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2024/01/14 00:04
投稿元:
面白かった。BCLをやっていた頃はモスクワ放送をよく聞いていたが、子供だったし東西冷戦とかよく認識しないままだった。遠くソ連のモスクワから放送されているのを聞くということに意義を見出していたから。この本を読んで当時のその内部の話を知ることができ、とても興味深い読めた。
2024/01/15 21:48
投稿元:
これはロシアに限らずだが、国家間の対立が激化する中で、どんな時でも架け橋になろうとする人たちや人生は存在するのだなと感じられた。当然そういう役割を担うことは、現代よりはるかに難しいわけで、尊敬すべき人生。
2024/01/23 23:25
投稿元:
ソ連からの外国語放送。モスクワ放送で働いた日本人達の過去と現在を追った力作。分かり合えない二国の架け橋となろうと人たちの人生に感動。
ニッポン放送1242Hzより一つ高い1251Hzだったので、モスクワ放送は電波の通る夜に聴いたことがある。独特の抑揚の日本語、日本のマスコミとは異なる視点のソ連の報道。今のロシアよりもっともっとソ連は謎で不気味な国のイメージだったように思う。
そんなモスクワ放送で働いた日本人たち、シベリア抑留の果てであったり共産圏への憧れ、ロシア文学への憧憬など。入り口こそ違えどソ連初の日本語放送に携わった人々の壮大なドラマ。
距離的にも時間的にもスケールの大きなノンフィクション作品。
2024/01/24 18:27
投稿元:
開高健ノンフィクション賞
数十年前、ラジオを聴いていると、よく、モスクワ放送や、中国、北朝鮮のプロパガンダ放送が聴こえてきたものだ。ガーッという、妨害放送もよくあった。そのモスクワ放送に携わっていた人たちの話。
「悪の帝国」とか「おそロシア」とか言われるロシアやソ連だが、そこに住んでいた人にとっては、いい面も悪い面もあったという。ゴルバチョフ登場後、社会が大混乱に落ち入り、物価も信じられないくらい上がり、庶民の生活は本当に苦しくなったそうだ。物事を一面からだけ見るのは危険だということがわかった。
また、アナウンサーをしていた女優の岡田嘉子について調べてみると、普通にはありえない波瀾万丈の人生を歩んでいたことに驚いた。
また、黒田龍之介『ロシア語だけの青春』のミールが出てくるのが嬉しかった。
2024/03/02 12:10
投稿元:
ソ連の対外放送モスクワ放送は、1929年10月ドイツ語から始まり、日本語放送は1942年4月から2017年5月に終了。日本からモスクワを目指し放送に関わった人々の話。国営メディアの制約はあるもののラジオ放送は現地の政治、文化、市井の人々の暮らしをDJ目線から伝えることが比較的できたツールなのかなと思えました。今こそ、市井のロシアの人々が世界から孤立しないよう現地からのさまざまな声が必要に思われ放送の終了が惜しまれます。
2024/03/04 22:06
投稿元:
タイトルの意味がよく分かりました。
なんでロシアのプロパガンダに加担するのかと
批判しかできていなかった自分は、無知で愚かだった。ロシアにちょっとでも興味がある方には、ぜひ、
国営放送や政府系メディアの情報に触れてみていただきたい。
2024/03/25 13:58
投稿元:
ソ連の時代、外国に向けたラジオ放送が国家主導でなされていたという。日本語の放送もあり、それには日本人が関わっていたという。シベリア抑留者もいれば、自ら赴いた者もあり。
MSXがソ連にも持ち込まれていたらしいことをXで知ったが、今の中国かそれ以上に不穏であった観のあるソ連とも、民間レベルでも意外に交流があったということになる。
本書で語られている以上の背景事情は知らないので、そういうことがあったんですなと受け入れるのみ。ただ著者は新聞記者であるようで、その独特な価値観が鼻につくことが幾度かあった。メディアのカルマとして最後の最後にそれを総括しているが、読中にしばしば感じた配慮ないし忖度の印象は拭い得ず、他者に向ける目を自身にも向けるべきなのではないかという、リベラル()に対する一般的な感想を抱かされることもまた禁じ得なかった。
