紙の本
「小説ってお前、あれは大きな道を歩いて造るものだ。お前は大きな道を歩いておらん。それじゃァ、ピエロになるだけだぞ。」
2005/07/03 05:33
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Straight No Chaser - この投稿者のレビュー一覧を見る
読み返す毎に、描き出される孤独の色のさらなる深さに驚く。
『百』は僕にとってそんな一冊である。
色川武大といえば、その集大成ともいうべき『狂人日記』という渾身の一作があり、彼特有の世の中の「眺めかた」が万華鏡のように散りばめられた『怪しい来客簿』があり、『生家へ』という彼のフリーランサー(作家)としての出発点が刻み込まれた連作集がある。また阿佐田哲也名義による『麻雀放浪記』『ドサ健ばくち地獄』の二作は、遊び人(ホモ・ルーデンス)のバイブルとして燦然と輝いている。
思えば、はじめて手にした色川さんの小説は『ぼうふら漂流記』で、中学生だった僕はその本を『ファーブル昆虫記』的なものと誤解して買ってしまったのだった(←ジャケ買い)。もちろん、ぼうふらの生態が書かれているわけもなく、友人の細君と二人きりで海外へギャンブル旅行に出かける男、その旅先での顛末を書いた(色気なし)どちらかといえば阿佐田哲也ふうの一冊で、当時恋の病にうかされていたteenager(←自分)がその本をどんなふうに読んだのか、正確なところは覚えていない。が、それまでの僕が読んでいたような学校推薦図書系の本(←それはそれで良い)とはちがって、ふわりとした大人の世界〜ふわりとした大人の文章、そういうものを存分に堪能してしまったのではないか……(閑話休題)
むかし福武書店からハードカバーで出版されていた『狂人日記』の装丁に、有馬忠士さんの絵が使われている。青と黒の強(こわ)い針のような木々が(或いは木のような針)が空間を突き刺すように何本も屹立している。そんな絵である。
「小説の本にあとがきなど無くもがなと承知しているけれど」と書き起こされる、色川さんの文章を少し引用する。
「彼は十数年もの間、幻聴や幻覚に苦しめられ、病院生活を余儀なくされた。そうして、他人に見せるだめでなく、(病院内でも隠しており、弟さんもこれほどの量が溜められてあるとは生前には気づかなかった)まったくのモノローグの作業なのだが、にもかかわらず、言葉にしにくい自己を造形の世界で誰かに伝えたい意志が溢れているところが、ただの病人の絵とちがう。彼の絵には、人間の影がまったく無い。孤絶の深さ、静けさ、その底に含まれる優しさ、私としては他人の作品に思えぬものがあった。」
『百』には、家族を題材とする四つの私小説ふう(色川流)の短篇が収録されている。「連笑」「ぼくの猿 ぼくの猫」「百」「永日」と読み進むにつれて、父子関係という軸(幹)が浮き彫りにされていく、そんな仕掛けになっているように思う。
「連笑」における弟との交流、その寂しいあたたかさ。「ぼくの猿 ぼくの猫」の江口寿史(たしか彼は鰐に喰われるのであった…)或いはカフカを思わせるリアルな幻覚、「百」における父と子の会話、息苦しい、そして「永日」……ここで、家族の閉塞をやわらかく撫でる風のように、賀川という「私」の友人が登場する。彼との会話のなかで「私」はいう。
「ナルシストだから、ただ孤立した絵柄になっているのですが、僕も小さい頃から、いつか必ず行きづまってにっちもさっちもいかなくなり、誰だかわからないけれども衆の前にひきすえられて、内心というものを総括されるときがくると思ってたわけですね。そのとき自分はやっぱり変貌しないだろうけれども、自分の内心というものがあまりに個人的な尺度を持ちすぎていて、他人に通じる言葉にすることができません。僕の恐怖は、自分にこだわるわりには、その自分を他人に主張する術がなくて、絶句して終るしかないということですね。……」
苦悩は深まる一方だ、どうすりゃいい。
で、色川さんがたぶん渾身の力で読者のために書いてくれたのであろう「永日」の最後の一行に一読者として救われた……そんな読後感が残っている。
紙の本
切っても切れない関係
2017/11/04 12:35
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:tomtom - この投稿者のレビュー一覧を見る
主に父・弟との関係を描いた4つの短編。中でも1つ目の「連笑」がお気に入り。
