歴代誌は諸書の中だけ
2024/04/03 22:28
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投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
主にユダ王国の滅亡とバビロン捕囚を題材にしているが何故か歴代誌はヘブライ語聖書の末尾を飾る諸書の書名としてしか出てこない。一々列王記と歴代誌の異同を取り上げると頁数の少ない冊子では終わってしまうからだろうか?この本の著者は他の一般書でも同じ事をしているようだが。
ある程度の「聖書外史料」を読者に提供している点はいい。
新改訳聖書や新世界訳聖書ではエホヤキン王の年齢を列王記に合わせて「8歳」ではなく「18歳」にするのは8歳でバビロンに捕囚の身(実はネブカドネツァル王の賓客?)になって5年後には5人の子どもの父親になっては、いくら一夫多妻で結婚年齢が早いとしても「まだ早い」と思ったのか「列王記優先説」に従っただけの話なのかは知らない。いくらエレミヤやエゼキエルがヒゼキヤやヨシヤを除いたユダの王家と歴代の王を批判したところで民衆はエホヤキンの帰国と復位でユダの再興を願っていたからこそイエスの系図につながる「ダビデ王の子孫がイスラエルを復活させる」という考えが根強かったのだろう。エホヤキンは「ユダヤ古代誌」にあるように「思いやりのある、神の前に正しい人だった」なのでエレミヤ書44章で読み取れるように実は臣下から忌み嫌われていたヨシヤと違って臣下から敬愛されていたのが実像なのかもしれない。
聖書におけるユダ王国の滅亡とバビロン捕囚の記述は矛盾の塊でマナセ王はヤハウェさんにユダの滅亡に運命づけられてしまった世紀の偶像崇拝者なのか、それとも悔い改めた君主なのかすら分からなくなってしまう。
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古代の事が書かれているので
正直言って
ひとつひとつの事象を
理解したとは言いがたい
ふんわりと
流れを感じる程度の理解で読了
改めて歴史の重層を感じた
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ユダヤ人はなぜ世界中で迫害されるようになったのか、そのことが知りたかった。それは、どのようにユダヤ人になったのか、ということと深く関係している・・と思ったからである。
しかし、本書は「ユダヤ人は、いつユダヤ人になったか」という書名の通りの本であった。バビロニア捕囚がヘブライ語聖書を編み出し、一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教を作り出していった。今に続く歴史、物語である。
世界中どこにいても聖典としてのヘブライ語聖書の内容に従って生きる、そのことが支配的になったキリスト教徒の目には異質に映り、そして次第に迫害されるようになっていく、その行き着いた先がホロコーストであったと、本書は書く。本書の主題ではなかった。
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ヘブライ語聖書(旧約聖書)がどう成立していったのか、なぜそれが必要だったのかというところがたいへんわかりやすく、おもしろい。
十戒の「主の名をみだりに唱えてはならない」というのを馬鹿正直に守りすぎてやがて正確な発音が失われたっていう話もおもしろい。(ヤハウェという読みは言語学的な推測だそうで)
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バビロン捕囚をきっかけに、ユダヤ人、ユダヤ教の出発点と苦難の歴史をとても平易な言葉で大まかにまとめた分かりやすい”教科書”。ディアスポラと、その後のアイデンティティ保持の努力が迫害の要因になっていく過程を説明。民族として、一つの宗教の信徒として、一定の土地に住む者として、というさまざまな括りの中にある「ユダヤ」という枠組み、善悪是非は別として、戦後ようやく「国家」としての土地を確保した現代のイスラエルが、その場所を死守すべく強硬姿勢をとる心情と背景の理解が進む。
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かなり細かくユダヤ人やユダヤ教について書かれている。例えば、○○王や○○朝、その年代など。それらが至るところに書かれていて、何が何か良く分からなくなった。
読むにあたり、そういった名前や時代に拘らなければ良かった。
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・今日、ユダヤ教徒の結婚式に出席すると、新郎(最近は新郎新婦双方のところもあるようです)が右足でガラスのコップを踏みつけて壊すという慣習を目にします(割れたコップの破片が飛び散らないようにアルミホイルなどで巻いた状態のものを踏みつけます)。この慣習の起源はよくわかっていないようですが、一説によればこれは(バビロニアとローマによる二度の)エルサレム神殿の崩壊を、たとえ結婚式という喜びのただなかにいるときであっても忘れないためのものだそうです。この説の真偽はどうあれ、少なくともバビロニア捕囚という出来事が今日までユダヤ教徒のなかで重要な出来事として記憶されていること、そして記憶し続けようとされていることは明らかです。