2024/04/03 18:21
投稿元:
モスクワ放送の日本語放送のアナウンサーの生きざまを著者が調査、取材した内容で構成されている。
1970年代に流行したBCL(海外放送聴取)でモスクワ放送を聞いていた方は、興味深い内容と思う。
2024/04/22 12:32
投稿元:
自分がロシアと関わりを持ったころは「モスクワ放送」、極東に足繁く通ってた90年代は「Voice of Russia」、しばらく離れていて、2012年からまた関わり出したら、2014年に「ラジオ・スプートニク」に名称変更。そして今やインターネット放送からサイト情報へ。「声」として聴くことは叶わない。
2012-15年の間だったか、その後か、スプートニクのTさんから取材を受けたこともあったなあ。そうか、モスクワ放送から脈々と繋がる歴史の上に、スプートニクもあるのだなと、本書を読んで改めて思った。
先の戦争中、そして戦後と、世界初の社会主義国家としてのプロパガンダの意は多分に大きかったと思うが、そこで働く現場の人間の思いはどうだったか? 何人もの日本人が業務を担い、日本に向けてニュースを届けてきた。それら人物に焦点を当てて、ロシアの今昔および、報道の変遷、在り方そのものを問い直すかのような内容になっていて、非常に読み応えある。
個人的には、なんと言っても1991年8月のクーデターの様子、その後のソ連崩壊の時代だ。
91年8月、直接「モスクワ放送」を聴いていたわけではないが、「ゴルビー拉致監禁」「クーデター」の報道は職場にいて騒然としたもの。その年の9月からロシア入りを予定していた身としては、ひょっとしたら自分の人生が変わるなと思った瞬間だった。
「初日は国家非常事態委員会の言う通りの放送。2日目に中立になり、3日目は(クーデターに対抗する)民主派の動きを伝える内容に変わっていった」
意外と早く事態は収拾したと記憶していたが、現地も、そして報道機関も冷静に対応してた様子が本書にも綴られている。
ロシア入りは2週間の遅れで実行され、その後1年、ロシアで暮すことに。なので、当時、インターネットも、電話ですらもタイムリーに利用できない時代だったので、12月のゴルバチョフの辞任表明、ソ連崩壊のニュースは、逆に現地に居て、意外と平穏というか、日常が地続きだった印象がある。
サンクトペテルブルク(当時レニングラード)の街に、妙な恰好した宗教団体がドンちゃんやりながら練り歩いていた姿をよく見かけたが、オウム真理教がモスクワ放送の放送枠を買いにきてたりもしたんだと、今さらながらに驚いている。
「1992年10月に教団独特の黄色い服装をした4人の信者が訪れたことを語り、
「当時、日本向けに(毎日)4時間の放送をしていた。訪れた人は、この4時間の枠をすべて欲しいと要求してきた。それに見合った相当の補償はすると迫られた。オウム真理教については良からぬうわさを聞いていたので断ったが金額的には魅力のある話だった」(東京本社版1995年4月18日夕刊)」
その後の経済崩壊、2000年前後の内戦危機を乗り越え、その後、2014年のソチ五輪あたりまでは、国力が増し対外的にも開かれ、豊かで強い国家となっていくロシア。逆に、放送局のほうは方向性を失っていく。
「イデオロギーに縛られることはなく自由になったが、それは同時に、放送を運営する国家からすれば、お金をかけてまで宣伝するものはなくなっていたことを意味する。」
ところが、��、また新たな冷戦というか、東西両陣営の鍔迫り合いが激化する中、国家の意図や真意を、正しく伝える意義は増してきているのではないかと思う。エピローグで著者はこう語る。
「中立より大事なのは独立しているってことだと思うのです。独立して、誰のために伝えるかをいつも考える。報道って市民のためですよね」
大切なことだ。
2024/04/23 13:19
