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Aかと思えばB、BではあるがA、といった風に、論調が行ったり来たりで、結局ドッチナンダイ?と言いたくなるが、この語り口がまさに地獄になる世界で地雷を踏まない身の処し方を指し示しているのかもしれない。そう思えば途中では矢鱈と刺激的な事例を紹介しつつも、結論だけは優等生的にまとめているのも頷けるというものだ。
この著者は簡単に尻尾を掴ませたりはしない。
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キャンセルカルチャーという言葉も知らない者にとって、現在が「地雷原」を踏むと地獄になる現状を認識できたことはよかったとは思う。しかし「天国はここにある」と最後に言われてもね.....
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橘玲さん、ちょこちょこ読んでいます。新書はもくじをざっと見て買うことが多いけど、「小山田圭吾炎上事件」とか「性的少数者の呼称が長くなる理由」とか「障害は差別用語なのか」とか、「日本では中間管理職の死亡率がもっとも高い」とか「個人は国家の過去の加害行為に責任を負うべきか」などなど、興味深いタイトルだったので即買いました。
東京オリンピックの時に、小山田圭吾が過去のインタビューやら発言をほじくりかえされて、”キャンセル”された。いったい、過去に何言ったん?っていう単純な興味も沸いたし。どんな発言だったのかも簡単に紹介されていました。じゃ、彼はどうすれば良かったのか。著者によれば、以前にも過去の発言が問題視されていたわけだし、オリンピックの演出のような公の仕事を引き受けるべきではなかった、というのが正解だそうで。それ以外、謝罪したところで、過去にいじめられた人が再び傷つくだけだし、どうしようもなかったであろうと。
「障害者」を「障がい者」と表記するようになったのはもう何年も前から。そういうの嫌いだな、とは思っていた。意味は変わらないわけだし。ばかばかしいというか。表記を変えたら差別がなくなるわけでもないし。
LGBTが LGBTQ となったのは数年前に知ったけど、またさらにアルファベットが追加されているとか。いろんなパターンの”性的少数者”が詳しく解説されていたけど、読んでいるうちに訳がわからなくなりました。一言で要約してしまうと、結局「いろんな人がいる」っていうだけで、みんなが自分の基準に無理に当てはめようとせず、「いろんな人がいる」ってことを受け入れさえすれば、名称なんてなんでもいいのに、と思いました。
私なりに、いろいろ努力して固定観念に縛られず、偏見を持たず、差別をしないようにしているし、ことあるごとに子供たちにもいろいろと話して、差別をしない、差別を許さない大人になるように見本となる大人になるべく努力いるつもりです。
一方、私の母は非常に頭がかたく、保守的で、ともすれば差別的な考えに至るし、「それ差別だよ」っていう発言もする。でもすごくピュアで素直なので、長年教員をしている私が「そういうのは、・・・・・だから差別なんだよ」って冷静に伝えると、「そうなんだー!」目をぱちくりさせて驚く(笑)。そういう彼女は、目の前にどんな障がい者がいようが、LGBTの人がいようが、真正面から付き合って、たまにうっかり差別発言をしたり、「かわいそう」とか言っっちゃったりしながらも、とても慕われて深い付き合いになったりするから不思議だ。要するに、「何が差別にあたるか」とか小難しいことを考えなくとも、いろんな人がいる、目の前にいる人は私の仲間、と認識すればちゃんとバリアフリーな世の中になるんじゃないかな。
そうではなく、あれもダメこれもダメと小難しい世の中になったことを「世界はなぜ地獄になるのか」というタイトルで表現している、非常に興味深い本でした!
