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一瞬の閃光とともに焦土と化したヒロシマ。
不安な日々をおくる閑間重松とその家族…
彼らの被爆日記をもとに描かれた悲劇の実相。
原爆をとらえ得た世界最初の文学的名作。
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『黒い雨』というタイトルで、原爆の話の本だということはわかった。広島や長崎に知っている人がいるわけでもなく、日本の戦争をまったく知らずに、豊かに育ってきたが、近づく「原爆の日」や「終戦記念日」を前に、普段は手に取ることもないこの手の本を読んでみようと思った。吐き気さえ感じるような原爆の悲惨なありさまが語られ、沈んだ気持ちになる。途中で読むことを止めなかったのは、作者の力量と、この国で起こった“体験談”であったからかもしれない。戦争というよりも、その時代の庶民のありさまが語られ、今の時代に生きる自分たちを幸福にも感じた。日本人として価値のある心にとめておきたい本だと思った。
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「一瞬の閃光に街は焼けくずれ、放射能の雨のなかを人々はさまよい歩く。原爆の広島―罪なき市民が負わねばならなかった未曽有の惨事を直視し、一被爆者と“黒い雨”にうたれただけで原爆病に蝕まれてゆく姪との忍苦と不安の日常を、無言のいたわりで包みながら、悲劇の実相を人間性の問題として鮮やかに描く。被曝という世紀の体験を日常性の中に文学として定着させた記念碑的名作。」(裏表紙より)
原爆被爆者とその後の原爆病患者達の話なので、恐ろしい場面や目を背けたくなるような場面がたくさん出てきます。
でも、被爆者の見たこと、体験したこと、感じたことを静かに淡々と描いていて、必要以上にグロさを強調することもないし、感情に傾くこともありません。
不条理な苦しみを突然背負わされて、精神的にも肉体的にも耐え難い状況にあるはずの被爆者たち・原爆病患者たちが、愚痴を言ったり怒りをぶつけたりすることなく、お互いを労わりながら静かに耐えている姿に心を打たれました。
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映像や写真で見る以上に被爆直後の町、人の様子が伝わってくる。
年々体験者の方々が亡くなっていく中、惨状を伝える貴重な資料としての価値も大きい。
伝えられてきたことを受け継ぐことにとどまらず、そこから広げていくことがぼくらの使命であり、亡くなられた方の命の価値でもある。
風化させない。
そして教訓を今、そして未来に生かす。
数十年後、福島にもこんな小説が生まれるんだろうか。
そうなっては欲しくない。
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いわゆる「純文学」と呼ばれるものをあまり読んだことがないので、まずどういったスタンスで読めばいいのかがわからず苦労。
ハラハラドキドキを期待するものでもないし。
なにか推理しながら読むものでもない。
そもそも娯楽小説じゃないから楽しむってことが違うような気もする。
うーん、経験不足。
でも映像とか含め、作り手が何かを伝えようとしている作品って好きじゃない。
「これには現代社会に対するアンチテーゼが込められていて…」とか、
うるさい。しゃべるな。
意味なんかない。
面白けりゃそんなんどうだっていい。
そこから何を受け取るかは人それぞれ。
あとは受け手のみなさんにおまかせします。
それでいい。
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私の母方の曾祖父母、および彼ら夫婦から生まれた祖母は広島の人間である。家は、横川駅から太田川に沿って北へ少し上がった所にあったらしく、母と山陽本線に乗って山口~広島間を行き来する時には、横川駅を通過するたび、「お母さんが小さい頃は、夏休みなんかに、ここから太田川を上(かみ)に行って、お爺ちゃんお婆ちゃん(私にとっての曾祖父母)の家に遊びに行きよったんよ。山に近かったけー、涼しくてね」などと教わっていた。
