投稿元:
レビューを見る
透徹した客観性でもってシステマチックにハイデガーの思想を整理しており(その問題点も含めて)、大いに理解を助けてくれた。特に『存在と時間』を解説した第2章・第3章がよかった。以下は『存在と時間』の主なキーワードについての引用。
【実存】
人間は、自分自身のあり方に対してさまざまなレベルで欲望、関心、配慮を向け、そのようなものとして自分を了解している存在である。……ハイデガーは人間のこのような存在仕方の独自性を「実存」と呼ぶ。(p.57)
【世界内存在】
では、人間は「世界内存在」であるとはどういうことか。……人間は「世界の内に存在する」とか「世界全体と深く関係している」という意味で受け取るなら、それは典型的な誤解。……実存論的な世界の見方は、「世界とは個々の人間によって現に生きられているその世界である」という感じ(p.60)
【世人】
「世人自己」、つまりたいていの「私」は、差しあたり「おのれに固有な自己」という自分の存在を了解しないで、むしろ「世人のほうから」(=世間の価値基準から)自分自身が何であるかを了解している。(p.85)
【被投性】
「被投性」は、ハイデガーの言い方では「人間存在が〈否応なく存在しつづけなければならないという重荷〉として存在すること」だが、もっと大きくとると、人間が必ず「何らかの存在与件として規定されていること」(p.102)
人間が「存在」へと投げ込まれていること。つまり自分の存在の根拠を自分で持たず、たまたま世界に投げ込まれている、というニュアンス(第2章注5、pp.121-122)
【情状性】
……自分の「生きている」ということを可能にしている根本的な根拠と言えるものは何か、と問うてみる。……ハイデガーによると、その最後のものが「気分」なのである。……「気分」を何か特定の「感情」や「情緒」と考えると分かりにくい。……感情や情動がつねにすでに動いていること。このことが、……人間的な心の働きの土台をなしている。(pp.92-93)
【了解】
「了解」はいわば“自分の心の色模様を感じる”ということだが、それは単に“自分の気分を知ること”を超えて新しい自分の可能性(=目標設定)を指し示すことでもある。(p.98)
【語り】
「語り」という契機の力点は二つある。第一点は、人間の了解可能性(したがって「情状性」の分節可能性も)がすでに「言葉」の網の目によって規定されているということ。第二点は、これがさらに大事な点だが、人間の存在がけっして孤立した存在ではなく、つねにすでに他者たちとともにあるような「現」として存在していることをも示している、ということである。(pp.102-103)
【頽落】
「世人であること」、ふつうの人間として日常的に生活していること、それは「本来的な」存在仕方から何らかの理由で「頽落」していることを意味する。(pp.85-86)
……「平均的日常」における人間存在はすでに「頽落」している。それをどう性格づければいいか。ハイデガーの与えた指標は三つ。1「空談」、2「好奇心」、3「曖昧性」である。(p.105)
※著者の疑義:〔「本来��-非本来性」という二項区分〕は、平均的日常、世俗の生活、世間、これらが人間からその「本来性」の可能性を奪っているのだから、これを捨て去れというニュアンスを強く持っているのだ。これはいかにも唐突な感を与える。……ハイデガーは「本来性-非本来性」という二項区分によって、人間の平均的日常の全体が、ほんとうの生き方から隔たったもの、「非本来的なもの」である、という観点をいわば外側から持ち込んでいるのである。(p.113)
【空談】
人間は他者と“語りあう”。……人間同士が互いにその実存のほんとうの可能性を取り交わしあう可能性が潜在的に開かれている、ということでもある。ところが、ふつう日常的には人間は、そのような可能性として「語り」をもたない。四方山話や井戸端会議やどうでもいい日常茶飯のおしゃべりとして、それを持っているにすぎない。(pp.105-106)
【好奇心】
日常的な生活における人間は、〔「了解」の要素である〕「視」を、自分と他者の実存の深い可能性に向かってめがけるためにではなく、ただ何となく“面白いものはないかな”という仕方でもっている、とハイデガーは言うのだ。(p.106)
【曖昧性】
「了解」は本来的には、人間が自分の存在の新しい「ありうる」をめがけて「投企」するものである。しかし、〔社会問題など〕について一般的な意見を言うことは、じつは自分の固有の「ありうる」とは少しもかかわっていない。「曖昧性」は、そのようにして、……人間の本来の了解のあり方を忘却させ隠蔽している――(p.109)