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キャンセルカルチャー
社会的正義
この本で扱う小山田圭吾炎上事件なんかは、
過去の自分の行いはどこまで許されてるのか。もしくは許されないのか。一面的な報道のみから養護するのは難しいと同時に、ここで騒ぎ立てている人たちとは、これに関わらずどんな人たちかなと思う。
当事者同士の関係は、彼らにしか分からないという部分もあるけど、オリンピックに関わる立場は、また別の話かなと思う。
美術館のアート表現にしても、気に食わないという思いだけが先行して攻撃的になる。本書でもありましたが、現実社会では自制がきく行為も、監視のないネット社会では、歯止めが利かなくなる。
上方比較を損失、下方比較を報酬とする脳の構造は、上の人の足を引っ張ることで、溜飲を下げる。これが、ネット社会でより顕著になったということかな。
インターネットの登場で、世界はより便利になるという想像は、人の負の側面をそれ以上により加速する結果になったのではと思う。
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リベラル化の潮流 自分らしく生きられる
社会が複雑に 孤独に 自分らしさが衝突 格差拡大
リベラル化の帰結、その一部としてのポピュリズム
キャンセルカルチャー 反倫理 反道徳
小山田圭吾 東京パラリンピックテーマ曲
ロッキングオンジャパン記事 和光学園 高機能自閉症
地位についた者が攻撃の対処、キャンセルできる地位になければ無視
資格がないと辞退すべきだった・・・
ポリコレ political correctness ~グローバル空間での適切なふるまい方
身分制から生まれた日本語 相手のとの距離を調整 上下/内外
大きな差別がなくなり 小さな差別へ 言葉づかい 過剰な敬語
会田誠「犬」
オリエンタリズムを超える「低俗な変態的画題を風雅な日本画調で描く」
アーティストではなく、プラットフォームへの抗議
言論・表現の自由: 何が正しいかは議論で決着・・できない
評判格差社会のステイタスゲーム
80億人の中で ステイタスを上げる
「成功」「支配」の地位にない被害者が「美徳」で正義を振りかざす
「帰属する集団のステイタス」アイデンティティ融合(推し)
共同体の制約の中、ステイタスの高いものを引きずり下ろし、自分を高める
↓
社会正義
欧米の左派の信念 あらゆるものに差別がある 陰謀論 リベラルと対立
↓
大衆の狂気 ~法に触れなければ何をしてもいい
キャンセルカルチャー産業によって作り出される地獄
特定の問題に時間資源投じられるマイノリティが そうでないマジョリティを抑圧
脳はしゃべり続けている差別主義者 ←前頭前野がブレーキをかけている
「極端な人」 一定の抑圧がされているが 批判されるとブレーキが外れる人
地雷原に近づくな 個人を批判しない リベラルの立場で発言する
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差別を解消し、また自分らしく生きようとするほど、この世界にはコンフリクトが発生する。
キャンセルカルチャーが大手を振るこの世界で生きるために。
読めば読むほど認知的不協和が起き、めんどくさくなってくる。
これがタイトルの地獄という意味。
キャンセルされそうな火元には近寄らず、SNSには猫の写真をpostする、というのが現状の最適解か。
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「誰もが自分らしく生きる」という、誰もが同意する理想に向けた「社会正義」運動が、キャンセルカルチャーへと変貌していく。この「天国(ユートピア)」と「地獄(ディストピア)」が一体となった社会を生きていくには、「距離を置く」ことが現時点でできる最良のすべだと著者は言う。
小山田圭吾氏はどうするべきだったのか。「過去に傷があることを知っているのなら、キャンセルされるような地位は辞退すべきだった」という著者の指摘は、現実性はともかく、斬新だと思った。
アメリカの左派の「圧制」は、北朝鮮で性奴隷として売られたヨンミに「北朝鮮でもこんなふうに狂ってはいなかった」とまで言わしめた。それと同じ風潮が、日本のSNSで跋扈していることに寒気を覚えた。ロビン・ディアンジェロによれば、「白人は特権を与えられてきたのだから、白人は生まれながらにレイシストで、どんなときでも自らの『加害性』に自覚的でなければならない」という。これを「男性は自らの『加害性』に敏感であれ」「男性であるだけで警戒されて仕方がない」とする一部の言論と重ね合わさずにはいられなかった。Youtubeのショート動画で「学校では黒人のほうが人気だよ。白人は人気がない。ダサいと思われている」と言っている白人の青年がいたことを思い出した。彼の気まずそうな顔は、こうした風潮が背景にあるのではないかと疑いたくなってしまった。
