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差別や暴力の本質を、自分はまだ理解できていなかった……。強者や多数派から弱者に向かうのは、その通りなのですが、そんな簡単な話でもない気がします。差別や暴力の本質は、その弱者の内に巣くい、川の水が上流から下流に流れるように、弱者・マイノリティの中の、さらなる弱者に行き着くところが、本質なのかもしれないと、この小説を読んで思いました。
小説の序盤で語られる少女たちの疑問や願い。
なぜ白人の女の子みたいに、わたしは「かわいい」と言ってもらえないのだろう。
美しい青い眼さえあれば、みんながわたしを認めてくれるはず。だから青い眼をわたしにください。
少女たちの純粋すぎる疑問、そして切実な願いは、改めて差別の残酷さを浮き彫りにします。そして、こうした疑問や願いは実は知らず知らずのうちに、自分に牙を向けていることを、著者のトニ・モリスンは表現します。青い眼をほしがる少女に対しての表現で印象に残ったところがあるので、ここで引用。
奇蹟だけが自分を救ってくれるという強い確信に縛られていたので、彼女は決して自分の美しさを知ろうとはしなかった。(p70より)
この文章を読み、ほんとうに哀しくなりました。差別されるものとして自分自身を受け入れざるを得ない現実。内在化され、もはや奇跡が起こることでしか動かしようの無い自身への評価。著者は本来誰もが持つ人の美しさを知りつつも、それを知る由も無い少女をありのままに描くのです。
さらにこの小説は、少女視点で差別を描くなんて生易しいものではありませんでした。さっきの引用はまだ序の口です。著者は少女から、少女の周りの人間、さらに彼女の親と、それぞれに視点を移していきます。
始めはいきなり著者が語っている人が変わるので「読みにくいなあ」と思っていました。しかし、徐々にこの視点の切り替えの意味が分かってきます。著者は視点を自在に切り替え、それぞれの思いを写し取ることにより、社会に内在化された差別を暴いていきます。それは白人社会の差別でもあるのですが、黒人内でもヒエラルキーなどによる差別があることも、同時に暴くのです。
そして物語の後半には少女の両親に視点を切り替え、二人の人生を語ります。この切り替え、そして二人の人生が語られることによって、差別や搾取は現在浮かび上がってきた問題ではなく、歴史に、文化に、慣習に、そして生活に、もっと言うならば”国”と”人間”に根付いたものだということを、明らかにしていくのです。
そして青い眼がほしいと無垢に祈った少女の願いの果ては、あまりにも残酷なものでした。それは差別と目に見える暴力、見えない暴力が膿となって溜まり、弱いものから最も弱いものに向けて決壊したような印象を、自分は感じました。
人種差別を扱った映画や小説は、いくつか鑑賞したり、読んだ経験があります。そのときたまに出てくるのが、性的に搾取される女性たちや少女の姿でした。この本を読むまでは、それに特に深い意味を感じることもなく、ただ痛ましいだとか、かわいそうだとか思うだけでした。しかしこの本を読んでなぜそうした場面��あり、そうした歴史があったのか、自分なりに分かった気がします。
白人と黒人という構図は、実は男性と女性とにも置き換えられるのかもしれません。白人社会の中での黒人、男性社会の中での女性、いずれも役割を押しつけられ、そして搾取される存在でした。
つまり自分が今まで見てきた性的な搾取は、社会の中で力が強いものが弱者を虐げる。そんな人間が本質的に持つ暴力性や残虐性を、人種だけでなく性的にも現していたのではないでしょうか。
そしてこの小説が暴いたのは、異なる人種間だけでなく、同じ人種間でも、階層、親と子、男性と女性とで差別があり、暴力があり、搾取があり、それは弱いものの中でも、さらに弱いものに向かうという現実だったのだという気がします。
この小説の裏表紙の内容紹介で「白人が定めた価値観を痛烈に問いただす」とありました。それは間違いではないのですが、個人的にはもっと深いところに、この小説の目的があるように思います。
あらゆる人間が持つ暴力性や残虐性。それは時に社会や文化に埋め込まれ無意識に発現し、弱いものからさらに弱いものへと襲いかかります。あらゆる人種にかかわらず、それを自覚させることが、この小説の目的だったのではないかと、自分は思います。
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以前、西加奈子さんが紹介していたのを見て、読んでみました。
読みやすいけれども、ずっしりときた。この本を読み終わった日にはピコーラーのことお母さんのこと、お父さんのこと、、、たくさんの人に思いを馳せてしまい、眠ることができなかった。きっとどうやってもなかなか打破できない状況ということをリアルに感じ、そして私もその作品に入ってしまった時に、何もできない傍観者のような気持ちになったからかもしれない。なんだか、近所にいたり、すこし知っている人の「ゴシップ」(もっとずっしりとしたものだけど、、)を聞いたような気持ちになった。同じ人種の中の差別、壊れてしまった夫婦、過去のトラウマや憎悪、あらゆる面が紡がれていっている。
