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退職すれば朝、起きても行くところがない……。
自分の「役割」も「居場所」もなくなりそうだ。体力、気力もめっきり落ちた。人生の残り時間が気になり始める50代後半から、60代、70台ともなると誰しもそんな不安に襲われる。しかし、ここがターニングポイント。ちょっとした心の持ちようで、これからの人生を輝かせることができる。後半人生で幸せになれるのは、どんな人か?そんな人たちの考え方とコツを解き明かす
〇無趣味なのは仕事で頑張ってきた証拠。無理な趣味探しなど無用!やっと「産業用ロボット」の生活から抜け出せる。いまさら新しい人間関係に悩むなんて⁇
〇心理的な居場所の代わりは、どこにでも作れる。静かな図書館でも、町の雑踏のなかでも。豊かな時間は孤独の時にやってくる!
〇老年期はさまざまな「喪失の時代」若さを失い、職場を失い、配偶者を喪うこともある。そんなときは⁇
〇先人、達人の言葉に耳を傾け、その生き方を知ろう。
あなたもいつか、どこかで誰かの役に立つことができる
読み進むうちに、不安が消えてゆく。老齢者とその少し手前の人にとって、まさに福音の書。〈目次から〉
プロローグ 私たちは人生で3度路頭に迷う
第1章 高齢期への突入をどう受け止めるか?
第2章 居場所をめぐる葛藤の落とし穴
第3章 喪失の悲しみをどう乗り越えるか?
第4章 没頭できる「何か」はあった方がいいが、なくてもいい
第5章 これからの人生に希望を与えてくれる先人の言葉や生き方
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ふと手に取り読了しました。そういう歳になりました、フランクルの言葉が、妙に刺さりました!大切なのは何を手に入れるかではなく。どんな人間として生きるか?ですね
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60歳からめきめき元気になる人 「退職不安」を吹き飛ばす秘訣 (朝日新書)
心理学者のニューガーテンは、高齢期をヤング・オ—ルド期とオールド・オールド期に分けることを提案し、それを踏まえて日本でも65から74歳までを前期高齢期、75歳以上を後期高齢期として区別するようになってきた。認知能力の衰えなどのデータをもとに、この区切りは75歳ではなく80歳が適切ではないかといった議論もある。また、90歳以上を超高齢期とすることもある
勤勉に働き必死に稼いできた職業生活を終える老年期の入り口に差し掛かったとき、抑圧が緩み、アイデンティティをめぐる問いが活性化するのである。職業生活の縛りから自由になるのだから、今度こそほんとうに「自分らしい生活」をつくっていくチャンスと言える。
稼ぐために仕事をする場合は、稼ぎにつながることをするしかない。だが、目的迫求の手段として何かをするのではなく、やること自体を楽しめばいいとなれば、何をするのも自由である。プロセスそのものを楽しめばいいのだ。
いわば子ども時代の遊びと同じ感覚で、何にでも取り組むことができるのである。趣味を楽しむのもいいし、仕事をするにしても、稼ぎにこだわらずにやりたい仕事を選ぶことができる。
第1章 高齢期への突入をどう受け止めるか?