横川駅と原爆ドームは直線距離にして二キロメートルあるかどうか、といったところだろうか。原爆投下時、曾祖父母が横川の自宅にいたのか、それとも広島県のどこか別の場所にいたのか定かではないが、やはり、というべきか、彼らはピカによって被爆した。その後の人生は二人とも被爆者手帳とともにあり、それでも、曽祖父については、戦後三十年の一九七五年(昭和五十年)、私が母のお腹の中にいる頃まで頑張って生きてくれていた。胎児だった私も、もう少し気を利かせて、早めに「おぎゃあ!」と生まれて来ていれば、曽祖父もひ孫の顔を見てから、あの世へと旅立てたかもしれないのだが、なかなかそうはいかない。残念なことであった。
曾祖父母の娘、私にとっての祖母だが、この人は娘時代には原爆ドームで働いていた。といっても、一九四〇年代当時は『広島県産業奨励館』といって、舶来品や地域の物産を紹介したり、美術展などの催し物を開催したりと、最先端の情報を発信する、それはそれはハイカラでハイソサエティで非の打ち所のない美しい建造物であったのだ。チェコ人、ヤン・レッツェル設計。このハイカラでハイソでモダンな『広島県産業奨励館』は、祖母を含む広島のモボやモガたちが、誇りと共に日々仰ぎ見たくなるような美麗なドーム屋根を有していた。あの日、エノラ・ゲイが、何の前触れもなくピカを落としてくるまでは。
広島市上空にピカが投下された時、祖母は産業奨励館にはいなかった。この「いなかった」事情がどういうものなのか、詳しくは分からないのだけれども、戦争激化にともなって、ピカが投下される前年の一九四四年(昭和十九年)には産業奨励館としての業務は廃止され、内務省中国四国土木事務所や広島県地方木材株式会社といった機関の事務所として使用されていたらしいから、祖母はその頃には退職していたものと思われる。祖母がいつ頃、山口県の祖父のもとへと嫁いできたのか、これも詳しい年月日を知らないのだが、ひょっとすると退職を機に結婚して広島を離れ、爆死を免れることができたのかもしれない。頭上で炸裂した原子爆弾が、ピカッと閃光を放って、ドンと凄まじい爆裂音が轟かせたその一瞬間に、館内にいた職員たちは全員即死していた。ここにもし祖母が残っていたら、祖母から生まれてきた母も、そして私も、決してこの世に存在することはなかっただろう。
『原爆ドーム』なんて云うと、爆撃直後から現在までの歴史しか示していないようで、私たち家族にとっては少々寂しいような気がしてしまう。祖母が青春時代を過ごした職場であったという、爆撃前の歴史も大事にしたくて、我が家ではいまだに『産業奨励館』と呼ぶことも多い。それくらい、私にとっても母にとっても、今の原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)や横川駅は、思い入れの強い場所なのである。そして、井伏鱒二が遺した小説『黒い雨』の主人公・閑間重松(しずましげまつ)が被爆したのも、この爆心地から程近い横川駅のプラットフォームであった。
『黒い雨』は、閑間重松とその妻・シゲ子、そして姪であり養女でもある高丸矢須子、この三名の戦中日記によってその大部分が占められている。本作品は、戦後数年を経てから、重松が自分の日記と矢須子の日記を清書し直していくというスタイルで進められており、我々読者は、彼らの日記を読むことで、原爆投下直後からの広島市内の様子を知ることができるようになっている。なぜ、作中で重松が家族の戦中日記を清書しているのかといえば、それは矢須子の縁談を無事に取りまとめる目的のためなのであった。矢須子は年頃の娘で、良家との縁談が持ち上がったばかりなのだが、彼女が原爆症に罹っているのではないかという噂が断続的にちらほらと流されるために、これまでどうしても縁遠く、養父の重松としては、矢須子の原爆症の疑いを晴らすために、原爆投下時の閑間家の行動を再度検証する必要があったわけだ。
