミズム
→
この「いのち」の中に「共に居る」ときに、そこに「分有」できるものがあるということかな。だから、石にいのちを感じるかどうかは、石という客観物に備わっている作用ではなくて、あくまでもそれにかかわる側との相互作用、関係性の次元にあるのだということがいえる。
またもっと言えば、結局、石や動物に「いのち」をかんじるかどうかは、「世界次第」ということになるんじゃないかな。人間に対してすら、それを「生命」として扱わないことがあるわけで、それは「生命を感じていない世界」に棲んでいることからくる暴挙だと思う。言い換えれば、「根源者」の形成の断片である各自己の織り成す記号過程に身を浸し都度、自らを「根源者」のうごめきに寄り添わせていくことが、アニミズムを成立させるんではないかな。
周りのすべての石は生きているのか。いいや、でも生きているのもある→扱う人によっては、また場面によっては、そこにオーラや生命が感じられるということ
★★秘密の成分である生が石の中に宿ていて、それが石を世界の舞台上で動かす力となるのではない。それとは逆���、生は世界を貫いて流れるモノの循環とエネルギーの潜勢力としてあり、それが石という形を生じさせ、一定期間存在させる
→これは人間も同じだな。人間であるからそれが生命体であるというわけではなくて、人間がいのちという根源主体の断片として在る時に、そこに、いのちが感じられるということがあるように思う。つまり、「そこにいのちを感じる(感じてしまう)」という「感受性」や「態度」が、アニミズムをそれたらしめるのではないか。つまり、ただ、石がそこにある、石が音をたてる、それだけでは、それは生命ではない。そこに「生命」を聞き取る(聞き取ってしまうこと)こそが最も重要
生命が進化して意識が生み出されたのではない。意識という生命エネルギーが物質と格闘しながら、各々の段階の生命を生み出し、人間に至って、意識が本来の自分を取り戻すことになった
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自分は不器用なんで 笑
今は人類学とタイトルに入っていれば
読んでみてるっす。
この本はきっと、今ブイブイきている
著者の近著なんでしょう。あっちこっちに
依頼されて書いた文章を
再構成したようです。
だから、読んでいて 関心の的に近い
食いつきのいい章もあれば、
難解すぎて読み飛ばすしかない章も
あり、総じて理解した気になれない
本でした。
でも、いくつか読んでよかったと思える
部分があって、自分の関心と混ぜて書き留めておくと。
(以下、もしかするとネタバレです)
インドで狂犬病での死亡者が
激増している話なんです。
インドの男性にすごく被害者が
多くて、政府はおそらく対策として、野犬狩りを
強化すると予想されますが、
実は野犬が増えた理由は、
インドで大切な動物である牛さんを長生きさせるために
処方する鎮痛剤がおおもとにあって、
牛の墓場である河原において従来なら
ハゲタカが100羽くらい死体を食べて
わずか数時間で肉を食べ尽くしていたのですが、
牛さんに処方された鎮痛剤が生物濃縮して
ハゲタカが9割減った、そのせいで
野犬が餌にありつけるようになったというのです。
意外すぎる原因で、ハッとしました。
野犬狩りしても、根本的な解決にならない。
人間が知識を用いて環境(牛さん)に働きかけた行為が、
人間に果実をもたらすが、巡り巡って
害をなすということがよくわかりました。
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「マルチスピーシーズ民族誌」の考え方について、小説やコミックス、岩合光昭さんの猫あるきなどといった日常親しんでいる文学・芸術作品を入り口に解説。内容は難しいのだがある程度すんなりと読み進むことができる。
印象深かったのは「ぬいぐるみとの対話」を扱った項。
ヒトと人ではないものとの交流や交感のような感覚がなぜ起きるのか、あまり深く考えたことは無かった。
また、写真を撮ることと、狩りで動物をしとめることを同様の行動として見つめたことも無かった。
私にとって新しい視点が数多くあり、とても魅力的な本だと思った。
オーケストラを構成するそれぞれの楽器、各パートについて詳しく解説してもらいながら曲を聴くような、面白い感覚というか独特の波を感じるような文章も面白い。
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著者の奥野さんは伊藤さんとの共著「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと」を読んで知ったので、別の著作も読んでみようと思い呼んだ。
この本はあとがきにあるようにいろんなところで発表した文章をひとまとめにした本のようで、いろいろと重複が多い。また誰がどういっているというような記述が頻出してきて著者も十分消化しきれていないようで、あるいは探求の過程がそのまま書かれているようで、面白くもあったが、よみにくくもあった。
マルチスピーシズ人類学やアニミズムなどがとりあげられ、人類学が人間中心では到達できない地平に人類から離れた俯瞰する視座を設定する。そうすると人そのものも決して確固たる基盤があるわけではなく、ほかの生物や物質とのやり取りの中でのダイナミズムの中でとらえようとしてる。
私は海洋生態学に長年かかわってきたので、生命や地球の活動が決して人間中心でないことは自明であるのだが、人類学はあくまで人類を中心に据えて発展してきたのだから、ようやく脱人間化できてきたのかというところである。
レヴィストロースが野生の思考で脱西洋に到達したことと比べようやく脱人間まできたという感じだ。
この本は人類は今後どのように世界とかかわっていくべきかについて深い問いを投げかけてくれる。