投稿元:
レビューを見る
立派な自己啓発本とも言える『はじめての課長の教科書』の著者が書く『自己啓発をやめて、哲学書をはじめよう』というタイトルの本。「自己啓発と哲学は表裏の関係にあります。その意味では、自己啓発にハマってしまう人には、哲学の素養もあると信じています。だからこそ、本書は自己啓発と哲学の違いに注目しています」というスタンスから入る。ここで「自己啓発」の定義が必要になる。そうでなければ、本書で最も重要な概念であると思われる「自己啓発」について著者と共有できずに本を読んでしまうことになる。
著者は、「この不思議な世界に対して、不思議な理由を付けて、他人を利用しようとするのが自己啓発の立場です」という。明らかに人をだまして、お金を巻き上げる悪徳商法という位置づけだ。一般に「自己啓発」を、そのような定義で使う人はあまり多くはなく、単に自分で進んで色々なことを勉強して身に付けようとする姿勢や行動、だと思うのだが、この本ではそうではない。ここまでは定義の問題であるのでよしとしよう。
著者の論理がどこかずれてしまっていると感じるのは次のような記述だ。
「かつて、飢えている子供の写真を見て「外国は大変だな」と感じたことがあるかもしれません。実際に現在の世界では、およそ8憶人の人々(9人に1人)が飢えています。人類は、飢えのない世界の構築に失敗し、こうして飢えている人口はむしろ増えています」
ベストセラーとなった『FACTFULNESS』を読まずとも、上記の記述は感情優先の非論理的な議論の典型になっている。世界の食料事情はかなりのペースで改善されていることがデータでも示されている。『FACTFULNESS』から引用すると、「極度の貧困の中で暮らす人々の割合は、20年前には世界の人口の29%だったが、現在は9%まで下がった。...飢餓という、人類の苦しみの根源が消え去るのも時間の問題だ」となっているのが現状だ。
さらに続く次の記述もひどい。
「ここで、今の世界では、先進国と発展途上国のフラット化(先進国の既得権益が減り、発展途上国との差が小さくなる現象)が進んでいるという事実を忘れるべきではないでしょう。つまり、こうした飢えは、どこか遠くの外国の話ではなく、今後の日本にも確実にやってくるのです」
「フラット化」を先進国の貧困化と捉えるのは決して一般的ではないし、進行している事実としても正しくない。そもそもフラット化という言葉が流行するきっかけとなったトーマス・フリードマンの『フラット化する世界』を読めば明らかにわかるように、この場合の「フラット」の意味はグローバル化に近く、経済状況が平均的になるということではない。逆にフラット化により格差は拡大しているが、貧困は少なくなっている、と捉えることがデータから示されることであり、一般的な認識だ。
進化論の援用もやや見苦しいほどに恣意的で、我田引水である場合が多い。哲学を薦めると謳い、学問の価値を語るのあれば、なおさら慎重であるべき進化論の引用において不用意にすぎる点が多い。
「進化論が事実であれば(これを否定することは困難ですが)運が悪いだけで、誰もが脱落者になり得るのです」と書くが、進化論が事実であってもなくても運が悪いだけで、誰もが脱落者になり得るし、進化論が示すところは過去の自然淘汰により現在の生物相が存在するということが言えるだけで、これを運が悪く環境に順応できなかったと言ったとしても、あなたが運が悪くて脱落するかもしれないことにはほとんど関係ないことである。また、人工知能の登場を、「人類から生活の基礎を生み出す仕事を奪うばかりで、(人類の)収容能力を減らす方向に貢献してしまいそうです」と結論づける。どうしたら、こういう考え方になるのだろうか。人工知能は明らかに生産性を向上する方向で(そうでなければ浸透しない)、その進化の速度が速いことによって混乱は起きる可能性はあるが、地球環境の収容能力の観点からはプラスになりこそすれ、マイナスになることはないだろう。「少子化もまた、子供が欲しくないという頭痛ではなくて、人類が滅亡しつつあるという脳卒中に注目することを訴えるものとして認識する必要があるのです」と書くに至っては、著者の方が「自己啓発」や新興宗教の方向に走っているのではないかと心配になる。
どこかがおかしいと感じながら読み進める。特に、自己啓発の例として「紙に書くと実現する」が不自然なほど頻繁に挙げられる。あまりにも繰り返されるので、読んでいるときから著者はこのセミナーに恨みでもあるのではないかと想像できたのだが、あとがきで、著者の友人が「紙に書くと実現する」セミナーにはまってしまったという事実が明かされる。論理ではなく、感情で書いているのか、と合点した。
最後に著者は、友人でもある山口周さんの本にインスパイアされてこの本を書くことになったと告白する。「哲学」ということでは、体系的にも学問として身に付けてきた山口さんのものとは厚みが違う。また一方、「自己啓発」については、友人がはまった例をあまりに一般化しすぎていると感じる。学問として一定の競争環境とレビューを経て評価された「哲学」には優れている点はある。しかしながら著者が「哲学」を薦める説得力のある議論になっていないし、進化論の解釈なども含めて「哲学」の良さを説明するに至っていないと感じる。
