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091217 by京都自由学校mr.?on 090731?
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フレデリック・ワイズマン 映画監督 作品群 036
『ドキュメンタリー映画の地平』 凱風社 佐藤真 040, 074,
『ルポ・精神病棟』 大熊一夫 146
『休暇』 門井肇 196
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020, 026-7, 大切な人…? ここNYならぴったり…030, 037, 040, 043-6, 053, 059, 069, 071, 076, 088, 108, 110, 154-5, 157, 185, 222, 227, 239, あとがき(←まとめ)243-5,
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結局は真実など闇の中である。
呼吸することをコントロールすることすらできなくなってしまう。
理想の自己像に比べて、常に引き算、実際の自己像が。目標を持つことはいいこと、でもそれは親や社会から与えられた目標であって、自分自身の内とはつながっていない。
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タブーを扱っているけれども
彼そのものは決して興味本位でないところに
注目してください。
そう、著者自身も精神に一時的な
異常をきたしたことのある「経験者」でもあるのですから。
ドキュメント映画の
何たる蚊、究極を見せ付けてくれる作品です。
一部患者さんの内容には
本当に強烈なものを含む人もいます。
でもこのケースは私は絶対批判できないなぁ。
なぜならば彼女は味方もおらず
「極限状態」だったのですから。
その気持ち、本当によくわかります。
かつての私もこれと同様の経験を
したことがありますから。
残念ながら私はこの映画を見たことがありません。
だけれども機会があったら
絶対に観たいです。
正しい精神疾患の世界を
知りたいのです。
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ドキュメンタリー映画「精神」のメイキングや公開後の対談収録。
映画観覧後に読むと、当事者の本音や想いがより深く理解できる。
★印象的な言葉★
精神病者は異質なものではない。
自分自身の心の動きに対して目を向ければ向けるほど、自分もそういう行動を取る可能性があると思い当たる。
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感想代わりに、著者あとがきより。
ちょっと効率が悪くてもいいから、大荷物を抱えた僕や、逆方向に進む人、立ち止る人、身体や精神に障害のある人が、冷たい眼差しを受けずに、自分のリズムで堂々と歩ける駅なら、社会ならなあ、と思う。主流から脱落しても、「別の生き方があるさ」とへっちゃらでいられる世のなかになったらなあ、と思う。
でも、それは「弱い人を保護しよう」というのとは、ニュアンスが違う。むしろ、リズムの異なる非主流派の生き方や見方、考え方の面白さに、主流派はもっと気付けばいいのに、そこからもっと学べばいいのに、という思いが強い。
これがこの本、そして、「精神」という映画で想田監督が訴えているテーマである。
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映画『精神』の編集後記的内容。
色々な問題を提起しているが、どれもこれも考えてみれば当たり前のことのように思えてくる。
それだけ、自分たちが普段このような問題から目を背け、思考停止しているということだろう。
モザイクをかけていないこの映画をどう扱うか、メディアが逡巡している風景の記述がなんともリアルで、印象的で、象徴的だった。
こういう映画が評価されない、それ以前に、評価するかどうかの土俵にすら上がれない、という状況がいつまで続くんだろうなぁ、と思う。
「ドキュメンタリーは主観的作品」と断言してくれるからこそ、僕はこの映画や本の内容にリアリティを感じることができた。
次回作も既に撮影中とのことで、しかも被写体が平田オリザさんということで、それはもう期待せざるを得ない。
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映画『精神』のメイキング/ルポルタージュ
想田監督の「観察映画」製作に対する姿勢がよくわかる。貫かれた一筋があって安心できる。
メディアと精神医療の「業界」事情も赤裸々。
いろんな意味でちょっと新鮮。
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山本先生との対談が印象深かった。
先生の、長年の経験に裏打ちされている
説得力のある言葉の数々。
でも、おっしゃっている言葉は
穏やかで優しいのです。
この章だけでも、もう一回読もうかな。
この後の斎藤先生との対談もいいです。
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映画『精神』をめぐる数々の議論まとめ。映画の方は予告編にすぎない。こちらに書かれてあることの方が本編だと思う。出演者の一人は座談会の中で、『(精神病は)こんなんじゃねぇ』と言い放っている。
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映画「精神」の作成にまつわる話や後日談.
精神障害者をタブー視しないことの陰と陽の部分について.
映画の内容について言及されている部分が多いので映画を見てから読んだ方が楽しめると思います.