文章の主な構成は以下のとおり。
◎高丸矢須子の日記。(昭和二十年八月五日から八月九日までの分)
◎閑間重松の被爆日記。矢須子の日記の付録篇として。学校の図書室に納めるつもりだが、その前に矢須子の縁談の世話人にも見せようと考えている。(昭和二十年八月六日から終戦の八月十五日までの分)
◎閑間シゲ子の手記。矢須子の日記の付録篇として。タイトルは『広島にて戦時下に於ける食生活』。
◎閑間シゲ子による『高丸矢須子病状日記』。(矢須子の縁談が持ち上がったのが、終戦後の四年十ヶ月目とあり、その後、原爆症を発症するので、おそらく昭和二十五年の七月二十五日から七月三十日までの分)
◎湯田村・細川医院院長の義弟による手記。タイトルは『広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記』。(昭和二十年七月一日・赤紙召集~八月六日・被爆~戸坂の国民学校仮収容所~八月八日・自力での庄原国民学校行き~八月九、十日にかけての熱傷治療~八月二十三日・府中町の細川医院分院への移送~翌二十四日から原爆症発症により闘病生活という流れで記されている)
◎岩竹軍医予備員の奥さんの速記記録。夫である岩竹博の安否を確かめるため、噂を辿りながら、広島陸軍病 院焼け跡~戸坂国民学校~庄原国民学校と歩き回り、その庄原で夫を見つけ出したことや、彼の闘病生活について書かれている。
すべての日記や手記は、広島に住む一般市民の視点から、体験者でないと決して語れない詳細さと共に、実に淡々とした筆致で記されている。戦争や原爆投下に対する声高で激しい疑問提示や反対論というものはほとんど見当たらないと云っても良いだろう。ただただ、自分たちが見聞きし、体験した、八月六日から数年後までのことが、克明な観察記録として我々読者の前に披露されるのである。国家戦略だの政治的意図だのを背負っての、わざとらしく飾った言辞とは違う、一般市民の生の声が本作品には表現されているように思う。
それだけに、戦争さえなければ��家庭内の出来事や学校や職場で経験したことなど、ささやかな幸せと悩みが書き綴られるばかりであったろう普通人の日記に、赤ん坊を抱いたまま焼け焦げた母親や水を求めて防火水槽に顔を突っ込んだまま腐乱した遺体、不気味な色を放ちながら濛々と上空へ昇っていくキノコ雲の恐ろしい様子、肉親が見ても、それが自分の身内とは判らないほどの熱傷を負った市民の無惨な姿などの描写があるということの異常さが際立つ。戦争をおっ始め、それを継続するのに、どんなに正当な理由があるように思えたとしても、何の罪もない国民にこんな酷い日記や手記を書かせるようなことを、国家は絶対にしてはいかんのだという、静かな反論がそこにはある。
矢須子と自分の日記を清書するうちに、重松は、矢須子が黒い雨を浴びていた事実に突き当たってしまう。重松とシゲ子、そして矢須子の三人は、原爆投下時、それぞれ別々の場所(重松は横川駅、シゲ子は千田町の自宅、矢須子は古江町)にいて爆死からは免れたものの、一緒に避難するために広島市内を長時間にわたって歩き回ってしまったのである。矢須子にいたっては広島市から十キロメートルほど離れた古江町にいたにもかかわらず、重松夫妻と合流しようとして入市し、彼らと再会できた時には既に、その肌や衣服にコールタール状の黒い雨だれの痕を付着させていた。洗っても洗っても、なかなか拭い取れない油脂のような黒い染みが、数年を経て矢須子の体に重篤な健康被害をもたらすようになるとは、その時の重松らには予想することすら出来なかったのであった。
皮肉なことに、縁談の取りまとめに先立って、矢須子の健康を証明しようと、重松が日記の整理を始めた頃に、彼女は原爆症を発症してしまう。発熱から始まって、臀部(でんぶ)の腫れ物、頭髪の脱毛と続き、激しい耳鳴り、歯茎の発赤腫脹、全身の疼痛、白血球異常などで、彼女の体は急速に衰えていった。自宅で看病するには限界があり、矢須子は九一色(くいしき)病院に入院。重松は、原爆症の噂によって姪が縁遠くなってしまったことに加え、実際にその原爆症を患ってしまった事実について、ずいぶんと責任と負い目を感じている。