それにしても、酒井穣らしくないし、どこか危うさも感じる。『はじめての課長の教科書』だけでなく、その後の『あたらしい戦略の教科書』、『英会話ヒトリゴト学習法』、『「日本で最も人材を育成する会社」のテキスト』、『これからの思考の教科書』、『リーダーシップでいちばん大切なこと』、『ご機嫌な職場』、『君を成長させる言葉』など多作だったが、それぞれ素敵な本だった。どうしてしまったのだろうか。
著者は、一定の社会的評価を受けて、こうやって本を出版できていることを「運がよかった」と言う。それは哲学的な幾多の考えの末に辿り着いた境地なのかもしれない。著者の苦悩と達観(とその境地への静かな熱望)が透けるようだ。しかしながら、昔の本からは滲み出てきた自信や自負までも否定しているようで納得がいかない。初心に戻るという意味も含めて、同じテーマでは本を書かないという著者だが、そういった縛りからは自身を解放してもよいのではないか。
----
『はじめての課長の教科書』 のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4887596146
『あたらしい戦略の教科書』 のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4887596448
『英会話ヒトリゴト学習法』 のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4569703461
『「日本で最も人材を育成する会社」のテキスト』 のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4334035426
『これからの思考の教科書』 のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4828415904
『リーダーシップでいちばん大切なこと』 のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4820718150
『君を成長させる言葉』 のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4534049080
投稿元:
レビューを見る
初めて著者の本を読んだ。実直に書かれていることに好感を持てるし、論理的な展開と無駄のない文章で読みやすい。なので買ってその日に一気に読めてしまった。自分で分かっているけど明文化してこなかったことをスパッと言われた感じ。他人の頭で考えてしまった感じ。(ここちょっと罪悪感) フォレスト出版がこれ出すのかよ!っていうツッコミに対する背景は、はじめとおわりに書かれている。もしかしたら出版元ももがいているのかもしれない。
仏教のことはよく知らないが、自分のうちではなく外に求める態度は、どこか無私の境地に近いし、発達段階理論を持ち出し最後の段階の説明のところからも、そう感じる。世界への興味、という点は分かるけど、その先(あるいは手前)にある、世界と自分との関わり、が本当の興味ではないのだろうか。
氏がちょくちょく名前を出すキルケゴールの哲学も、実在主義としてそう考えたものではなかったっけか。
と書いたが、一方で。私への興味が残るからそう考えるのであって、純粋に対象そのものへの興味に昇華されれば、あるいはそうしたものに出会えれば、自分との関わり、という観点は消えるのかも。それもありか。
投稿元:
レビューを見る
前半は著者の自己啓発に対するアンチな感じがリズミカルだった。自分自身を変えられるというのは嘘。変えられる可能性があるとすれば他者の環境になっている場合のみというのは結構本質的。頑張れば自分は変えられるっていう意識の隙を突くのが悪徳啓発ビジネスだから。
後半はサクッとした哲学史とキーガンの成人発達理論など急にリズム感無くなる。
投稿元:
レビューを見る
「自分というつまらないものを探求するのをやめて、この世界という素晴らしいものを探求しよう」という考えから、
自己啓発=自分探しをやめて、哲学=世界の真理探究を勧める本。
著者の見識が紹介されており興味深い部分もある。
一方、自己啓発=悪、のように決めつけているところには違和感もある。
投稿元:
レビューを見る
自己啓発が貧困ビジネスであるということは全くその通りだと思うし、こうして否定すると余計躍起になるところが厄介だなあと思う。可能性を広げるのも大事だけどこうした本当のことを述べるのは重要だと思う。
投稿元:
レビューを見る
初めて、というか久しぶり?に途中で読むのをやめた。
自己啓発=弱者につけこんだ宗教である、みたいな論調で話が進んでいくのだが、なまじデータなどを持ってきて科学的に根拠がある風に書いてあるくせに完全に個人の主観で決めつけ論を偉そうに語っている。読んでいて甚だ不快で、読むに耐えない内容であった
投稿元:
レビューを見る
自己啓発という言葉のせいで著者の意見にかなり偏りが出てしまうようにみえるのが勿体無いなと思ったがそれこそが狙いなのか?