事故で脳を損傷したドーランの事例から「人はだれでも他者に対する憎悪・嫉妬・嫌悪・罵詈雑言がチャッターとして頭の中で渦巻いているが、それを前頭前野の働きでなんとか抑え込んでいる」。SNSは匿名でどんなヘイト発言でもできる環境のため、この前頭前野のブレーキが外れてしまう人がいる、と著者は言う。この本を買ったときに立ち読みした本(東北大の川島隆太教授の本?)に「スマホは前頭前野を破壊する」と書いてあって、なんとなくつながって納得した。
そのほか、「ステイタスの低さが健康に悪影響」とか「アイデンティティ融合」とか「マイクロアグレッション」とか「ポストモダン思想・現代思想」とか「マイノリティは特定の問題に時間資源を投じられる」とか、いろいろな視点で「この地獄」を解説していて興味深く読めた。
―わたしたちは、自分よりステイタスの高い者と比べるときに痛みを、ステイタスの低い者と比べるときに快感を覚える。これは脳の基本設計なので、心がけや道徳教育で変わるわけではない。
―このようにして、成功ゲームや支配ゲームをうまくプレイできない(その多くはステイタスの低い)者たちが、大挙して美徳ゲームになだれ込んでくるようになった。自らを「被害者」と位置づけ、正義の名の下に他者を糾弾することは、社会的・経済的な地位に関係なく誰でもできるし、SNSはそれを匿名かつローコスト(ただ)で行うことを可能にした。(中略)キャンセルカルチャーの社会的・生物学的な背景は、このようにまとめることができるだろう。
― 地雷原に近づくな これが、キャンセルカルチャーへのもっとも現実的な対処法になる。そして多くの場合、評判を守り、社会的な地位を失わないための(ほぼ)唯一の方法でもある。
―キリスト教徒は地獄をつくりだすことによって救済への不安を生み、それから逃れられる唯一の方法として自分たちのゲームを提示した。同じように、新左翼の活動化たちは、偏見だと非難してもよい条件を根本的に書き直し、単に白人や男性であることが罪の兆候になるようにハードルを下げることで地獄をちらつかせる。こうして救済への不安を生みだしたうえで、自分たちの活動を唯一の救済策だとして提示するのだ。地獄の脅威から逃れるためには、これみよがしに熱心に、非常に正しくプレーをするしかないのだと。(ウィル・ストー 『ステータス・ゲームの心理学』)
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これは難易度高い。
キャンセルカルチャーや、米国のリベラルのレフトの極端さについて。大きな流れと細かい説明がある。わかりやすい。
難易度高いのは、この日本がその狂気にまだ完全に飲まれていないから実感があまりないため。
米国の左派は、lgbtなどの差別に対して、分断している。過激なレフトと、穏健なリベラルへ。言論統制と、表現の自由で。これが日本に来つつあるが、まさに地獄である。
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アイデンティティ。マジョリティ対マイノリティ。あっちを立てればこっちが立たず。文化全体に地雷が仕掛けられている!
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人種や性別等等によらず、誰もが「自分らしく」生きられる社会は素晴らしい。しかし、現実はリベラルが強調され過ぎると、格差は拡大し社会はを窮屈になる。生きづらさにつながるこのジレンマが哀しい。
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「火のないところにも煙はたつ」
ネット社会は情報のが持つ価値を大きく変えてしまった気がする。
面白かったです。
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「させていただく」使役の助動詞の「させる」と授受動詞の「いただく」を連結の「て」でつなげたもの。
代替させる事を自身に都合よく(無許可)交換させる効果を狙う。これは当然、ハラスメントを含むことにもなる。
昨今のジャニーズや宝塚の会見風の自社広報はこれだな。
組織文化(情報体系)が違う外部との接続の齟齬が、露骨になっている状態。さらに、この露骨になりうる状態が、より広範で上位の操作の拡大へ向かう。業界での支配力の差を使い、使役(強制)へと相手を操作する実演となっいる。つまり忖度を促してきた事の証左。
そしてやはり資本という数量化を前提に駆動する仕組みとも、相性がいい。権力の大小が、明確で絶対的な状態を無自覚に作り出し相手に強制することが容易となる。
「敬意逓減の法則」ね、面白い。
同じ基準で測れないものを測ろうとして無理をすると地獄が現出する。
これに対処するには、礼なり、敬意なりを見直すことから始めるしかないのか。
これには、距離感を上手く測る事。実の距離ではなく、あくまでも距離感が重要になる。そしてこの距離感ではあるが、逆ベクトル的な絶対値もありかな。
そんでもって、これがキャンセルカルチャー化へ進むのか?
