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鴻巣由紀子さんが絶賛していたのとタイトルに惹かれ、さらに(覚えたばかりの)ゴンクール賞受賞作だというので読んでみることに。本書の面白さは語り手が変わる度に視点を覆される驚きとともに充分伝わってくるのだが、私にフランスとセネガルの関係や南米文学の基礎知識がもう少し有ればもっといろいろな仕掛けが楽しめたはず‥。不勉強だった自分が情けない!解説を読んで、著者の他作品にも興味が湧いた。
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こてんぱるぱあに、なにくそ?へ?っていいぬれる、かげかるちよ?ぱるてもんもし?!、ははらちくそと、ぱぱらちぶさどろんと、ひじゆうへんじんやけいや?かながわのさけくさいひとのなやみじすいがへたくそなありと、いはらぴるしよおこんや、こんぱすや、こんだてにはとけなくしなんとほっすればかわざんよう、すとれっちへああさついかまいだあとかまいどくむしどぎもをぬぎんしぎんやはれつぎんなんをつかえばぼろぼろ、ほっちほたつくかなあかがいよりほてつくいまをかわごおがんはんざいけいじいがわらがんをけいおうくれぱすあたまはんざい
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セネガルの作家、モアメド・ムブガル・サールの小説。
あらすじを言えば、駆け出しセネガル人の作家が、幻の本の作者の足跡を辿るというありがちな展開だが、3つの柱がある。作家と文学についてと、アフリカについてと、アフリカ人の作家と文学についてである。
人はなんのために書くのかという問い、セネガル人としての根源的ルーツ、そしてフランス領であったセネガル出身者が西欧的文化圏において創作するとき何が起こるか、ということである。
特に三番目についてはアフリカ、というだけで我々は直ぐに色眼鏡でみてしまう。現に私自身、著者名で中東かアフリカ系であることに興味を持たなければこの書を手に取ったか。
それでも創作活動において、そしてそれを鑑賞する立場において、文化的バックボーンはどうしても消せないし、それがあってこその創作であることを強く感じる。
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セネガル出身の若い作家で、ゴンクール賞受賞ということで読んでみた。
とにかく饒舌。はじめはアフリカの作家がいかに白人世界で型に嵌め込まれて扱われているかという文学論もあり、物語は進むのかと不安になったが、シガ・Dの父の語りから面白くなった。
セネガルの伝統・文化・宗教、現在の政治運動、ヨーロッパに住むアフリカ人文学者は何を書くべきかといった思想的な要素だけでなく、場所もパリ、セネガル、アムステルダム、南米と移動するし、時代は第一次世界大戦前から現在までで、複雑で広範である。語りも、語り手(現代のセネガル人若手作家ジェガーヌ)、ジェガーヌが尊敬する女性作家シガ・D、シガ・Dの口を通した父ウセイヌ、フランス人の文学研究者、ハイチの詩人の語り、と二重三重の構造もある。それをよくまとめあげたなと、その力量に関心する。
物語としても面白かった。(映画になったら文章自体の饒舌さが押さえられて、構造が視覚化されてすっきりした話になりそう。)
饒舌な語り口は好き嫌いがあるかもしれないが、一読に値する作品だと思う。
ただ、南米のマジックリアリズムに出会った時ほどの衝撃はなかった。あれは本当に度肝を抜かれたし、その語り口に夢中になったが、これは、ある意味ヨーロッパ的な理性をもって語られていた印象。アフリカとヨーロッパのハイブリッドという感じ。
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1冊の小説というのが人生を変える、というのは極めてドラマティックなストーリーであるが、作品に魅せられるが如くその作品から逃れられないのだとしたら、それはドラマティックであるにしても一種の呪縛となる。本書は1冊の小説に魅入られた人間のストーリーである。
セネガル生まれの作家が書いた1冊の小説がパリで話題になるも、剽窃の疑いを受けて作品は絶版となり、当の作家自体も行方をくらます。数十年後にその作品と出会って魅せられてしまった同じセネガル生まれの若手作家は、当の作家の行方を追って世界各地を移動し、最後にはセネガルの村へと辿り着いていく。
その過程で小説を書くこと・小説を読むことについての思弁がそしてフランスとその旧植民地であるセネガルという2国の関係性を織り交ぜつつ描かれていくことで、次にどう展開するか予想がつかないストーリーと作家の思弁性のバランスが取れた作品として非常に面白く読み進めた。