本書の最初と最後では人の人生の大きな流れは変えることができないという主張の上でそれでも自己の外側の理解を深めるために哲学を学ぼうというように受け止めた。
中盤は自己啓発というよりオカルトや引き寄せの法則など科学的根拠のないものへの批判に思え、そのすべてを自己啓発として括ってしまっているので偏りを感じてしまった。
とはいえ著者の主張は面白いし、哲学を扱っている本にしてはかなり楽に読めた。
投稿元:
レビューを見る
「自分こそが正しいという人間を確実に不幸にする態度を哲学はかなりの程度まで減らすことができる。自分より重要ななにかを発見するための手段であり、自分自身よりも重要なもののために生きるという救済の道」
「自分というつまらないものを探求することをやめにして、この世界という素晴らしいとものを探求しよう」
示唆に富んだ表現が多く、知的態度を見つめ直すきっかけになる。
ただ、著者が自己啓発を憎みすぎている(笑)ことがややノイジーである。自己啓発の定義もやや曖昧で切れ味が悪い。イメージとして共有はできるがそんなに言わなくてもいいと思うのだが。
「自分の中にある「うまく言葉にならないけど、なんだか知っている気がする」というきづきを、簡単には疑えない言葉にする試みが哲学」
という言葉にとても感銘を受けた。「なんだか知っている」を放置せずに向き合っていきたい。
投稿元:
レビューを見る
まず自己啓発の「啓」という文字は漢文由来の言葉で、「開く」という意味があります。
また「発」は、「弓を射ること」で、当たって何がか生まれるという意味です。
なので、「啓発」とは、「開いて、わかった」、もっと意訳すると、
「すぐに、わかる」という意味です。
つまり、自己啓発とは、「自分ですぐにわかること」のことです。
本書には、もちろん、以上の説明はされていません。
「自己啓発」という定義が、そもそも書かれていません。
これは、おそらく、意図的にやっていると思います。
「自己啓発」という言葉の意味は、
たぶん、多くの日本人はわからないだろうという前提で、
説明せずに、論を進めるのは、哲学的には「あり」です。
自己啓発をせずに、哲学しましょうというのが、
本書の中核となる主張ですが、自己啓発がすぐにわかることなら、
その対比としている哲学は、すぐにわからないということになります。
これは、「自分の頭で考えられるようになる」ということは、
どういうことかにもつながる話しですが、自分が何を必要しているのか、
自分で探り当てられるようになる手段として、哲学の必要性が実感できるように本書は、
「自分ですぐにわかる」ように構成されています。
もちろん、これは、著者の皮肉です。
個人的には、日本で出回っている自己啓発(書籍やセミナーやプログラム)は、
その機能と役割でいうのなら非常に宗教に近いと思います。
宗教とはなんぞやと話しになると、これまた厳密に定義することは、
非常に難しいことですが、マックス・ウェバーの説を採れば、宗教とは、
エトスのことです。つまり、行動様式のことであり、そのパターンです。
なんで、自己啓発が上記の意味でいう宗教に近いかというと、
自己啓発(書籍、セミナー、プログラム)は、宗教社会学でいう所の啓典宗教ではなく(絶対となる行動指針を書いた教典がない、○○が言いましたと、適当な引用で何とも言える)があり、個人救済を主に考えていて、
それは、因果律(こうすれば、こうなると、わかりやすくのべられている)で構成されているからです。
多くの日本人は、宗教としての信仰心は持っていません。
何が良いのか、悪いのか、その時の状況や空気で変わることを、
良く知っています。明確な行動基準も、倫理観もないので、
ある一定の状況下になると、平気で自殺します。
こういう状況下に、ビジネスとして、うまいことやっているのが、
自己啓発だと思います。ビジネスとして成立しているということは、
そこに市場があり、需要があるということです。
自己啓発の教えは、
○○すると、△△になる。という、
信じられないぐらい、わかりやすく、論理が構成されています。
この論理は、「あっ、わかる、わかる、そうだよな」と、
思いやすい。この状態の時、実は、脳は、ほとんど、活動していないみたいです。
この論理に付随する奇跡、つまり業績を上げただの、
同僚との関係が上手くなっただの、営業NO1になれただの、
それらを提示すれば、なるほど!なと、すぐに思ってしまいます。
