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花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に
身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
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平氏と貴族間の葛藤の時一歩身を引いて世の中を見つめた西行の生き方、宗教のよりどころ。角幡さんが勧めていた本。辻邦生は時の扉を中学の時、これも先生の勧めで読み進めた。
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歌人西行を描いた辻邦生の晩年の長編.いつか読もうと思っていたが,源氏物語から平安つながりでようやく読了.緻密で精緻な文体で,読者にもゆっくり読むことを要求する.
私は和歌に関する教養がなく,本書に出てくる歌も肝心な部分の意味がわからず,したがって全体の意味もおぼろげにしかわからない.それでも全体の4分の3にあたる崇徳天皇の崩御までは物語に強く引き込まれた.そのあとは,西行の人生哲学みたいな部分が多くなって,共感が薄くなってしまった.
それでも,摂関政治,院政,武士階級の勃興,平氏,鎌倉幕府にいたる歴史の流れの描写は見事.時代の空気をよく伝えている.
実は私は西行よりも崇徳院の人生にいろいろ感じるものがあった.鳥羽上皇からはうとまれ,帝位を追われ,院政もできず,歌の道に邁進するが,自分の子を帝位につけることを諦めきれず,保元の乱に巻き込まれ,そして敗れ,讃岐配流.配流先で半狂人になりながら不遇の死.悟ること,諦めることの難しさをしみじみ感じさせ,同情せずにいられない.
追記: エッセイ集微光の道に谷崎賞受賞を機に書かれたと思われる同題の自作解説がある.
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西行の一生を描くというより、西行の精神を構築していくという作品。
時にはこういう作品を制覇するのもいいだろうと自虐的な読書になった。
理解できなかったり、冗長に感じる部分もある。西行の生き方自体にも共感を覚えない。が、最後の感慨はちょっと得難いものだった。
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かなり前に買って積読だった文庫本。
想像していたのとは全く違った西行像と小説の内容。院政、荘園、北面の武士、保元の乱、清盛と頼朝など日本史の授業で覚えた馴染みある時代感とその中で生き生きと描かれる西行の人間臭さ。和歌の世界は難しいが、歌がわからなくても西行の生きた時代がよくわかる素晴らしい作品でした。
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読書って、出会った時の体力と精神力の充実度で、読める・読めないということに繋がる時がある。
辻さんの本は、気力充実、且つ、心に遊びがある時に手に取れると、スゴく良い時間になってくれる。
その意味で、いいタイミングで読めて大変楽しめました。
【たとえば鳥が空を飛んでゆく。それは日々気にもとめずに見る平凡な風景である。だが、なぜ〔その〕鳥が〔その〕とき〔そこ〕を飛んだのか、と考えはじめると、平凡な風景が突然平凡ではなくなり、何か神秘な因縁に結びついた「現象(あらわれ)」に見えてくる】
西行法師、として生き切ったのではなく、佐藤義清として自身の生涯と格闘していたのだな~と、とても身近に感じれた一冊でした。
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長い、そして文章の流れが少なくとも現在の私に合わない。
本作の出来云々とは違った次元で、単に好み等にマッチしなかったということでしょう。
しかし俗世と離れていた人のように勝手に思い込んでいましたが、なかなか、俗世の中を立ち向かって生き抜いた人という感を抱きました、本作を読んで。超越したいと思いつつも、そうは出来ない人々の格闘の物語だなと。
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花の季節に、西行墳のある弘川寺を訪ねようと思っていた。今年になって鳥羽の城南宮を尋ねた帰り、桜の季節までに評伝を読んでおこうと思いたって、辻邦生著のこの本を選んだ。
藤原鎌足を祖とする裕福な領主の家に生まれたが、母の願いで官職を得るために京都に出た。
馬術、弓道、蹴鞠、貴族社会の中で身につけなくてはならないものは寝食を惜しんでその道を極めた。
流鏑馬では一矢も外さない腕を見せ、蹴鞠は高く蹴り上げた鞠を足でぴたりと止めて見せた。
当時の社会で歌の会に連なることも立身出世の道だった。武芸が認められて鳥羽院の北面の武士になり、歌の道でも知られてきた。
鳥羽上皇の寵愛を失った待賢門院を慕ったことや、突然従兄の憲康を亡くし、その失意から出家したといわれてはいるが、辻邦生著の「西行花伝」は著者の想像力と、残る史実を基にした壮大な芸術論で、西行が歌の中で見出した世界が、語りつくされている。
そんな中で出家の動機がなんであろうと、その後、この世を浮世と見て、自然の移り変わりを過ぎ行くものとして受け止める心境を抱く切っ掛けが、出家ということだった。