ポストモダンて、測れないものを呪わずにどう扱うかを模索しようかの試行を秘めているものだっただろう。リベラル的な社会正義の実現に向かう必要があるのか。
結果的にそうなるのなら、いいというだけではないか。
地獄ということからなら、人類には未だ測りきれない世界と、そしてヒトの社会が、そこにあり、これをどうするか。AIの進化は、これの一つの解答で言語活動の限界と不完全さを人類に教えている。ただ便利なツールには違いないだけ。
言語も生命にとっては、絶対ではない、と。つまりは生命は生命で、それが単純なる意味。物差しには使えるが、生命を測るには使えない。そして地獄も測れない。
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生き辛い世の中になるメカニズムがソースを交えて紹介されていて納得感がある。ただ、地獄とはいっても何の自由もなく過ごしていた昔の庶民と比べるとマシなのか、そうでもないのかは気になるところ。なお、比較はできない。
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キャンセルカルチャー、LGBTQ、BLM、リベラル、保守、行き過ぎたポリコレについてガンガン斬ってくれている本!私も個人的に疑問に思っていた「多様性」を語るリベラルっぽいコメンテーターの「非多様性」な意見を一切認めようとしない矛盾・・・当著の終盤に書かれている「右か左かにかかわらず、あるテーマに特化した知識をもつ少数の者が特権的な立場を占め、それ以外の多数派を排除する構図」という橘玲さんの意見に大いに賛同します。気になる方は是非、手に取ってみてください。
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問題が細分化、複雑化しているので、専門用語やカタカナ語が飛び交い、かなりややこしかった。
細かいところまでは理解していないかも知れないが、「誰もが自分らしく生きられる社会」から生まれた闇の部分に焦点を当て、最終的には現状が100点でなくても、そこで満足しようというメッセージだということは十分伝わった。
過剰なポリコレなどに嫌気がさしている人は多いと思うが、マイノリティたち、程度の差こそあれ抑圧されている人たちを囲うあまりに、マジョリティが窮屈な思いをしている現状をロジカルに語ってくれるので、すっとする人もいるのでは?
すっとしても本書にあるとおり、解決策がないのが辛いところだが…。
今の世の中、正直言って「そんなことで?」と思うことでも問題になる。
全てを平らに、誰の不満もなく過ごす社会を作るのは無理があるのではないか。
私自身はジェンダー論に興味があり、男とか女とかで不利になる社会のあり方が新しい方向に向かうのは歓迎したいところだった。
でも、なんだかやりすぎだよ!という違和感も拭いきれない。
そんな違和感の正体がこの本で言語化された感覚だった。
一方で、少数派の人たちが不満を言えば、それは大問題となって対策をしなくてはならない…というのはとても息苦しいなとも思っていた。
相手が間違っていれば鬼の首をとったように大勢で叩き潰す、それをキャンセルカルチャーというらしいが、全てのことが正しい方向にいかなくては気が済まないというのはちょっと異常だと思う。
「自分らしく」という言葉もなんだか窮屈だと思う。
言われたことを何も考えずにこなすのが好きな人もいるわけで。
多様性とか、自由とか、平等とか、大切な言葉だけどそう言ったことを求められることに疲れていたのかも…というのを本書を読んで感じた。