投稿元:
戦後、モスクワ放送から日本に向けてラジオでソ連のことを伝えた日本人らのルポルタージュ。自ら越境した人、捕虜から伝える側に入った人など様々。戦後から冷戦時代のことについては概ね口が重いなあという印象だった。話せないというより話したくないことが多いのではと感じた。最後にロシアに関わった人の思いは、“ロシアを急がせないでほしい もう少し待ってほしい ロシアの人にもいずれ声を上げる人が出てくるから““互いにもっと好かれる国になりますように“など。葛藤も痛いほどにわかるが、今も命が失われていることを考えると受け入れるのは難しいと思った。
2024/08/22 23:23
投稿元:
MOCT(モスト)
「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人
著者:青島顕
発行:2023年11月29日
集英社
初出:毎日新聞2023年1月8日朝刊「迫る 旧ソ連の日本向けラジオ局 社会主義下 届けた『自由』」を基に大幅加筆、再構成
第21回開高健ノンフィクション賞
(記事は約5500字、本書は10万字クラス)
サブタイトルを見ると、共産主義ソビエト連邦のプロパガンダの片棒を担いだ日本人、みたいなニュアンスに取られるかもしれないけれど、メインタイトルのMOCTというのは「架け橋」という意味だそうで、モスクワ放送という国営放送においてではあるが、日本からソ連に何らかの理由で行った人たちが、それぞれの信念に基づき、純粋な気持ちで日本の人たちに声を届ける仕事をした、そんな様子をルポしている。
楽しんでもらいたいということがメインの若者もいれば、ソ連が目指す共産主義のよさを日本に伝えて真剣に日本の民主化を考えていた人もいた。映画監督の夫とともに亡命し、夫を失った岡田嘉子も、その中の一人(アナウンサーとして活躍)。
モスクワ放送は、もう存在しない。しかし、その歴史を通じて、何らかの形でソ連と日本の架け橋になったことは確かである。僕自身も少しは聞いて楽しんだ一人である。イメージとして、決して歴史の〝暗部〟を感じない。
この本を読んで分かったが、現場の人たちは、全力で架け橋になるべく仕事に励んだ。日本語放送については、想像に反してかなり緩やかであることがわかる。しかし、規制はある。その隙間を縫って、アナウンサーたちは伝えたいことを伝えてきた。みんな、職業人の〝本能〟として当たり前のことばかりである。
*********
【第1章】
●西野肇
1973年から10年間、アナウンサーを務めた彼が、どのようにモスクワ放送に入り、どのような番組を作ってきたかを紹介。
1947年、目黒生まれ。法政大学で法律を学ぶ。新宿西口でフォークソング集会に参加したこともあったが、放送研究会の活動に積極的だった。海外旅行経験なし、ソ連に接点も関心もなし、ロシア語も勉強したことなし。テレビ局を目指すがNETで最後の3人に残ったものの、内定をもらったのは札幌のテレビ局。辞退して東京の民放テレビでアルバイトしていた1972年、上司に呼ばれモスクワ放送がスタッフ募集していることを知る。
新宿区のモスクワ放送東京支局で面接、課題としてラジオ番組1本制作を言われた。吉田拓郎に頼んだインタビュー番組で、インタビュアーはフリーアナの宮崎総子。諦めていたら採用通知が来た。その頃のモスクワ放送日本課は、南樺太から連れてこられた日本の民間人、シベリア抑留のあとにソ連国籍を取って現地に残った兵士らが中心になって番組づくりをしていた。その中に、シベリア抑留中に演劇活動をしていてモスクワ放送へ行った滝口新太郎アナウンサーがいて、彼が肝硬変で死亡したため西野が採用になった。
「毎週1回、マルクス・レーニン主義の勉強をやらされる」と言われていたが、西野は「そんなこと全然なかった」という。彼には社会主義社会��宣伝する役割より、西側のテレビの制作手法で日本のリスナーのニーズにあった番組づくりが求められていた。