そもそも、矢須子を養女として広島市に呼び寄せたのは、ほかならぬ重松だったのである。姪の矢須子を、戦時中の厳しい徴用から逃れさせ、比較的安楽な仕事をさせるために、実家の高丸家から広島市内に住まわせ、コネを使って、日本繊維株式会社・古市工場に受付係として勤務させたのが重松だったのだ。しかし、広島への原爆投下によって、かえってそれが裏目に出る形となってしまった。矢須子本人に対しても、実家の高丸家に対しても、申し訳が立たないと落ち込んでいるのが閑間重松なのであった。
重松とシゲ子は、何とかして矢須子を助けてやりたいと、藁をも掴む気持ちでいる。そんな時に、湯田村の細川医院の院長先生から手に入れたのが、先に挙げた『広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記』と、その岩竹さんの奥さんの手記である。この岩竹さんという人物は、細川医師の妹婿すなわち義弟である。軍医予備員として徴兵された矢先、広島で被爆するのだが、全身にわたる重度の熱傷という重い症状を抱えながらも、命からがら湯田村まで帰還した人である。火傷で組織が崩れた耳や頬に大量の蛆虫が湧き、その蛆虫に右耳を食いちぎられ、手の指も溶けてくっ付いてしまい、板切れのようになった状態で闘病生活を送り、奇跡的に回復したという経歴を持っている。手記には、輸血、リンゲル注射、桃や生卵などによる食事療法といった岩竹さんの闘病の様子が事細かに書かれており、それが矢須子の治療にも参考となる部分があるのではないかと、重松たちは九一色病院に提出したのであった。
このくだりで、ひとつの「ゆらぎ」のようなものを読者は体験することになる。この『黒い雨』という作品は、原爆投下や広島市内における死屍累々の惨状といった、決して尋常ではない、想像するだにも恐ろしい様子をあくまで淡々と語り、透徹した観察眼でもって進行されてきた。あえて云えば、小説の材料としては山場だらけの原爆投下日から終戦日あるいは数年後までを、平板な調子で、ほとんど起伏なく語っているのである。したがって一見すると、小説全体としての盛り上がりはどこにも無いようにも思えてしまう。ところが、シゲ子から『広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記』を手渡された九一色病院の院長先生が、それを読みながら、ふと奇妙な表情を浮かべるのである。戦後の穏やかな夏の日、九一色病院内での「ゆらぎ」は、岩竹さんの手記のこのような記述に端を発している。
次に、各自一人ずつ中佐の前に出て行って、姓名と前歴を申告し、なぜ今まで軍医予備員に志願しなかったかという詰問を受けた。自分は第一師団と広島連隊区に昨年一月送附済の一件書類を奉公袋から取出して、この通り志願完了していて未志願でないことを具申した。それで訊問は尻きれとんぼに終った。しかし自分より先に訊問を受けた人たちも、あとに続く人たちもすべて志願書を出している。去年も一昨年も召集を受け、体質的欠陥のため即日帰郷となっている連中が多かった。
なるほど体格検査が始まると、集っている連中のうち、羨ましいと思われるような体格の者は殆どいなかった。脊椎カリエスのためコルセット持参の者、頸腺炎(けいせんえん)で繃帯(ほうたい)した者、肋骨カリエスの瘻孔(ろうこう)のあとのある者、学生時代に運動会で足を折って膝が半分しか曲らなくなっている者もいた。
(中略)
レントゲン透視と喀痰(かくたん)検査の結果、即日帰郷となった者も何人かいた。病院の医師欠乏という理由から帰郷させられる者もいた。奉公袋をさげて殊勝げな顔つきで、嬉しさを噛み殺して帰って行く人が羨ましかった。
上記の文章をシゲ子の目の前で読んだ時の、九一色院長の様子は以下のようなものであった。
「この岩竹さんの手記、あたしの見ている前で院長さん読んだんよ。読みながら、院長さんの表情に微妙なものがあったんよ」