若かった頃を懐かしむのはよいが、若さにとらわれるのは禁物だ。
高齢者自身にしても、自分が年相応に成熟していることを肯定的にとらえていたり、経験が豊かなことや知識・教養が豊かなことを誇らしく思っていたりすれば、高齢者としての自分を肯定的に受け止めることができる。
だが、若さに価値を置き、成熟に価値を感じることができなければ、しだいに若さを失っていく自分を素直に受け入れることができず、高齢若としての自分を肯定的に受け止めることができないだろう。
若かった自分を懐かしむのはよいが、高齢期を生きる自分を廿定できるような自己イメ—ジの形成がこの時期の課題であり、そのための自分磨きは、若かった頃の自分磨きとは当然ながら違ったものになっていくはずである
退職後は、何からも追い立てられずに、「今」を存分に味わいながら大切に生きることが許されるのである。学校に人る前の幼児期以来、ほぼ60年ぶりに、地に足の着いた生活を楽しめるのである。
もはや時間に追われて暮らす必耍などないのだ。時間とのつきあい方に関して頭を切り換えることができれば、これまで以上に豊かな時間を過ごすことができる。
時を忘れるような瞬間をもつことで、 「今」を充実させることができるし、時間的展望をめぐる葛藤からも解放される。時を忘れるような瞬間をもつこと自体が、悔いのない時分らしい過ごし方ができている証拠と言える。
定年退職を迎える頃には、そのような機能的人材は簡単に取り替えがきくものであったことに気づく。自分が退職しても、代わりにその機能を担う人材がいて、組織には何の支障も生じない。そんな自分と違って、趣味人として充実したプライベートを楽しみながら仕事生活をこなしてきた人物は、けっし��取り替えのきかない個性的な人生を送っている。
生活の糧を得るために、元々多面体である自分を一面的に封じ込めなければならない。それが定年までの仕事生活である。そんな封じ込めていた多面体の自分をいよいよ解放し、これまで抑圧してきた欲求を前而に掲げるチャンスが訪れたのである。
それは、まさに「自己実現」への道が開かれたとみなすべきではないだろうか。
自己実現欲求は、「成長欲求」と呼ばれる。もっと自分らしく生きたい、自分の潜在的なものを開花させたい、美しい生き方がしたい、善い人生を送りたい、心豊かな日々を送りたいといった思いに駆られるようになる。それが自己実現の欲求に動かされるということである。
ごく平凡な生活の中でも、満ち足りた気分で自分の個性を発揮している人。周囲に何かを与えることができる人。よりよく生きたいと一生懸命に生きている人。そうした人は、自己実現に向けての成長のプロセスを歩んでいると言える。
マズローは、自分の可能性を十分に実現している人間を自己実現的人間と呼び、 精神的に健康な人間の極に置いているが、そのような自己実現的人間がもつ特徴として、つぎのようなものをあげている
①現実の正確な認知
②自己、他者および自然の受容(ありのままを受けけ人れることができる)
③自発性
④問題中心性(自己にとらわれず課題に集中できる)
⑤超越性(周囲に巻き込まれずにプライバシーを保てる)
⑥自律性
⑦鑑賞力の新鮮さ
⑧神秘的体験
⑨共同社会感情(人類の一体感)
⑩数の友人や愛する人との親密な関係
⑪民主的性格構造
⑫手段と目的の区別(倫理的感覚)
⑬悪意のないユーモアのセンス
⑭創造性
⑮文化に組み込まれることに対する抵抗
定年退職後は、まさに自己実現への道に踏み出すのに絶好の時期と言ってよいだろう。
自分の人生はみんなと違っていいし、個性的でいい。個性的に生きたい、自分らしく生きたいという人が多い時代になったというのに、みんなの動向ばかり気にしているのはおかしいだろう。それでは自分らしい個性的な人生にしていけるとも思えない。
もうそんな縛りから解放される、あるいは解放されたのだから、もっと気軽に構えてもよいのではないか。みんなと同じ過ごし方が自分にとって心地よいものになるとは限らない。
第2章 居場所をめぐる葛藤の落とし穴
心の張りのある生活をするためにとくに大事な要素が2つある。それは、「やりがい」と「居場所」である。2つとも十分に満たされているという人は多くはないだろうが、どちらかひとつでもある程度満たされていれば、それなりに張りのある生活になるのではないか。
2018年にイギリスで、世界で初めて孤独担当大臣というものが誕生したのは大きな話題になったが、イギリスでは孤独対策として、 慈善団体などによってメンズ・シェッド(男たちの小屋) という定年後の男性のための居場所づくりが行われている。定年を迎えた男性は孤独に陥りがちなので、そうした男性たちを引つ張り出して仲間と公園に置くベンチや遊具を作るなどのDIYに取り組んでもらうのだという