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これはすごい本。5つ星でも足りない。
人類の奥底にある物語を紡ぐ心を抉り出す小説。
文学として小説を、物語を書くことをベースにしたヨーロッパ風の教養主義的な小説という基盤を持ちながらもエンターテイメントのような側面も保ち読み出したら止まらない。
現代から第一次世界大戦までの広い時間軸を跨いで、地理的にもセネガルだけにとどまらないアフリカ、アムステルダム、パリをはじめとするヨーロッパの各地、さらにはブエノス・アイレスを中心としたラテンアメリカ世界に物語の場面は広がる。手紙や日記、記事の引用、過去の思い出の語り、曖昧になる語り手と聞き手の境界線。小説的テクニックをこれでもかと使いながら無駄に流れない。特に女性たちの語りは緊張感をはらんでまるでその場で自分がそのモノローグを聴いているような没入感を生み出す。そしてアフリカをルーツとしていながらアフリカの地域性に限定されることは全くない世界文学性。2021年ゴンクール賞は伊達じゃない。野崎歓さんの翻訳も解説も良い。
ミステリアスな著者を追うところ(とヨーロッパ風の教養重視的なところ)はサフォンの風の影にも通じるところを感じ、メタファーではない井戸に籠るところは「なぜ小説を書き始めたのか」という会話の中で現れる村上春樹との繋がりもあるのかもしれない。
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物語や取材内容や批判、人は書きたがる。何かを表現する為に書く、或いは描く。一つの作品だけで、作者そのもの全てが理解出来るのか。内容がどれだけ素晴らしくとも、肌の色、人種、性別などの一部分だけでも、誰かの批判の対象になる。女性がこれ程までに精密に男性の荒々しい世界を書くとは、とか男性なのに女性の心の内をこんなにも表現出来るなんて、とか。そういう賞賛のされ方ではなく、ただこちらは書きたいから書いただけなのに、時に世間は作者の思いとは裏腹の賞賛を浴びせる。そういうのがエリマンには許せなかったのか。色々な作品の一部を剽窃するにせよ、あからさまな物は使えないし、それを上手くつなぎ合わせるのも一種の才能ではある。だが、ここまで的外れな賞賛や批判をした人間が次々と亡くなっていると、何だかツタンカーメンの呪いにも匹敵する力を持っていたのでは?と思わせる。しかしそれもまた、私が黒人に持っている無意識な偏見なのかもしれない。黒人だから何かそういう超自然的な力を持っているだろう、という類の。一つの作品を世に出せば、その偏見や誤解を払拭することになるのかもしれない。だが、どうしたって、”黒人なのに”私達と同じレベルの文学作品を書くことが出来るのか、という偏見は根強く残っていたりする。私達が日本語がやたら達者な外国人を見て、どんなにその人が日本に長く住んでいようとお構いなく、”日本語お上手ですね”と褒めてしまうのと一緒のような。それでも、人は書く。ただ書きたいからかもしれないし、注目を浴びたいがためかもしれない。書くこと、文学の迷宮の深みに迷い込んでしまった感覚を抱く一冊。
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若い作家が、昔夢中になった本がある。その本は賛否両論にさらされて、盗作疑惑の中で作家は消息不明、本は回収の上絶版となって読むことができない。
が、ある晩、自分の母くらいの年齢の才能ある女性作家に遭遇し、その女性作家から問題の本を受け取る。
本とその作者には何があったのか。
アフリカをルーツとする作家がヨーロッパでさらされる偏見。エキゾチックな何かばかり期待される。それが苦痛だと書きながらも、本にまつわるエピソードはマジックリアリズムのようになる。矛盾していると思いつつ、主人公と共に作者の所在を追いかけ続けるが、行き着いたは答えは、当たり前の終わりだった。
主人公と共に幻惑されて目が覚めるまでの感じが、すごく面白い。ウンベルトエーコの、昨日島を思い出した。
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ポストコロニアル文学というのでしょうか。アフリカ・セネガル出身の作家たちが、かつての宗主国であるフランスで評価されて称賛され、あるいは嫉妬を受け、顰蹙を買い、自分の居場所、自らのアイデンティティを求めて世界をさすらう物語。・・・と、ひと言では言い表せないほど濃密な構成の作品。
芸術としての剽窃(パクリ)行為がどこまで許されるのか、という問題提起がいろいろな立場から考察されていて、大変考えさせられもしました。
本好きにはたまらない傑作。一方で、作家のスキャンダルとか、文学論とか、文壇の楽屋話的な話には興味がないという人には、あまり刺さらないかも。