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何とか原書で読んでみた。主要でないとおぼしきところは飛ばしたりしたので消化不良かも。世間での高評価ほど感動せず。語り手の少女が貰った人形が白い肌で青い目でそれがかわいいとされてきるのに自分が違うので複雑な気持ちになるとか、子供の頃からマイナスなバイアスを抱えるのが伝わる。親に捨てられて育ったから自分が父親になっても、世間の父親のような対し方がわからないとか。自分の父親の子供を産むことが必ずしも不幸とは決めつけられない。そう決めているのは社会。しかし自分で生き方を選べないのは良くないし幼いうちにその境遇になるのは悲惨だ。その悲惨さを生み出している連鎖は描かれていると思う。
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1941年、アメリカ北部にあるオハイオ州ロレイン市に暮らす9歳のクローディアという少女を通して、ある事件を中心に黒人たちの世界を描いた小説で、秋から夏までの四季に分けて進行していきます。
「青い眼がほしい」と願い、物語の焦点となるのはクローディアの友人、ピコーラという12歳前後の少女です。彼女たち二人以外には、ピコーラの母ポーリーンの過去と父チョリーの過去、そしてクローディアから眼を青くしてほしいと請われる客員牧師ソープヘッド・チャーチの章が設けられています。クローディアの年齢は当時の著者の年齢と合致しており、彼女は著者の分身でもあるのでしょう。
主題だけではなく、小説としての構成、少女たちの目に映る社会の姿など、目を見張る点が多々ありました。心に深く刻まれ、容易には整理し難い小説です。本書を知ってからしばらく躊躇していたのですが、読んで良かったです。気になっている方はぜひ。
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読書会課題本。救いのない話で読後感はあまり良くない。しかし「人種差別」だけでなく広い意味での「差別」に目を向けさせてくれる内容で非常に興味深い一冊だった。これがノーベル賞作家のデビュー作という事実に驚愕する。
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2020/08/13
猫町倶楽部で課題本となった「青い眼がほしい」について、ほんの触りではありますが、レビュー動画を作ってみました。
https://youtu.be/WpF9_cBzoQI
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ノンジャンルと言える長寿本の一つに珍しく手を出してみた。ノーベル賞作家トニ・モリスンのデビュー作であり、1970年に生み出されたものの、広く世界で読まれるようになったのは四半世紀という時間を要したそうである。
この作品は、あらゆる意味で人間を比べてみることの愚かさと、その中で犠牲になってゆく心の痛みへの深い理解を、地道に、日常の言葉で綴ったものである。主たる視点は少女のものだが、時に他の三人称視点を使って挿入される作中作のような物語が、かしこに散りばめられている。
世界の歪みを、多角的な視点で捉えつつ、様々な区別や差別が人間に対してなされてゆく行為や、無意識という水底に沈殿してきた最大の罪のあり様を、作者は文章によって水面に浮上させてゆく。見た目の形としての差別。
人種差別、性差別、知的差別、肉体的差別。そのすべてを象徴するもののように、黒人少女ピコーラは周囲から捉えられており、その生を、語り手のクローディアは世界の歪みとして気づきつつ、なおかつ安全圏にいる自分の立場に揺れる。
恐ろしい時代。1941年の秋から翌年の夏への一年の季節。マリーゴールドが咲かなかったことから物語は始まる。大戦前の不穏なアメリカ。その時代の小さな村で、小さな女の子の身に何が起こったのか? 誰も耳を貸さなかったこの本は、1993年に作者がノーベル賞を手にした途端、日の目を見ることになる。1994年にトニ・モリスン・コレクションとして再版され、2000年にはこの文庫本のかたちとなった。
それを2020年に読んでいる自分がいる。TVではトランプとバイデンによる選挙の予想が報じられ、人種差別問題は、現代の南北戦争とまで呼ばれている今、本書は決して古い物語ではなく、連綿と続くアメリカという国、また遠い国の話というだけではなく、日本国内、身のまわりでも、当時同様の偏った精神性に身を委ねようという無思考な姿勢が問われてはいないだろうか。
今、この時代に、社会問題としてよりも、人間の在り方というような日常の視点からこの問題を抱え込んで頂きたいと、本書は万人に語りかけているように思う。
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変わった構成を持つ小説。
1941年、オハイオ。
太平洋戦争に参戦し、アメリカ社会も高揚する頃。