日本人には社交が���手な人が多いが、それは相手がどう思っているかを気にするからである。欧米人のようにお互いが自分を押し出せばよいというなら簡単かもしれないが、 相手の気持ちが気になると、なかなか自由に振る舞えない。そのため多くの人が対人不安気味な心理を抱えている。対人不安というのは、人と一緒にいるときに感じる不安のことで
ある。
職場生活はわりと画一的だっただろうが、定年退職後の過ごし方は人それぞれであり、個性的であってよい。いずれにしても焦らずに、それぞれ時分に合った過ごし方を模索することが大切である。
現代は、反応が速く、変化に対する適応のよい外向の価値ばかりが重視されるが、思考の深さ、発想の燃かさということを考えると、内向の価値にもっと目を向けてもよいだろう。
深層心理学者のユングは、人間には自分自身への関心が強いタイプと他人や周囲の出来事への関心が強いタイプがあるとして、内向型と外向型という2 つのタイプに分類した。内向型とは、自分自身への関心が強く、内面とのふれあいが豊かで、自分の心の中で起こっている主観的出来事をうまくとらえることができ、そうした、主観的要因を基準に行動するタイプである。
飽くことなくスピードアップを迫求する今の時代、周囲にアンテナを張りめぐらし、目まぐるしく変化する世の中の動きを敏感に察知し、 素早く対応することが求められる。それは、まさに外向型の得意とするところだ。
じっくり自分自身に問いかける内向型は、どうしても社会の変化の流れに乗り遅れる。そして、外向型のフットワークの軽さを羡み呆れると同時に、自分自身の適応の悪さに自己嫌悪することにもなりがちだ。
内村鑑三は、仕爭から引退すれぱ、 表而的な交際をする必要がなく、誠実な友だちとだけっきあえばよくなるとして、引退を肯定的に受け止めるべきことを説いている。
いずれにしても、無理して浅い社交を広げるような虚しい努力を定年退職後にまでもち越す必要はない。表而的な人づきあいを増やさなくてもいいし、参加している団体数を増やそうとしなくてもいい。そんなことをしても心地よい居場所などできない。自分の時間を無駄に失うだけだ。無理せず自然体で過ごすことが大切である。
第3章 喪失の悲しみをどう乗り越えるか?
職務上の役割喪失は、もう自分は必要のない人になってしまったのではないかといった不安を喚起し、気力の低下をもたらしがちである。とくに仕事で組織に貢献し、稼ぐことで家族に貢献していることを自負してきた人にとっては、 もう何にも貢献していないということによる喪失感は、本人が思っているよりも心理的に大きなダメージとなっていることが多い。
定年後に問われるのは、自発性を発揮することができるかどうかである。縛りがなくなり、営利目的で動く必要がなくなると、生きている世界の見え方も変わってくる。本を読むにも、仕事に役立つ箇所はないかと実利的目的をもって読む場合と、無目的にひたすら楽しみながら読む場合では、目の付けどころも違ってくるし、たとえ同じ本を読んでも、その印象は大いに違ってくるはずである。
これまでは時間がなくてできなかったこともできるようになる。時間はた���ぷりあるのだ。ここで問われるのが自発性に加えて勤勉性である
心理学的研究によれば、「意味記憶」では加齢の影響はみられないが、「エピソード記憶」では加齢の影響が顕著にみられる。つまり、言葉の意味などの知識は高齢になっても消えないが、あの頃こんなことがあったというような過去の出来事に関する記憶は高齢になると薄れていく。
「符号化能力」、つまり記憶に刻む能力が低ートすることも、心理学的実験によって示されている。新たなことを記憶しにくいというのも、符号化能力の衰えによるものと言える。
ただし、 新しいことが頭に入りにくいのは、 必ずしも記憶力の衰えによるものではなく、思い入れの欠如によるものといった側面もある。
私たちは、自伝を書くようにして日々の生活を営んでいるのである。自分の人生の軌跡は、すべて自伝的記憶の中にある。人生はすべて自伝的記憶とともに進行しているとも言える。したがって、自己のアイデンティティは自伝的記憶によって支えられているのである。
結晶性知能というのは、経験から学晋することで身につけられた知識や判断力のことで、言語理解や一般知識、経験的判断に関する.課題によって測定される知能のことである。