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映画「精神」と合わせて。
正気と狂気の境目がわからんとずっと思っていたが、なるほどスロープか。
境目なんかなかったのだ。
斉藤先生の「病院に近づかない方がいい」に共感。
病院と美容院は苦手やわ。
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想田監督が撮った映画「精神」のメイキング的な本。
「精神」は、岡山県の精神科クリニックで精神障害がある人々を追ったドキュメンタリー。5年ほど前に公開され、以来各地で上映されている。次々と人物が出てきては笑ってひょうきんな姿を見せたり、泣きながら話したり。ナレーションは無い。でも編集が良いのか(あるいは被写体が良いのか)、わざわざナレーターに説明してもらわなくても状況が分かる仕組みになっている。
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ちょうどこの本をを読み終わった直後、(想田監督とは別の)某男性監督が撮った、とあるインディペンデント系ドキュメンタリー映画を観る機会があった。被写体は精神科病院に集まる人々。被写体は凄く人間的で、私にとっては魅力的な人たちだった。
上映終了後、それを撮った当人(監督)が登場。舞台挨拶と称して話し出したが、「偶然面白いなーと思ったから(映画を)作ってみた」などと、地に足が付いていない様子。一つ一つのシーンは確かに良かった。特に陽性症状が出ている時の長回し。私は食い入るように観た。ただ、その映画が結局何を目指しているのかいまいち分からなかった。
だから私は監督に直接、内容や取材の意図を尋ねた。「なぜこのタイトルなのですか」「なぜいま日本にはたくさんの人間がいるのに、その中で精神障害者をクローズアップしたのか」等々…。
しかし、はぐらかされてしまった。監督はもっぱら「それは観た人に考えてもらいたいです」と連呼していた。
この日はファンらしき男性に映画の出来を手放しで賞賛された時だけ、口角を上げ饒舌になっていた。ああ、この監督はきっと、取材対象者のことを一人の人間ではなく、ただの「コンテンツ」「ネタが出てくる打ち出の小槌」程度にしか思っていないのかな、という印象を受け、がっかりした。
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「あえて受け手に考えさせる」ことと「受け手に放り投げてそのままにする」ことの間には大きな隔たりがあると思う。
自分がなぜ取材して伝えるのか。だれのために、なんのために、どのような必然性があるのか。
それを自分自身の中ではっきりさせないままの状態で社会のデリケートな部分に踏み込むのは、私は(精神疾患分野を扱ういち新聞記者として)、とても無責任なことだと思う。
新聞もテレビも、もちろんドキュメンタリーも、世の中の事実を切り取って受け手に伝えるという点では変わりない。
(俗にいうマジョリティの)社会の側から覗けば、にわかに信じられない別世界のような話であっても、それは「フィクション」ではない。現実で本当に起きていること。
受け手に向かって一方的に放り投げることで、受け手に誤解を与えてしまうような映画なら(例え誤解するのがごく少数だとしても)、取材された側が不利益を被ってしまう。報道には、人の人生を左右するほどのリスクがある。
この本のように、発信する側の主観をきちんと整理して提示する、というのはある程度は必要だと思う。特にこの本は「なぜ精神障害者の顔にモザイクをかけるのか/かけないのか」とい���ところから「実子を殺めてしまった母親のシーンの必要性」まで、丁寧に説明してくれている。そこにに対して賛成・反対を示すのは受け手の自由。物事すべてに説明が要るわけではない。
でもそこにきちんと「意図」が存在することくらいは示してほしい。と、私は思う。
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[ 内容 ]
モザイク処理は絶対に使わない!
―タブーに挑み、精神病の本質に迫った映画『精神』の想田和弘監督が、公開にいたるまでの紆余曲折と葛藤を語る。
精神科を撮る理由、「観察映画」にこめた思い、患者への共感、モザイクをめぐる葛藤…。
映画には収め切れなかった数々のエピソードから、精神病大国・日本の現実と社会・メディアに広がるタブーについて考えさせる一冊。
精神科医・斎藤環氏との対談も収録。
[ 目次 ]
第1章 社会と精神病者を隔てる「見えないカーテン」―精神科を「観察」する理由
第2章 「病んで」いるのは誰か?―カメラを通して精神病者と向きあう
第3章 『精神』をめぐる波紋
第4章 私たちが映画に出た理由―登場人物との対話
第5章 精神を「治す」ということ―山本昌知医師との対話
第6章 『精神』という爆弾―各国で巻き起こった議論
巻末対談 『精神』が照らす日本の精神医療(斎藤環;想田和弘)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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映画『精神」を見て読んで、そして数年経ち、映画『精神0』を見るという今。山本先生の一貫した佇まいに感動する。そして勇気付けられる。
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“精神科”
ストレス社会の中、この病気に対する偏見は少なくなってきていますが、それでも“精神科”について話すときは一段声が低くなります。そんなタブーの世界にカメラを向け、トキュメンタリー映画を撮った監督がいます。
作り手の意図を観る人に刷り込まないように、テロップ・ナレーション・BGMを排除した「観察映画」という手法を使って撮られた映画です。観客がその映画を観てどのように思うか、自由に思考することを促します。
舞台となったのは、“こらーる岡山”という外来専門の精神科です。古民家に少しだけ手を加え、居間のような待合室で、患者が寝転びながら、患者同士で談話しながら診察の順番を待ちます。
この映画の驚くべきところは、患者をモザイクなしで写しているところです。予め患者の了解を得ています。もちろん、NOと言った人は写しません。
なぜモザイクをかけないのか?
患者のプライバシーを守るためには、モザイクが必要…と考えがちですが、それは反対に、作り手がリスクや責任から逃れる手段にもなるのです。そのような逃げの姿勢からは、患者の本質を捉えることはできない。そう監督は考えたのです。
この映画を観てはいないのですが、ここに登場する患者が皆、魅力的に感じるのはなぜでしょう?
苦しんでいる。
もがいている。
でも闘っている。
この映画を探して観て見たいと思っています。