「それで、治療法について、院長さん何か云ったか。それが大事なことだ」
「読みながら、二度ほど参考になりますと云ったんよ。それから読んだ後で、実は自分も広島二部隊に軍医懲罰召集で入隊したと云ったんよ。岩竹さんの入隊したのと同じ日に、同じ部隊へ入隊したんですって」
「でも、あの院長さん生きておるじゃないか」
「入隊した日、体格検査で即日帰郷になったんですって。そのときにはカリエスで、石膏の繃帯を��腹に巻いておったんですって。運不運の二筋道は妙なものね。院長さんは顔をしかめて読みながら、一度ぐっと息を嚥(の)みこんだんよ」
岩竹さんの手記にある「脊椎カリエスのためコルセット持参の者」というのが、この九一色院長であったかどうかは判らない。しかしながら、「殊勝げな顔つきで、嬉しさを噛み殺して帰って行く人」の中に、この院長先生が含まれていたことは疑いないわけで、カリエスによって徴兵されず被爆をからくも回避できた自分と、徴兵されたがために原爆によって瀕死の重傷を負い、原爆症と苦闘し続けた岩竹さんとの運命の対比があまりにも鮮やかなこの手記をゆくりなくも眼にして、九一色院長の胸には一体どんな感情が去来したろうか。
自分が被爆せずに済んだ裏側で、この岩竹軍医予備員のように死の苦しみを味わった人がいる。過酷な原爆症を乗り越えて生き返った彼と違い、病気で兵隊にも取られることなく、御国の為に戦うことも避けられた自分。誰がなんと言おうとも、生きて息災ならばそれが一番の親孝行だ。だが当時は、兵隊にも行けない九一色院長のような繊弱な人は、陰で後ろ指を差されることもあったろう。想像を絶する苦痛を味わった岩竹さんと、安全な場所で医療に従事できた自分。岩竹さんの手記は、自分自身のための覚え書程度のものであったろうけれど、九一色院長にとっては「殊勝げな顔つきで、嬉しさを噛み殺して」即日帰郷した自分への無言の告発のようにも思えたかもしれない。
ごく小さな「ゆらぎ」なのである。淡々と展開していく本作品にあって、ほんの一瞬、さざなみが立ったようなものなのだ。原爆投下直後のことを書いた重松の日記でさえ、冷静な目で現実を見つめた末の文章だったのが、戦後数年経ってからのシーンにおいて、一人の医師の胸に微小な棘(とげ)が刺さるように「ゆらぎ」が起こる。しかし、小さいながらも井伏鱒二のその演出があまりにも巧みで、はっきり云って参ってしまった。平和を取り戻した戦後の夏のある日、ひっそり閑とした印象の九一色病院の一室。蝉の声だけが喧(かまびす)しい診療室で、院長が岩竹さんの手記に目を通した時…―――、シゲ子が云うところの「運不運の二筋道」を眼前に突きつけられて、ハッと彼が息を呑むのと同時に、あれだけけたたましく鳴いていた蝉が、一斉に鳴くのをやめてしまったような、そのとき真の静寂が訪れたような、そんな情景まで想像させる「ゆらぎ」なのであった。
矢須子の病状が好転するか否かについては、作品の結末においても何も書かれてはいない。おそらく回復は無理だろうという雰囲気の中で、重松が、それでも矢須子は治るかもしれないという、儚い望みを抱いているところで物語は終わる。こんな不幸が起こるから原爆は絶対に駄目なんだ、というような論調よりも、原爆が落とされたことで、こんな不幸が起きてしまったよ、君はこれをどう思う?と語りかけるような作品である。重松の静かな語りかけを感じたら、『黒い雨』を読む人々には、広島と長崎に投下された二発の原爆について、ほんの少しで良いから思いを馳せて頂きたいと、私は願っている。 E=mc² の関係式が人間の頭上に、何も知らされずに降ってきた時、生身の人間がどうなってしまったのか、もう一度考��てもらえたら嬉しい。
私は読後の感想を書く際、可能な限り正確さを期して調べなければいけない事柄のほかは、その作品の周辺情報をなるべく目に入れないようにしている。というのは、たとえそれが誤った、あるいは人とは違う印象、受け取り方、感想であったとしても、その時、自分が感じたことをそっくりそのまま引き写すようにして書き残しておきたいと考えているからである。色んな情報に影響されないで、自分の素の感想を真空パックしておきたいのである。大分あとになってから読み返してみた時、(ずいぶんバカなこと書いてるなぁ)と赤面してしまう文章も多々あるのだが、そのときの自分は確かにそう思っていた、という読書感想アルバムにしたいわけだ。