流動性知能は、青年期にピークがあり、その後しだいに衰退していく。かつてはこれのみを知能とみなし測定していたため、吉年期以降は知能は衰退の一途をたどると号えられていたわけである。
一方、結晶性知能は、教育や文化の影響を強く受け、経験を植むことで成熟していくため、成人後も衰えることなく、むしろ年齢とともに上昇していき、老年期になってからも向上し続ける、あるいは容易には衰えない。
私たちにとってだれかの役に立つこと、人から必・要とされることが非常に大きな意味をもつということである。
「だれかの役に立っている」「必要とされている」と感じることができれば、たとえ報酬が現役時代と比べてかなり少なくても、場合によってはただ働きのボランティアであっても、現役時代以上にやりがいを感じ、張りのある日々を過ごすことができる。
役割をもち、張りのある生活は、健康寿命の延伸に効果があると考えられるが、そのことは調査データによっても示されている。
私は、人に対して開放的かどうかをとらえる際に、社交性と自己開示性を交差させてとらえることを提唱しているのである。そうすると、対人的開放性は、社交性と自己開示性の両方とも高いタイプ、どちらか一方のみが高いタイプ、 両方とも低いタイプの4つのタイプに類型化することができる。
行動することに価値が置かれた職業生活と違って、定年後の生活では内面生活の充実をはかることが大切となる。そのためにも読書を通して新たな視点を獲得し、 人生に対する洞察を深める必要があるだろう。
第4章 没頭できる「何か」はあったガがいいが、なくてもいい
自己実現というのは、これまで開発されていない自分の能力も刺激して、全面的に生きることを指す。職業生活で論理能力がとくに磨かれたという人の場合、感覚面や感情面が十分に磨かれていないことがある。その場合は、あえて苦手な絵画や音楽に挑戦することで感覚面を刺激し���り、朗読や演劇に挑戦することで感怙而を刺激したりするのも、自己実現に近づくことになるかもしれない。
ただし、無理は禁物である。苦手な能力をあえて開発しようとするよりも、特異な能力を活かして新たな領域にチャレンジする方が無難である。
自発性のある人は、現役時代のようなストレスがなくなり、自由気ままな生活を思う存分楽しむことでイキイキしている。一方で、現役生活の中で自発性が枯渇してしまった人は、与えられた役割がないと動くことができず、自由な状況がかえってストレスになり、イキイキ働いていた頃を懐かしんだりする。
哲学者梅原猛は、好奇心をもつことの大切さを指摘している。
「今の哲学の研究者たちは、カントの哲学、ヘーゲルの哲学についての研究をしているんで、哲学そのものをやっていない」哲学についての哲学が今のアカデミズムの主流です。
私はもうそんな窮屈なこと考えないで、哲学というのは無限な好奇心だと思う。限界を知らざる好奇心。プラトンの言うエロスというのは、面白いことがあるとどこへでもくぐっていくことなんです。これは自然科学でも人文科学でも、歴史でも文学でもいい。そういう具体的なものとの関わりなしに、エロスはあり得ないのでね。エロスは必ずそういうところに溢れてくるんです。」
暇つぶしとしての勉強が最も純粋な学びであり、戒も楽しい学びだということである。暇つぶしとして気になることをいろいろ調べながら学んでいくと、意外に面白いテーマが見つかり、楽しい学びになっていくはずである。
第5章 これからの人生に希望を与えてくれる先人の言葉や生き方
なぜ、だれもがフランクルの言葉に勇気づけられるのか。それは、今の苦しい状況をもがき苦しみながら生き抜くことに、前向きの意味が感じられるようになるからだ。
人間は悩む存在であるというフランクルの言葉は、悩み多き人生を生き抜く勇気を与えてくれる。悩むのは生きている証しなのだと思えば、悩み多き人生もちっとも苦ではなくなる
苦悩は取り除くべきものと勘違いしている人が多い。それに対して、フランクルは苦悩する能力が大切なのだという。自分自身の現実から目を背け、見せかけの安らぎに甘んじている人を脅して、悩むように導くことも、心理療法の重要な目的だとまでいうのだ。大事なのは苦悩を意味で満たすことであるという。そのようなフランクルの主張は、まさに目からうろこだ。
「生物学的に下り坂になるとき、 いわば人生の方はやっと上り坂になるわけです」
「人間が本当に必要としているものは緊張のない状態ではなく (中略) 努力し苦闘することなのです」