恵まれない家庭環境で育つピコーラが、父に犯された上、心が壊れてしまうという悲劇を描く。
黒人社会の中で、ピコーラのように、より「醜い」とされる者と、そうでない者とに分かれる。
人種への蔑視が内面化されている。
(そして、それは私たちにも身に覚えのある感覚だ。)
追い詰められていく中、「青い眼が欲しい」と願い続けるピコーラの姿は痛ましい。
最初、近所の少女、クローディアを通して、ピコーラたち、ブリードラヴ家のことが語られる。
しかし、視点はやがて母ポーリーン、父チョリーに移り、彼らがどんな関係を取り結び、そして壊してきたかも語られる。
この人たちも、困難な人生を歩んでいることがわかる。
自在な語り、生活の細部まで克明に描きながら、安易な感情移入を許さないようコントロールされた筆致に、当惑しながらも、ぐいぐいひきつけられる。
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著者の作品はこれで2冊目。
これYAにあったけどYAは不相応。
なぜならば性的表現がきついのと
ライトに収めているけれども近親相●がでてきます。
ただし、そこまで重いわけではないです。
なぜならばあからさまに登場する人物を
批判するわけではないから。
主人公の子は黒人の子だったもの、
ピコーラのようにはなりませんでした。
それは不条理なことをする白人に怒り
マウンティングする子たちにくみしないことから
理解できることでしょう。
でも、ピコーラはこれらの人種差別の
犠牲者ともいえるのです。
肌の色が批判対象でなければ…
そしてその目すら…
考えさせられることは多いはずです。
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既に形成された価値観を覆すことは難しい……
だけど、2020年を迎え、今まさにアメリカを中心に、黒人達が立ち上がろうとしている
日本人達は対岸の火事の様相。外国の著名人が声を上げてもシラーっとしてる。だけど、日本に住む外国人に対する排他的な視線や感情を、彼等は敏感に感じ取っているはず……。
日本人も、自分の価値観を今一度確かめてみる必要があると思う。
しかし、この本の素晴らしいところは、ピコーラを破滅に追いやっていった人物達をも鬼畜な敵として描くのではなく、『人間』として描いているところだと思う。どんな想いを抱いて生き、価値観が形成されていったのか、その足跡を丁寧に描いている。
自分と相手。一人の人間として相対することこそ、今求められているのでは。
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自分の容姿を醜いと思い込み美しい青い眼に変われるよう祈る少女ピコーラ。いつか自身の持つ美しさを見つけ人生を変えて行く物語かと期待していたが…更に厳しい苦難が。
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「情欲のように静かに」で挫ける。
https://sessendo.blogspot.com/2022/01/blog-post_31.html
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「秘密にしていたけれど、一九四一年の秋、マリーゴールドはぜんぜん咲かなかった。あのとき、わたしたちは、マリーゴールドが育たないのはピコーラが父親の赤ん坊を宿していたからだと考えていた。」
最初の章のこの冒頭からもう心を鷲づかみ。トニ・モリスンの文章は歌うような美しさがあります。
青い眼がほしいと祈る黒人の少女ピコーラ。黒い肌に青い眼、それが美しいと思ってしまうピコーラ。彼女がかわいいと思うのはシャーリー・テンプルのような少女。
たいして語り手であるクローディアは、大人たちがくれた白い肌、金髪で青い眼のベビードールをばらばらにこわす。
(黒人の女の子に金髪で青い眼の人形をあげるってよく考えると奇妙なことなんですが、昔は日本の女の子もこういう人形に憧れたんですよね。リカちゃんはフランス人と日本人のハーフだし、ジェニーは元がバービーだし。)
「難解な作品」「よくわからなかった」という感想がいくつかあった。たしかに構成は少し複雑ですが、基本的にはピコーラを中心に、彼女の父親、母親、彼女をいじめた黒人の少年たち、白人の少女たち、それぞれの視点が交錯し、彼女を追い詰めたものを描いている。
人種差別を背景にした残酷なストーリーなんですが、読み終わって残るのはほのかな光のような美しさ。
それはトニ・モリスンがあとがきで解説しているような「正午を過ぎたばかりの午後の通りの静けさ」であり、「たんに目に見えるものではなく、人が〝美しくする〟ことのできるもの」、ピコーラにはわからなった「自分が持っている美しさ」のような気がします。
以下、引用。
尼僧たちは情欲のように静かに通りすぎ、醒めた眼をした酔っぱらいが、グリーク・ホテルのロビーでうたっている。