だが、今回は書いている途中で、『黒い雨』についてちょこちょこと調べ物をすることになった。その調べ物を通じて、この小説『黒い雨』に登場する閑間重松が実在の人物であることを知る。本名は、このシズマ・シゲマツをひっくり返した重松静馬という人なのだが、彼が自身の被爆について書いた『重松日記』を、知人である井伏鱒二が手にし、それを基に『黒い雨』は書かれたのだそうだ。ちなみに被爆軍医である岩竹さんも実在の人物であり、『岩竹手記』を遺している。『重松日記』は現在、筑摩書房から文庫が出ているそうで、その中に『岩竹手記』も併録されているとのことなので、是非手に入れて、こちらも読んでみるつもりでいる。
思えば、戦時中の様子を、当たり前といえば当たり前なのだが祖父母たちは語りたがらなかった。産業奨励館に勤めていた祖母が亡くなる前に、山口県の周防大島町にある『陸奥(むつ)記念館』に見学に行ったことがある。私が大学一回生の頃だったから、もう十七年も前のこと。『陸奥』は旧日本海軍の戦艦で、『長門(ながと)』の姉妹艦だったのだが、一九四三年(昭和十八年)に謎の爆発を起こし、広島県柱島付近で約千五百人の乗組員を乗せたまま沈没した艦として夙(つと)に知られている。その『陸奥記念館』を、私は祖母をいざなって何の気なしに観て回ったのだけれど、館内から出ると、祖母は腰を下ろして溜息をつくなり「…あねぇなのは(ああいうものは)よぅ見んねぇ…」と小声で呟いたのだった。肩が落ちてしまって、小柄な体を余計に小さくして、しょんぼりと萎れた祖母の姿を見て、私は心底悪いことをしたと後悔したものである。それ以来、私が戦争関連のことを祖母に尋ねることは一切無かった。タブーなのだと思った。
それでもしかし、我々は戦争や原爆について、知りうる限りのことを次代に伝えていかなくてはならないだろう。戦争や原爆の恐怖を、実体験として心の奥に閉じ込めている世代が、もうかなりの高齢になっている。亡くなっていく方々も非常に多い。戦争体験を根掘り葉掘り聞くのが、聞き手にとっても話し手にとってもつらいならば、せめてこうして、当時のことが書かれた本を読まねばなるまい。今を生きる現代人は皆、すべからく、戦乱を生き延びてきた人々の子孫なのであり、どんな人間も、その血脈をさかのぼっていけば、必ず戦争を体験した先祖に行き当たる。なにも、太平洋戦争に限らなくてもいい。第一次世界大戦、日清・日露戦争、ひょっとすると応仁の乱で、生き延びてくれた先祖だってあるかもしれない。その人が戦禍に屈することなく、生きて、命のバトンを渡してくれたからこそ、今の自分があるということを再認識せねばならないのだと、私は思っている。歴史を学ぶとは、そういうことで、自分とは無関係に存在する遠い過去ではないのだ。どんなに幾多の時代が過ぎ去ったとしても、必ず自分の命とつながっている現実だということを、私自身も肝に銘じておきたい。
私も戦争を知らない世代であり、不勉強さが目立つ人間ですので、こんなことをいえる資格は無いのですが、今年も若い学生の皆さん、広島や長崎の地から遠い地域にお住まいの方々、外国からいらした方々など、数多くの様々な方達がピカについて関心を持ってくださいましたことを心から感謝いたします。有難うございました。
平成二十三年四月二十二日 読了
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中断。描写が真にせまりすぎで読み進めるのが辛い。
英訳を買ったので、まずこちらを読み終えないと、と再開。「戦争はひどい」といったメッセージを前面に押し出さず、日記の形で悲惨な風景を淡々と語る。悲劇を嘆き悲しむ、というのではなく、とんでもない災害に出くわし、それでも何とか日常の暮らしを保とうと、あくまで会社の任務を果たしたり、他人の世話を焼いたりする人たちが描かれ、かえって不気味。昔読んで印象に残った「ガラスのうさぎ」などとはかなり趣が異なる。
