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大阪ミナミ島之内にある移民ルーツの子どもたちの支援教室。そこでボランティアを続けた著者の見たもの。
これもまた大阪の顔のひとつ。子どもの隣に座ることの意義と意味。支援する側とされる側ではない関係。マイノリティとは。
読み応えがありました。
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ただ「隣に座る」ことの意義:対話と「共にそこに居る」経験の積み重ねの力を考えさせてくれます。移民を「どこから来た人か(ルーツ)」で仕分けする眼差しではなく、「いま・ここに至るまでの経緯(ルート)」の個別性に魅力を見出だしていく眼差しが、ダイバーシティの社会を鍛えていくんだろうなと思いました。対人支援に興味のある人に刺さる本です。
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配架場所・貸出状況はこちらからご確認ください。
https://www.cku.ac.jp/CARIN/CARINOPACLINK.HTM?AL=10276202
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上半期のベスト本にノミネート!
移民の方と距離を置くのでも、無理やり馴れ合ったりするのでもない、様々な「第三の道」がここに示されている。
大阪・ミナミの島之内という街にある学習支援施設「Minamiこども教室」を中心に、10年間の取材をした記録。
移民の子供向けに開かれた教室で、ボランティアの大人が「一対一」で勉強を見たり話し&遊び相手になったりする。新聞記者の著者は当初取材のつもりで訪れたが、そのままボランティアとして通うことに。彼が一時の取材でなく心から彼らのそばにいたいと思ったところに、ただのルポではないことを確信した。
教室での経験を基に移民について理解を深めたいと思った著者は、2年間のロンドン留学を決意。「ソールズベリーワールド」という学習支援施設で難民の子供達との交流を図っていく…。
「『多様性』という言葉がむしろ、その背景にある一人ひとりの顔を、語りを、人生の歩みを、覆い隠すようになってはいないだろうか」
その言葉を裏付けるかのように、本書ではMinamiこども教室やソールズベリーに関わる子供達・親・教師・スタッフまで、それぞれのバックグラウンドやパーソナリティーが克明に記されている。
本が分厚いのは、それだけ個性を持った一個人として全員に接してきた表れでもある。
教室に顔を出す子供達はフィリピンや中国系が大多数を占めており、ミナミの繁華街で働く親御さんも少なくない。(子供達の在日歴はまちまちだが)日本語の会話が達者でも勉強で必要な学習言語がおぼつかないというケースも…。
学校生活における言葉の壁や疎外感・帰宅しても親がいないことへの寂しさを少しでも拭うために教室は開かれている。それはソールズベリーにも言えることだ。
「ルーツ(roots=起源)にばかり目を向けて、「違い」を排除しようとするのではなく、ルーツ(routes=経路)に意識を傾けることで、一人ひとりの『違い』を寿ぐ」
「サポートする側」も様々な”routes”(経路)を辿っており、彼らもまた「多様性」の一部だと言える。専業主婦から子供達をサポートする仕事を始めたウカイさん・島之内に子ども食堂を開いたフクイさん・ソールズベリーのみんなから慕われている代表のサラetc…。みんな逞しいし、行動力が尋常じゃない。
みんなの強い精神が教室の屋台骨となって、コロナ禍でも分解していかずに済んだのだと思わずにはいられない。
その中で、ボランティアのヤマダさんを自分も忘れられずにいる。
毎回休まずに教室を訪れる反面、子供達への接し方に一癖あったというヤマダさん。最終的に辞められたが、彼を通して著者は世間の言う「多様性」に疑問を投げかけている。「『好ましい多様性』というものがあるのだろうか」と。
同時に、ヤマダさんは自分と一番近い位置にいるんじゃないかと捉えている。力になりたいけどためになるような接し方が分からず空回りしてしまう。
「第三の道」を見つけるのも大事だが、立ち戻らなきゃいけない地点があることを思い知らされた。
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移民、と呼ばれる方々と触れ合うことのない生活をしている。
なのでTVやネットや書籍などで、間接的にしか私は移民ということを知ることができない。
だからなのか、この本に書かれていることについて、著者が伝えていることは、スッと心に届かないモヤモヤした思いもある。
しかし、移民として日本に暮らしている人々は、幸せになるために日本を選び、日本を訪れた人がいるし、歴史的、社会的な背景がある、と著者の思いとして、第三章(P.234から)を読み理解できた。
最後に、ボランティアのヤマダさんのことが印象深く残った。
コミュニケーションのとり方を、問題ありとされる辛さを、彼はどう自分で処理してこれから生きていくのだろうかと。