「人間存在の本質は、自己実現ではなく、自己超人性にあります」
「自己実現を意図的な目標にしてしまうことは破壊的であると同時に自滅的である」
「自己自身を忘れ、自己自身を無視する程度に応じてのみ、自己自身を実現することができるのです」
「私たちが意識しているのは、そもそも、ひとりひとりの内面の進歩しかないということです」
「内面的に成功するかどうかこそ問題なのです」
「最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか『だけ』だったのです」
年輪を重ねた英知をもって経験の中から何かを汲み取ることも大切である。
へッセが70代半ばに書いた『エンガディーンの体験』というエッセイ、および『秋の体験』というエッセイの中のつぎのような言葉には、そうした意味も込められているのではないか。
「老人にとっては 新しい」体験は、稀になるばかりで、新しいと思っつても、実は何回も、あるいはしばしば経験したことのくりかえしであり、たしかに最初のものではないが、そのたびごとに自己避逅と自己検討にもなるのである。海をはじめて見たり、フィガロをはじめて聴いたりする人は、それを十回目、あるいは五十回目に体験する人とは違ったもの、そしてたいていはずっと激しいものを体験する。後者はつまり、海や音楽に対して、前者ほど強い感銘を受けるカはないが、前者よりも慣れた、研ぎ澄まされた目や耳をもつ。初体験の人とは異なった風に、よりきめ細かに受け取るのである。そればかりでなくこの再体験は、彼にとっては以前の体験との出会いでもある。彼は、すでにおなじみの海やフィガロを新たに再体験するだけではなく、自分自身に、若いころの自分に再会するのである。微笑や、嘲笑や、優越感や、感動や、恥辱感や、喜びや、あるいは後悔を伴ってであろうが、それはともかく、体験の枠の中での彼の昔のいろいろな人生段階に再会するのである。」
「私たちが若いときには、時おり、美的なものや快適なものや、 資格と官能の快楽などをいくら味わっても満足できないことがあったように、私たちは年をとるにつれていくら知識を得ても満足できないことがあります。私たちは、この地上での無限のもののうちで知ることができるかぎりのものをできるだけ多く、取り入れなくてはならないと思います。そしてそれはひとつのすばらしい欲求です。」
これは、現役時代は利潤追求などのために外に向いていた目が自分の内而に向かうようになり、心の声に耳を傾けながら内面生活の豊かさを追及するようになるという人格成熟のプロセスに呼応するものと言える。高齢期には、人生をより深く理解したいという思いが強まり、内面を見つめるようになる
83歳のときの知人宛ての手紙においても、50歳から80歳の間には素晴らしいことをたくさん経験すると述べている。
「五十歳と八十歳のあいだに私たちはたくさんのすばらしいことを、それ以前の何十年間に体験したとほとんど同じくらいたくさんのことを体験できます。」
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60歳からの仕事と生活リズムが変わって行くのを空想しながら読みました。
理想だけでは暮らせないし、それでも誰かと関わるのは面倒。趣味のつもりがストレスになったり…。
受け入れ難いこと、その時を楽しめること、全くの反対のことその両方を手に入れたいのだ。
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マズローの「欲求の階層説」にある欲求のうち、自己実現の欲求以外は「欠乏欲求」との説明が面白かった。また、フランクルやヘッセの言葉が気になった。
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体力、知力ともに確実に下り坂状態なので、「めきめき元気になる」というキャッチに思わず「ホンマかいな~」と思ってしまう天邪鬼。発想や価値観の転換が必要なことはそのとおりだが、頭でわかっても心が追いつかない人もいっぱいいるのでは?
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最後の章、伊能忠敬やヘルマンヘッセの言葉が良かった。人生50歳すぎてもまだまだやりたいことができるってこと。
そりゃ仕事以外の付き合いが広くない人の方が多いでしょ、フルで働いてる人は。できればお金にしたいし、人付き合いに疲れやすいタイプなので無理せず楽しく情熱持って探求でかかるものを探したいな。