根底には、姪の原爆症、という伏線があり、これが最後、メインになって、助かったはずなのに悲劇が終わらない、助けられたはずなのに助けてやれない、という閑間のやるせなさが読み手に伝わる。ただ、なんか読み終えてアンチクライマックスな印象も残ったかなあ。
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被爆後を舞台に、家族それぞれの被爆手記を引用しながらストーリーが進む。
被爆地を歩き回る緊張感、被爆した姪が結婚出来るかという焦り…生々しい感覚に驚く。
ちなみに、殆どのページを占める、手記が引用という説もあるらしい。
しかしそれが本当だとしても、幾つかの手記を取り纏める手腕は見事。
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重松氏が「重松日記」を書き残そうと思い立った直接のきっかけは原爆体験の風化への危機感であった。「重松日記」は本編2冊と続編2冊の計4冊から構成されている。詳細の紹介は今回の趣旨から少し外れるので割愛するが、本編を書き起こし始めたのが昭和20年9月。断続的に書き進めて、昭和24年春から本格的に執筆に着手、約2年間を費やしたという。記録された期間としては昭和20年8月6日から13日までである...
【開催案内や作品のあらすじ等はこちら↓】
http://www.prosecute.jp/keikan/041.htm
【読後の感想や読書会当日の様子などはこちら↓】
http://prosecute.way-nifty.com/blog/2008/08/41_f4dd.html
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65年目の原爆の日を迎え読んでいます。
やっと三分の一を読み終えました
読むのがつらくなる場面も多いです。
しかし、私達が後世に伝えていかないとね。
唯一の被爆国であり、被爆都市ヒロシマに生きている私としては
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図書館にあり 中央
内容(「BOOK」データベースより)
一瞬の閃光とともに焦土と化したヒロシマ。不安な日々をおくる閑間重松とその家族…彼らの被爆日記をもとに描かれた悲劇の実相。原爆をとらえ得た世界最初の文学的名作。
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生々しくて恐ろしくてなかなか読めない。
被爆者に対して差別があったことは知らなかった。
平和学習よりこの本の方が原爆のことがわかる。
色々考えた。
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地獄絵図さながらの原爆投下直後の様子と、そこから続く苦しみと不安と。声高々と戦争と原爆の悲惨さを訴えるのではなく、手記を通じて淡々と語られる記憶。決して知らない遠いどこかの出来事では無い。終戦から65年。何年何十年経とうと読み継がれていくべきだ。
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ピカドンによる肉体・精神の苦悶と悲しみ。重松の被爆日記、閑間夫人の戦時中の食糧雑記、岩竹医師の被爆日記、岩竹夫人の看護日記他をもとに、悲劇の実相を日常生活の場で淡々と描く、世界文学史上不朽の名作。
何が書いてあるかは分かった。
でも理解し切れなかった。
平和学習したらまた読みたい。
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原爆が落とされた頃に広島を生きた人達の話。歴史としてではなくある日の出来事として描かれる原爆が印象的だった。