《殴れば泣いてしまう、そのくせどこまでも後をついてくる》弟との微妙な距離感を描いている。自分が誘導して偏向したものを見せてしまうことの空恐ろしさ、かぁ。ほう。
自分が「弟」なので、兄はこんな風に思ってたのかなぁって、つい考えながら読んでしまう。
表題作と「永日」は老いた父との関係。《おやじ、死なないでくれ──、と私は念じた。父親が死んだら、まちがいの集積であった私の過去がその色で決定してしまうような気がする》
生々しい感情の描写や深い自己分析。4篇とも全て、色川氏の私小説と思わざるを得ない。
他の作品も読もう。
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阿佐田名義の作品も好きですが、私的にはこちらの方が好きですね。
エンターテイメント度は断然下がりますが。
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色川武大の私小説は、現実なのか作者の想像・妄想の類いなのかの境界線が曖昧な所が良い。
自分の現実とかけ離れていて、安心しながらとろとろ読んでいると、深い屈託の中に引き込まれていてなんとなく頑張れば出られるんだけど、出るのもなぁみたいな気分にさせられる。
それでまたとろとろと色川氏の世界に埋もれていってしまうわけです。
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難しくて読むのに時間がかかった。
父親に対する気持ちは共感できた。
父親を捨てたっていう表現が何度かあって切なくなったなー。
ただ、暗くて...
もっと時間が経てば違う捉え方ができるのかな。
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色川氏の家族を綴った私小説。
弟との関係を描いた「連笑」、
幻視との奇妙な付き合いが恐ろしい「ぼくの猿 ぼくの猫」、
老耄の父親に振り回される家族を描いた「百」それに続く「永日」。
自分の家族と照らし合わせて読まずにはいられなかった。
どんなに逃げて離れたくても、ついてくる家族という因縁。
子供のころに抱いた劣等。
それでもなお、死なないでほしいという執着。
この世に生を受けた以上、逃れることのできない宿命が家族なのだと思い知らされた。
色川氏の底が知れない優しさに包まれて、絶望の色が薄まるようだ。
この作品に出会えて本当によかったと思う。
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家族にまつわる私小説集。
『連笑』
――殴れば泣いてしまう、そのくせどこまでも後をついてくる――弟と、私。
『ぼくの猿、ぼくの猫』
軍隊でも、社会でも、家庭でも、終始ちぐはぐな父親。
「ぼく」は、毎晩、猿や猫の幻をみる。
のちにわかる、ナルコレプシー(睡眠障害)の症状が如実にあらわているお話。
『百』
「哀れなもンだなァ――孫に何かをやるのに、百まで生きなけりゃならん」
父親が老いていく。
すぐ死ぬだろうと思っていた父親は死ぬことなく、ひたすらに老いていく。
『永日』
父親が40のころの初子だった「私」にとって、父親と死は深く結びついていた。
この人は、私が成長するどこかで死んでしまうだろう、死とぶつかって、どうやって得心するのだろうかという興味をずうっと持っていた。
ほかのどの面でも父を凌駕していないのに、体力だけが勝ってしまう。
全部で負けなければ。
私のような男は、そうでなければ人を愛せない、許せない。
誰しもが経験のある絶対的な「家族」の存在、存在感。
『連笑』では弟に焦点をあてていたが、それ以降の作品はすべて父親に重きをおいている。
父親の絶対感と、死んでしまうと達観してそっぽを向いて全部を母親と弟に託していたのだが、いざ迫りくる父の死に絶望している「私」。
家族だからこそ許される「勝手さ」と、それぞれの「主張」が、なんともリアルで、ぞっとした。
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今読み終えた本が私小説短編なのであるが、その“私”の一言ひとことが池松壮亮の声で再生された。ということで、色川武大「百」読了。
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―私は弟を貴重なものに思いだした。
軍人だった厳しい父親と影の薄い母親。
薄暗い家に弟が生まれ、少し大きくなると、