「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」
引用ーーー人間の性には、どこか可愛いところがある。そうした性の自然らしさを大切に生きることが歌の心を生きることでもある。肩肘張って生きることなど、歌とは関係がないーーー
「はかなくて過ぎにしかたを思ふにも今もさこそは朝顔の露」
時代は院政から武家に政がうつっていき、保元・平治の乱が起き、地方領主は領地境で争っていた。
西行は、待賢門院の子、崇徳帝の乱を鎮めるために力を尽くし、高野山に寺院を建立し、東大寺再建の勧進行のために遠く陸奥の藤原秀衡を訪ねたのは70歳の時だった。
「年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山」
こうして出家したとはいえ時代の流れに関わり続けながら、それを現世の姿に捕らえ、歌は広く宇宙の心にあるとして、四季の移り変わり、人の世の儚さを越えた者になっていった。森羅万象のなかで、花や月を愛で、草庵を吹く風の音を聴いて歌を読み人の世も定まったものではないと思い定めた。
そうした西行の人生を、辻邦生という作家の筆を通して感じ取ることが出来た。
「仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば」
「なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな 」(百人一首86番)
「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」
と詠んだ時期、春桜が満開の時に900年の後、西行墳を訪れ、遠い平安・鎌倉の時代に生きた人の心が少し実感になって感じられた。
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辻邦生 「 西行 花伝 」
小説形式の西行論。ストーリテラーが 西行や西行に関係する人々の声を集めて西行像を作っていく構成。傑作。
今まで読んだ 西行論(白洲正子氏の恋愛側面、山折哲雄氏の宗教側面、吉本隆明氏の政治歴史側面)が 全て盛り込まれている。ただ 連歌「地獄絵を見て」の解釈が入ってないのが残念。
著者の人生観や芸術観が 西行像に組み込まれており、正義と不条理、雅な心、歌とは、運命とは、旅とは、権力論批判など 名言が多い。
この世に正しいことは存在しない
*全ての人は、自分は正しく生きていると思っている
*自分が正しいことをしてると思ってはいけない〜そんなものは初めからない〜正しいことなどできないと思った方がいい
*正しいものを求めるから、正しくないものも生まれてくる
雅であるとは、この世の花を楽しむ心
*余裕があるとき初めてこの世を楽しもうと思う。楽しもうと思う心が雅。雅とは余裕の心
*目的に達しても、またすぐ次の目的ができる〜目的に走っている人は満足するときがない。満足とは留まること。この世を楽しむには留まることが必要
西行にとって歌とは
*虚空に浮かぶ存在を、歌という土台石で支える
*歌によってこの世のはかなさを超え、永劫不壊の言葉の器に無光量の心を盛る
*歌によって生きる道を切り開く〜人々を無明の闇から救い出す
*歌こそすべての根本〜歌による政治がなければ、権力や栄華は人間にとって意味が分からなくなる
*歌を仏性として生きる
出家、運命
*森羅万象をいっそう美しく見るために浮世を離れる
*西行の心が天地自然と一体化し、自身への愛着が存在しない
*我を捨て、この世の花と一つに溶ける
*人間の願わしい姿=すべてを宿命に託すこと→もはや自分がどうなるかくよくよ求めず、与えられたすべてを引き受ける
*人の世の宿命は動かすことができない〜私たちにできることは、外面では宿命に従い、内面では問題にしないこと
旅
*旅に出て初めて森羅万象がすべて滅びの中に置かれていることを知る
*旅には明日の旅も、昨日の旅もない〜今日の旅しかない。今日の旅を心ゆくまで楽しむこと
*旅で六道輪廻の姿をまざまざと見た〜それを受け入れるほかない。受け入れるとは それを慈悲で包み自分の中へ同化すること
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出家をするというのは、心が自由になるということなのかな、とこの小説を読んで何となく思った。
落ち着いた雰囲気の長編だからか、読みながら何となく別の考えに没頭してしまったりするので、小説の感想といえるのかどうかはわからないが、時々読み返して小説の世界に浸れるようになりたいと思う。
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西行に歌の道を学んだ藤原秋実が、師の亡きあとそのすがたを思い起こし、また生前に交流のあったさまざまな人物のもとを訪ねて、西行の生涯をたどるという形式で書かれた歴史小説です。
待賢門院との恋や、崇徳院の悲運などをくぐり抜けて、西行が歌の世界になにを求め、現世(うつしみ)とどのように切り結んだのかというテーマが、全編にわたってえがかれています。