もちろん、現在、より、巧妙になっています。最近は、科学的根拠(引用論文)など、
わけのわらない「わかりやすさ」で、多くの日本人を魅了しています。
多くの大卒の日本人は、大学時代ほとんど勉強という勉強はしてませんし、
もちろん専門知識(専門とする学問の論理体系の中核となる理論と
論理構成の知識)など皆無ですから、
「わかりやすいもの」に非常に魅力的に感じるようになっています。
一説には、自己啓発の実践プログラムは、
侵略した国の奴隷や自国の軍隊の兵士を要請するプログラムとして開発されたものと
指摘する人もいます。よって、プログラム開発者は、元軍人が非常に多い。
あと、意外かもしれませんが、バリバリの体育会系で育った人達です。
そのプログラムは、優秀な市民や考える兵士を養成するのではなく、
いつでも積極的に喜んで死んでくれるように、また、
どこから弾がとんでくる状況においても「突撃せよ!」と言われたら、何も考えずに、
突撃するような兵士を養成するプログラムです。
この極端な例が、自爆テロを起こす、テロリストです。
こういうプログラムは、一言でいうと、洗脳ですが、
その方法論は、信仰宗教の布教活動で行われているものと、
ほとんど変わりません。
もちろん、「怪しさ」を消して、より、カジュアルにファッショナブルになっています。
自分がやっている読書は、以上の意味でいう自己啓発なのか?
自分のやっている英語の勉強は、自己啓発のなのか?
自分のやっている経営の勉強や、プログラミングの勉強、
マーケティング、自信をつけるセミナー、投資セミナーは、
自己啓発なのか?一度、じっくり考えてみるのが良いかもしれません。
すくなくとも、○○すると、○○になりますよ、とわかり易い論理で、
書かれていたり、話すものは、限りなく自己啓発に近いものです。
だって、この世に役に立つことで、すぐに、わかって、使えるものなど、
ありません。いや!あるよ!という人は、突撃せよ!で、突撃する兵士なのかもしれません。
そういうノウハウを、ブラック企業と呼ばれる、職員を企業の利益を追求することを目的に、
過労死寸前まで、働かそうとしている状況(労働者が自ら、その状況を作り出すように
できるノウハウを持っている)を見れば、自分で、自分を守るための論理(これが役に立つ知識です)、
それが、著者がいう現代的な意味での哲学なのかもしれません。
投稿元:
レビューを見る
哲学とは?自己啓発とは?哲学と自己啓発の違いとは?を万人に分かる説明で教えて
いる。自己啓発ビジネスは著書と同じ判断であるが、自己啓発そのものはネガティブにはとらえなくてもいいのかな?というのは感じた。自分に対して自分を知る勉強のことでもあるので、そういった意味ではポジティブな方向に考えたい。
投稿元:
レビューを見る
タイトルに惹かれて読んでみました。自己啓発と哲学の対比がうまく表現されていて、とても説得力があります。後半は哲学を深掘りしており、色々と興味深い内容が書かれています。私が気になったのは『成人発達理論』です。縮約するとこんな感じです。
ハーバード大学のロバート・キーガン博士らは、大人の成長を五つの段階に分けて考える『成人発達理論』を提唱しています。
①具体的思考段階・・・言葉の獲得と、それによる基本的な思考段階
②利己的段階・・・自分以外の他者を、自分の欲求を満たすための道具として考える段階
③他者依存段階・・・自らの選択を、社会や組織の常識にゆだねようとする傾向を持つ段階(成人の70%が、この段階からの脱出に苦労している)
④自己主導型段階・・・自分の価値観に従って、自律した人生を送ることができる状態
⑤自己変容段階・・・自分の成長に対する興味を失っている特徴があり、より哲学的。自分の価値観を越えており、自分自身を他者と同じように観察できる状態(到達できている人は1%以下)
③と⑤は似て非なるものです。自覚症状は明らかに異なりますが、外見で見分けるのはなかなか難しそう...。少なくとも目指すべきは⑤ですね。そして「役に立たないことこそ、私たちにとって唯一の希望なのです」の一文、我が意を得たりです!最近、役に立たない事ばかりやっているのですが、どうやら正しい道のようでした(^^;
投稿元:
レビューを見る
自己啓発と哲学は表裏の関係にあり、自己啓発は歴史のある貧困ビジネスという視点に惹かれ読んだ。本来の意味がある自己啓発はちゃんとあるはず。自分の自己啓発が作者の言うような、溺れている者に対して藁を売る貧相なものでないと思いたい。