【不安】
「不安」はその対象が「無」であるために、かえってわれわれに重要なことを教える。……人間存在が本質的に「単独」であること、また本質的に「自由」であることを開示する。……そのとき、人間は一瞬「頽落」も状態からほどかれることになる。人間は世事における「気遣い」、つまり「あれこれのことをしなくてはならない」から遮断されて、いわば「何をすべきかがまったく自分自身に委ねられている」という状態に置かれる。(pp.115-116)
【先駆】
〔人間がその存在の本来性をつかむ〕ためには人間は恐るべき可能性としての「死」を隠蔽せず、自分のものとしてそれに向き合うという態度を取る必要がある。この死へと向き合う自覚的な態度を「先駆」と呼ぶ……(p.130)
【良心】
……「良心」とは、現存在自身が、おのれの内部から、自分自身に向かって、「本来的な自己自身であれ」と呼びかける声なのである(p.131)
【決意性】
この「良心」をもとうとする「決意性」は単に自分の中の“決意”を意味するだけでなく、むしろ本質的に「他者」をめがけるべきものだということである。(p.136)
【先駆的決意性】
単に「本来的」たろうとする決意ではなく、「死への自覚」において本来的存在たろうとする「決意」。……〈世俗的な気遣いを捨てて(もちろん死への気遣いも)、これこそほんとうだと思えることに向かって(状況を見出し)、他者たちと共に、実践的にガンバル〉というようなことになる。(pp.137-138)
【本来的歴史性】
「本来的歴史性」とは、自分の属する時代、共同体、民族から「善きもの」の具体性を受け取り、その具体的な目標をめがけて生きようと決意することにほかならない。(p.167)
※著者の疑義:共存在の単位がなぜ民族であって、それを超えた単位、あるいはそれ以下の単位でないのか、またなぜある特定の共同体に限定されるのか(p.167)
投稿元:
レビューを見る
最初からハイデガーの著書を読んでもさっぱり分からないだろうと思い、本解説書に手を伸ばした。ハイデガーが著した「存在と時間」から後期ハイデガー、はたまた著者によるハイデガーへの批判と評価まで、ハイデガーの一般的な議論がわかり、また著書の言い回しも小難しくなく、読みやすい印象を受けた。ただやはり内容は難解で、そこまでちゃんと理解はしていない。ずっと疑問であった実存主義と現象学の違いや実存主義的な認識論などはなんとなくわかった気がした。野生の思考を以前に読んだので、同じく実存主義哲学のサルトルも読んでみたい。
投稿元:
レビューを見る
なんとなく気になる存在ではあるが、難しそうでなかなか手がでないハイデガーの「存在と時間」。さらには、「存在と時間」より難解といわれる「後期ハイデガー」。
全体主義について学んでいくなかで、やっぱハイデガーは欠かせないな〜、またその文脈で、アーレントを理解するためには、その師もある程度理解しとかなくてはな〜と思う。
が、やっぱ本人のを最初に読むのは、ドツボなので、入門書で始める。この入門書もたくさんあるのだが、「現象学入門」が難しくはあるが、クリアな感じなだったので、竹田さんの本で入門することに。
ハイデガーの「存在と時間」を中心に、後期ハイデガー、そしてハイデガーとナチズムとの関係、現代思想におけるハイデガー の影響と批判などなど、とりあえず気になっているところはおさえてある。
ハイデガーの本文が引用しているとことか、独特の用語には正直、うんざりするところもあるが、総じて、竹田さんの説明はクリア。
そして、ハイデガーの思想も、なるほど、あるあるな感じでわかった気になってくる。(本当かな〜?)
もうちょっと「入門」を彷徨ってみることにする。
投稿元:
レビューを見る
これが講談社学術文庫の力なのか、竹田氏他の著作に比べ難解なないようとなっており、読み通すだけで一苦労な非力な私である。
しかし、ハイデガーの「存在と時間」を近々挑戦したい身であるから少なからず良い準備にはなったのではないかなと期待する。一般的な主客一致の観点からではなく、存在者(Da sein)として絶え間なく企投することが「存在」の真意である。
あー、むずい上に浅い理解でつらいが、関連書籍と原著とを駆使して腹落ちするまでに理解を深めたい、それほどの抗いがたい魅力がハイデガーの実存主義には感じます。