紙の本
心震えるラスト
2020/07/19 15:21
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投稿者:あかおに - この投稿者のレビュー一覧を見る
作者の分身と思われる男が、真実のイエスを求めて死海のほとりにその足跡を追う、現代のパート。弟子や祭司等、イエスを見棄てたり裏切ったりした男たちの眼から見たイエスの姿が語られる、二千年前のパート。二つの物語が交互に描かれている。
日本の戦時下における弾圧、ナチスの強制収容所、愛だけを語り、人々の苦しみに寄り添おうとした無力なイエス。重層的に物語が語られていく。
信仰のつまづき。強制収容所でのねずみの死。狡く卑怯なねずみに重ねられる、男自身の卑劣さの記憶。奇蹟など起こせず、人々に失望されて見棄てられる惨めなイエス。全編、陰鬱な敗北感に満ちて、重苦しい。
しかし、交互に描かれてきた二つの物語が、時間と空間が交錯し、溶け合っていくクライマックスがすばらしい。
無力なイエスが、十字架を背負い惨めな死を遂げ、無力で惨めな存在である人間の永遠の同伴者となった。
ラストに心が震えました。
4月の緊急事態宣言下の外出自粛中に読みました。
コロナへの不安、怖れ、閉塞感。息苦しい状況の中で、その重苦しさに押し潰されないよう、自分を支えるだけの重みと力のある作品でした。
深い読書体験となりました。
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:すなねずみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
>(Last Tango in Paris)
その涜神的な(性)表現ゆえに物議を醸した映画「ラスト・タンゴ・イン・パリ」(1972)のなかで、映画「地獄の黙示録」(1979)ではカーツ(→クルツ)を演じたマーロン・ブランドが演じる男(ポール→パウロ)は、「名前」を持たないままの関係に拘る、旧約聖書のなかの「神」のように。
『死海のほとり』を読みながら、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と似ていると思った。ちょっと古臭い言葉でいえば「ハレ」と「ケ」とか「日常」と「非日常」とかそんな感じの二つの世界を交互に置いている、そんな小説の構造。「解説」の井上洋治さんの言葉を借りれば、二つの別々の物語が「ちょうどフーガのように対位法的に展開」され、最後には「鮮やかに一つにとけあっていく」。そして、とても深いところで何かをシェアしているように感じる。
唐突だけれど、なんかこの二つの小説には「サーカス」とか「見せ物小屋」的な感じがすごくある。遠藤周作は生前「樹座(きざ)」という素人劇団を主宰していて、村上春樹は作家になる前ジャズ喫茶(バー)を経営していたらしいけれど、そういう場所に共通のアングラな空気が、サーカスふうな空気になって、流れてくる。そして彼らの描き出す「奇蹟物語」は一種のサーカスで、それは「ケ」とか「非日常」の側にあるのではなくて、ハレとケの、日常と非日常の「間」にあって、点と点をつなぐ「ロープ」のようなものなのではないか。『死海のほとり』を書いた遠藤周作、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書いた村上春樹は、サーカス団長なのではないか。
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これは、林海象の映画『二十世紀少年読本』(十年以上前に見た)とコラボレートする形で書かれた川西蘭の『サーカス・ドリーム』(最近読んだ)の一節なのだけれど、『死海のほとり』と『世界の終り〜』を読み終わったときに僕が感じていたことにすごく近い、というより、そのもののような気さえする。(川西さんの書いたこのフレーズが心に響いてくる人には、ふたつの小説の「サーカス」っぷりを味わってみてほしいと思う。)
ついでに、ふたりの作家はどこが似ているのだろうと考えてみるに、ふたりとも関西人ふうのやわらかさがある。村上春樹はたしか神戸のあたりの出身だったと思うし、遠藤周作は東京生まれみたいだけど、幼年時代を旧満州の大連で過ごしたあと十一歳で神戸に戻ってきたらしい。阪神淡路大震災や少年Aの連続児童殺傷事件があったりしてあまりいい印象がないかもしれないけれど、神戸というのはいい街だと思う。海と山がすぐ近くにあるというところがいい。六甲山には羊がいるし。
もう一つの共通点は「ユング」かもしれない。遠藤周作は日本を代表するユング学者の河合隼雄さんの『影の現象学』(文庫本)のあとがきで絶賛評を書いているし、村上春樹は河合隼雄に会いにいったし、どっかで赤坂真理(彼女の「響き線」という短篇はすごくいい)に「村上さんはユングの読みすぎなんじゃないかなって感じがする」と批判されていた(たしか斎藤環と赤坂真理の対談記事で)。でもオカルトではない。
>(「Deep River」)
宇多田ヒカルが遠藤周作の『深い河』にインスパイアされて作ったという歌を聴きながら。
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イエスが布教し処刑されるまでの過程と、キリストの痕跡を求めてイスラエルを旅行する「私」、そして強制収容所で殺されたユダヤ人「ネズミ」の人生が3重に描かれた作品。短編「札の辻」が更に深化されています。(ロードムービー的に読むのも面白いかも)
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イエスは奇跡を起こさない。著者のこういう視点は確たる信仰心を持たない物にも理解しやすい。
親鸞にもそんなところがなかったっけ。
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知人にどうしてもと進められて読んだ一冊。
なんと行っても描写の素晴らしさに痺れました。私がイエスに抱いていたイメージが根元から変わってしまったような。
若い人にこそ読んでもらいたい。
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遠藤周作のキリスト有名三部作と薦められて読みました。
とにかくもう、切ない。やり切れないというか。
愛だけを唱えて死んでいったイエスの姿を群像の人々の視点から描いた作品。それと、キリスト教を信じきれず、その真の姿を探しにエルサレムにやって来た小説家<私>の巡礼の旅が同時進行で描かれています。