彼女たちの会話は、ほんの少し意地悪なダンスみたいだ。音が音に出会い、おじぎをし、シミーを踊って退場する。別の音が入ってくるが、新しい別の音に舞台の奥へと押しやられ、二つの音がおたがいのまわりをくるくる回り、やがて止まる。言葉は上へ上へと螺旋形を描いてのぼってゆくこともあれば、また、耳障りな跳躍をすることもある。そうして、すべてに──ゼリーでできた心臓の鼓動のような──温かく脈打つ笑いの句読点がつけられる。
追い出されることと、家なしにされることとは違う。追い出されたのなら、どこかほかの場所に行けばよいが、家なしにされたのだったら、行き場所はない。
ちょうど、死の概念と実際に死んでいることとは違っているように。死んでいる状態は変わらないのにたいして、家なしになる恐れは、ここに、いつでもあるからだ。
それからフリーダといっしょになって二人は、シャーリー・テンプルがどんなにかわいいか、情のこもったおしゃべりをした。わたしはシャーリーが大嫌いだったので、しきりに誉めそやす二人の仲間には入らなかった。シャーリーがかわいいから嫌いなのではなく、ボウジャングルズといっしょに踊ったから嫌いなのだ。
母はつらいとき、いやなとき、恋人が去って棄てられたときの���となどを、よく歌った。しかし、母の声はひじょうに甘く、うたっているときの眼はまるでとろけそうだったので、わたしは、そうしたつらいときに憧れ、「自分の評判なんかちいっとも気にしないで」大きくなりたいと渇望した。「わたしの男」から棄てられるすてきなときや、「わたしの男がこの町を出ていった」のがわかるから「夕日が沈むのを見るのがいや」になるときのことを、待ちこがれた。
母の声がうたう緑や青で彩られた不幸は歌の言葉からすべての悲しみを取り去ったので、わたしは、苦痛というものは耐え忍べるばかりでなく、甘美なものだと思いこんだ。
つまづいた歩道の割れ目も、たんぽぽの群れも自分のものだ。
そして、こうしたものを所有していれば、彼女は世界の一部になり、世界は彼女の一部になった。
メリディアン。この名の響きは、讃美歌の最初の四つの音符のように、部屋の窓という窓を開け放つ。
わたしたちは、柔らかな灰色をした家々が、疲れきった貴婦人のようによりかかりあっている並木道を歩いていった
どうして夢が死んでしまうのか、本当のことを知りたかったら、夢みる人の言葉をぜったいに真に受けてはいけない。
彼は、牝馬がお産をするところを一度も見たことがないのにちがいない。牡馬が苦痛を感じないなんて、いったい誰が言うのか。泣き叫ばないからだと言うのか。苦痛を言い表すことができなければ、痛みはないと考えるのか。
彼は、悪に名をつければ、たとえ悪を抹殺することはできなくても、それを無効にすることはできるだろうと思った。
彼は貪欲に本を読んだが、好みのところしか理解しなかった。つまり、他人の考えの切れ端や断片を適当に選んで理解したのだが、それは、その瞬間に自分が抱いている偏見を支持するものに限られていた。
このようにして、彼はオフェリアにたいするハムレットの毒舌を選んで暗記したが、マグダラのマリアにたいするキリストの愛は選ばなかった。
その結果、わたしたちは王者らしくなるかわりに俗物的になり、貴族的になるかわりに階級意識の強い人間になりました。わたしたちは、権威とは目下の者にたいして残酷になることで、教育とは学校に行くことだと信じていました。また、あらあらしさを情熱だと思いこみ、怠惰を安逸とまちがえ、向こう見ずを自由だと考えていました。
正午を過ぎたばかりの午後の通りの静けさ、光、告白がなされたときの雰囲気。とにかく、わたしが〝美しさ〟を知ったのは、それが最初だった。
美というものは、たんに目に見えるものではなかった。それは、人が〝美しくする〟ことのできるものだった。
『青い眼がほしい』は、それについて何かを言おうとした努力の結果だった。どうして彼女には自分が持っている美しさがわからなかったのか、あるいは、おそらくその後もけっしてわからないのか、また、どうしてそれほど根本的に自分を変えてもらいたいと祈ったのか、といったことについて何かを言おうとする試みだった。
彼女の欲求の底には、人種的な自己嫌悪がひそんでいた。そして、二十年のちになっても、わたしはまだ、どういうふうにして人はその嫌悪感を学びとるの��ろう、と考えていた。誰が彼女に教えたのか。誰が、本物の自分であるより偽物であるほうがいいと彼女に感じさせたのか。誰が彼女を見て、美しさが欠けている、美の尺度の上では取るに足りない重さしかないときめたのか。この小説は、彼女を弾劾したまなざしを突いてみようとしている。
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差別を受かる黒人の精神的苦痛の表現がすごい。読めてしまう。
嫉妬心と羨望。ミスターヘンリーの淡緑色の言葉。
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文体は比喩が長く、読みにくさがあるが、わたしたちの固定観念を見事に払いのける強さがある。
淡々と語られる日常は、祖先から受け継ぐ圧倒的な強さに基づく諦念を浮き彫りにする。