どこにでも付いてくるようになった。
充足というものの欠如。
父親の影響だけではないだろう、生まれながらに持ってきた屈託。
弟は著者のそういう部分を見てきた。
どうにもならない部分に対して、ふっと笑い合い言葉を交わす。
兄弟ってこういうものなのか。
そういう相手がいるということに、破天荒な生き方の著者に対して、全く関係のない自分の胸が、ほうっと温まる。
弟の結婚式で、もの思う著者の言葉が突き刺さる。
「おい、お前、こんな程度の晴れがましさを本気で受け入れちゃ駄目だそ。
烈しい喜びを得るつもりで生まれてきたことに変わりはないんだぞ。
式次第で生きるなよ。コースは一応もうできたんだから、あとはどうやってはみだしていくかだ。
とにかく、淋しく生きるなよ・・」
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「好き」と「嫌い」の二言では表せない血族のしがらみ。
とんでもない暴君が家族のなかにいて、毎日緊張、毎日疲労。
それでも、社会的にも個人的にも完全には離れられない悪循環。
これは、問題を「背負う」というより、
問題に「取り込まれてしまう」あるいは「引き寄せられてしまう」
そんな感じ。
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「居眠り先生(伊集院静)」から興味を持って読んだ。歪な親子関係を軸に人生について考えさせる。主人公の状況が特殊すぎて理解しづらい部分もあるが、大筋では「読んで損なし」の印象だった。老いることについて考えさせられる。
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20150602 何と無くムズムズする話。真剣に捉えれば誰もが体験することなのかも知れないが難しく考えるとこうなるのかも。考える人が減ってるような今日、この本の成果かためされると思う。
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幼少の頃、近い過去、現在、そして幻想。ナルコレプシーをかかえているからか、時制が錯綜しているし、父親や弟について同じ事を何度も言及してて、物語として流れてなくて読みにくかった。これが味なのかも知れないが、一読しただけでは良さが分からなかった。
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色川武大さんの私小説『百』を読了。彼の別なペンネーム阿佐田哲也で書いた麻雀放浪記は読んだ事はあったが純文学系はなかったもだが伊集院静さんが書いた『いねむり先生』を読んだときに著者に興味を持ち買ってあった小説が『百』だ。色川武大さんと父親との確執をテーマにした小説二つとストレスの高いで家庭においての猫などのペットとの暮らしとその他に彼の目にだけ見える不思議な生き物との毎日を描いたものがひとつ、弟との不思議な絆に関しての小説一つを合わせた計4編を集めた小説集なのだが、読み終わって印象に残っているのはどんなときにでも主人公の脳裏からはなれない父親との関係であり、老齢期に入った父親との関係を主に描いてあるので歳をとった親と離れて暮らす自分の事も少なからず考えさせられた。そんあちょっと重たい年を取った家族との関係を描いた小説を読むBGMに選んだのはTony Bennettの"I left my heart in San Francisco". 50年以上も前のヒット作で、いまも現役なのがすごい。
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図書館で。
父と息子、母と娘ってのはなんだか言葉には言い表せない絆というか確執みたいなものがあるのかなぁ、なんてことを思いました。
幼少時から早くに死ぬと思っていた親が結局96まで元気ってのは皮肉な話です。しかも定職にも付かず、働きに出ている妻に手を上げるとかホント、最低としか言いようがないけどこういう男性昔は多かったんだろうな。今なら即離婚されてるレベルだ。
そして母親のはたらく店でお金を盗んでいたらそりゃあ経営者の娘に乞食扱いされても仕方ないのではなかろうかと。冷静に読むとマトモじゃない。
割とマトモな方である母と弟に対し、父と自分は分かり合えるとか思っている辺りこの作者もどうなのかなぁと思いますが結局作者の方が先に亡くなったのではなかろうかとか思うと人生は皮肉ですね。