西行が崇徳院に「歌による政治(まつりごと)」の道に入るように説得しながらも、けっきょく院は重仁親王を王位に就けたいという思いを振り切ることができず、恨みにとらわれたまま崩御することになります。「歌による政治」の具体的な内実は、院の崩御のときまで読者に明確に示されていませんが、その後西行がことばをうしなうという経験によってあらためて世界に出会いなおすにいたったことがえがかれており、いわば「うたのはじまり」というテーマにつながっていることが明かされます。こうしたテーマにつながることで、日本文化史の深層に「うた」を見いだし、その豊かな地下水脈のうちに西行を位置づけるような解釈の枠組みに沿って本作を理解することができるのではないかとも考えたのですが、勅撰集についての本書の叙述をあらためて読みなおしたところでは、当方の解釈が先走りすぎていたかもしれません。
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出家前の西行…佐藤義清(のりきよ)は今ならサッカーの有名選手、中田英寿みたいな人と想像してしまう。蹴鞠という平安時代の上流階級のスポーツの名手、北面の武士だった。
なんだか蹴鞠もサッカーのように足先でけり、膝で受けたり回転けりするらしい。そこへ持ってきてストイック、ますます中田ではないか。ストイックの余り出家してしまう。
おかしい想像だが、例をあげると
もう彼が出家遁世してからだが、さるお姫様(菩提院の前斎院、統子内親王)のお屋敷に訪れた時、転がって来て池に落ちそうな手毬を足技、身体をひねりながら救って手渡す場面。
『そして娘たちが頼むので、その手毬を使って蹴鞠の蹴り方、受け方などを演ってみせた―蹴鞠を膝で受けたり、うしろ向きに足の裏で受けたり、肩、膝、足と三段に弾ませたり、その他私が知っている蹴鞠の作法をごく簡単に演ってみせたのである。娘たちはその度に手を打ち、口々に驚きの声をあげた。』
その『娘たちはいずれも十五、六から二十歳前後の若やいだ年頃で、薄紫、萌黄(もえぎ)青など、色とりどり内掛けを着けていた。』
またその勾欄から転がってきた手毬は『美しい薄紅と紫の糸を巻いた手毬』なのだ。
西行は『坊主が手毬で遊んではいけないという法はないが』『若い娘たちの華やかな笑いや賞賛の叫びが、出家した身にも嬉しいのであろうか―』と思う。
そうして菩提院の前斎院とは密かに想っている高貴な女院(鳥羽院中宮待賢門院璋子)の娘。母君の貴(あて)やかなお姿に似た面影が。
などなど、辻邦生氏の筆は全編美しい流れの物語、ここはことさら流麗なのだが、なぜか中田さんが...。
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西行を借りて作者辻邦生氏の芸術至上主義の思いのたけが書かれている。
まるでヨーロッパ文明の香りに満ちているような物語を、読み進み味わった。
シェイクスピアの戯曲のようでもあり。
悟りをひらいた荒行『まるでどこか広い海原を沈むことなく歩きつづけてきた人のような、軽やかな強さが身体に溢れていた。』にはキリストを彷彿。
「保元の乱」など戦の場面ではイラクの戦場を思い浮かべた。
かと思うと、国木田独歩「武蔵野」ツルゲーネフ「猟人日記」を彷彿させる森の中に立つ姿。森羅万象に照準をあわせて。
私は昔「新平家物語」吉川英治を読んだ時の西行の印象「追いすがる妻、子を蹴飛ばして出家、出離した」が強く残っており、(吉川「新平家物語」を出して見たがやはり記憶にあるとおり)とんでもない風流人との感が、「辻西行」で違ってきたのだ。
私がなぜ辻邦生に興味惹かれるようになったか
日本の中世文化の中に西洋ぽいものがあるという驚きだった。
違う読み方もあるだろう。ぎっしりと辻邦生の思想の詰まった物語。
最後に西行らしいうたを
月を見て いづれの年の 秋までか この世にわれが 契りあるらん
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素敵な言葉がありすぎて、忘れないように付箋を貼って行ったら、付箋だらけになってしまいました。自分の大切な世界を全力で守り、熱いところも有りながら、清清しい空気も感じる事が出来ました。日本語はこんな偉人たちによって練り上げられ、奥深い物になって行ったんですね。
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西行という人についてずっと知りたかったが、ページ数が多く(700頁)、ずっと後回しにしていた一冊。
平安時代の美しい情景が目に浮かび、歌が満ち溢れていてそれだけで心が癒され楽しめます。
元々は武士であり、仕事も流鏑馬や蹴鞠などの芸術的才能にも優れていたという事にまずは驚き。にも関わらず早くより歌人として生きる事を決心して出家し修行の道を選んだあとも、世の争いを治めるべく僧でありながら政治にも多く関わっていたとは。
究極の悟りに至る姿に感銘を受けます。
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時は平安末期、動乱の時代。権力が貴族から武家に奪い取られるという単純なものではなかったのが、語り手・藤原秋実も後の西行・佐藤義清も抱えていた地方の小領主たちの苦しみから語り始められていることに滲み出ています。そんな時代だからこそ西行は、永遠の「花」を追求し続けようとしたのでしょうか。アーティストとして生き抜いた、最初の人なのかもしれません。芭蕉が憧れてやまなかったことに納得です。