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確かに読みづらく、進みにくい。だけどこれが遠藤先生の原点とも思える作品だと思った。この本を読む前に「沈黙」「深い河」更に数冊遠藤先生の著書を読んで頂きたい。この本には遠藤先生ご自身の苦悩が描かれている。この苦悩がこれまでの作品を書いてこられたのではないかと思う。
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「巡礼」と「群像の一人」という小説が交互に入り乱れて登場し、それで1つの作品となっている。
「群像の一人」での無力なイエス。
「巡礼」での実はいつもそばにいるイエス。
イエスを考える1冊。
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私の知っている奇蹟と神秘のイエスではなく、1人の人間としてのイエスが描かれている。「役立たず」「何も出来ぬ男」とののしられ、ただ泪を流すだけのイエス。(何も出来ない人間は嫌われるのか?だったらこの世は生きるにあまりに辛すぎる。)疲れきったイエス。分かっている、分かっている。民衆を責めてはいけない。彼らは知らぬのだから。何が哀しいかって、私もその場に居たら、知らない民衆の一人になるだろうから。彼らと同じく、目に見えるものしか信じないだろうから。
熱心なキリスト教徒だと勝手に思っていた。その遠藤周作にこんな苦悩があるとは知らなかった。てっきりカトリックの洗礼も自ら進んで受けたものと。キリストとの関係が彼の心に重くのしかかる。この、矛盾で溢れかえっている世に堪えられなくて、僕も遠藤氏と同じく、キリストを風化させざるを得なかった。どちらが正しいのか分からなくて。僕はただ真実が知りたい。この世の真理を問いたい。僕はファウストにもイワン・カラマーゾフにもなろう。
‘死の匂い’人生のむなしさ、空虚さ、はかなさ、無力さ、わびしさ、そんなんで胸が一杯になる。神という絶対者の前に自分がどれだけ惨めで、か弱い邪悪な存在であるかを思い知らされる。後戻りができない。虚脱感が僕を襲う。そんな投げやりの人生観にすごく共感する。この死んでいく感じ、たまらない。灰色の世界観。
人間は貴女が思っている程悪い存在ではない − 最近やっと分かってきた。だから余計に自己嫌悪に駆られる。(イヤな俺、イヤな俺)30、偽善、人間性悪説・・・遠藤氏の作品に共感を覚えないではいられない。
「神もさびしいのだ」40、絶対者ではなく、人間的な神。決して強い存在ではなく、寧ろ弱い存在。共に泪を流してくれる存在。そうと知ったら優しくなれる。何か人懐こくて、温かいね。
強い原罪意識の中で壊れないはずがない。汚れ、穢れに惑溺しながら、悲しみ、哀れみ、蔑みの中で、狂人として生きていくしか術がない。だから、あなたにどれだけ救われ、慰められたか。
40「神は…辛い者のながす泪や、棄てられた女の夜の苦しみのなかにかくれているのだ」
88「神殿や祭りや神に羊を捧げる犠牲より大事なもの・・おのれの惨めさを噛みしめること」
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話の本筋覚えてないやー。
だけど、キリストを特別な力を持った偉大な人物ではなく、他人に対するやさしさのあるごく普通の人間として描いていたのが良かった。
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ボクが買ったのは、箱入りハードカバーの上製本だ。
周作さんでは、最も影響を受けたのがこの『死海のほとり』で、特に「アルパヨ」の章は鮮烈なイメージを受け取った。
(この項、書きかけ)
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奇跡など起こせない無力なイエス。弟子からも見捨てられながら、愛のみを語って惨めに死んでいったイエス。
信仰に躓いたがゆえに求め、探し当てたイエスの姿は、福音書に書かれた力ある救世主とはかけ離れたものだった――。
福音書の脇役たちが見た「何もできぬ男」イエスのエピソードと、「私」がイエスの足跡を求めて死海のほとりをさまようエピソードや学生時代の回想が交互に語られる。バラバラに見えたエピソードは次第に像を結んで、最後には『同伴者イエス』を浮かび上がらせていく。
それはまるで、著者のクリスチャンとしての葛藤と悟りとをそのまま表しているようだ。
三部作である『イエスの生涯』『キリストの誕生』と共にお勧めしたい。
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「わたし」の聖地巡礼の旅と、イエスの生涯が交錯するお話。
イエスを人間らしくとらえ、描いている。
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p31
「おいきなさい、触れませんから」
p84
「そばにいる。あなたは一人ではない。」
p99
(俺に何の関係がある。俺はもう、あの人から離れたのだから)
p101
あの人の運命を気遣うよりも、あの人に従った自分に累が及ばぬかという不安のほうが先に胸を走った。
p149
大工が言っているのはただひとつ―結局、私のような老人には時には世間知らずの若者たちが口にしすぎるために肌寒く響く、あの愛ということだったのだ。
p152
大工の生涯は、結局、一人の人間もつかまえることができなかったのだl
p244
「これでも俺、この国に来て随分、勉強したんだよ。」
p288
「私のことを・・・・忘れないでください。」
p310
その声はもう聞き取れなかったが、彼が何をつぶやいているのか、百卒長だけが知っていた。
p341
「いいさ、俺は今日、食べたくないのさ、とかれは恥ずかしそうに呟きました。」
いやー、やっと読みました。・・・・重い。最初から最後までずーっと同じテーマで、どんどん重く深めていく感じでした。考えさせられる。時々気恥ずかしくなってしまうけれど。
心に刺さる。
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日本人の視点からしか描けないキリスト像。奇跡など起こせず、みじめな、まさに人間以下のものとして死んでいった「駄目な人」として描かれている。キリストが残した「愛」の形とは何か…。それが分かったとき、キリスト教への考え方が変わった。