彼はさまざまなアイデアで「お堅い」モスクワ放送に新風を巻き起こしていく。例えば、音楽をかけている3,4分の間に、6階の日本課から階段をかけおりて1階正面玄関の右側にかかる温度計を見て、音楽が終わるまでに6階に駆け戻って「ただいまのモスクワの気温はマイナス10℃、晴れて・・・」などと放送した。
職場には、日本でそれなりに知られた人がいた。1912年生まれの袴田睦奥男。戦前は日本共産党幹部だった兄の里見とともに活動、治安維持法で服役経験あり。召集され、ソ連の捕虜となって収容所での民主運動で活躍し、元兵士らが元将校をつるしあげる事態にも。
日本でのリスナーには、作家の佐藤優がいた。1975年、高一の夏にソ連・東欧旅行し、モスクワ放送を訪ねた。日本課のレービン課長に会い、西野にインタビューを受けて番組出演した。西野は街で見かける若者とファッションがまるで違い、ジーンズをはいていてお尻のポケットにはミッキーマウスのアップリケがついていた。1975年のソ連は豊かな社会だと実感したが、外交官になって86年に行った時は貧しくなっていた、とも言う。
1983年、35歳の西野は帰国を決意。最初は2年契約だったが、更新を重ねて10年になり、その間にロシア人と結婚し、長女も誕生していた。居心地はよかったが、10年以上残っている人の姿を見ると、ソ連に同化しているように感じた。このままいると、日本的なものを失ってしまう気がした。
【第2章】
●日向寺(ひゅうがじ)康雄
1987年、モスクワ放送入り、30年にわたってアナウンサーを務める。
1958年、横浜生まれ。高校時代からソ連や東欧に興味を持ち、留学できないか各大使館に手紙を出すと、ソ連が親切に対応してくれた。早稲田の一文に入り、ロシア文学を専攻。しかし、アイドルに憧れ、ベトナムから来た少女をアイドル歌手にしようとマネージャーになってスタ誕に出場させて決勝で優勝させる。国立モスクワ・パントマイム劇場に興味を持つ。1982年に東京で開かれたソ連結成60周年記念の論文コンクールでそれに絡めて書いて入賞、モスクワ招待を受ける。モスクワ放送のインタビューをうけ、入局の話が持ち上がった。東京特派員が彼をテストした。しかし、その後は「空きができるまで」と何年も待たされた。
早稲田を9年かけて卒業し、その後も2年あまり新聞配達をしながら生活して、やっとモスクワでの初めての社会人生活に。ロシア語のニュース原稿を日本語に翻訳する仕事を与えられた。「ペレストロイカのこと肯定的に訳すように」と言われる。アナウンサーを兼務。
1991年8月19日、ゴルバチョフが保守派から軟禁される。「ゴルバチョフ大統領が健康上の理由で職務できず・・・」の日本語のニュースが流れた。日向寺は一時帰国中で、日本でそれを聞いた。ニュースを読んでいたのは、日向寺の後輩アナ兼翻訳員の山口英樹だった。
1991年12月下旬、アルバイトの日本人女性が飛び込んできて、日本課のレービン課長がニュース差し替えを指示したという。手にはタス通信の速報。「ソ連がその存在を停止する」。歴史の��換点となるアナウンスをしたのは日向寺だった。
1993年10月4日、ロシア連邦のエリツィン大統領が対立する議会強硬派が立てこもる最高会議ビルに戦車部隊を派遣して砲撃を命じた。レービン課長が不在だったため、日向寺はどういう論調の原稿を読んでいいかわからなかったが、真ん中ぐらいの論調のを読んだ。後日、局幹部が来て「ロシア人として感謝する」と称えた。
その直後、モスクワ放送は「ロシアの声」と名を変えた。経済的にも最悪のころで、やがて98年にはロシア国家が債務超過に。月給は一気に3分の1に。日本円で3万円ぐらい。しかし、ここでやめたら10年が無駄になってしまう。
21世紀に入ってプーチン時代、経済が安定。2014年のソチ冬季五輪を前に「ロシアの声」とノーボスチ通信社が合併し、「ラジオ・スプートニク」になり、インターネットだけの放送に。2017年5月にはネット放送も停止、6月に日向寺はモスクワを離れて日本に。
【第3章】
●モスクワ放送(ソ連の対外放送)はいつできた?
1929年10月、ドイツ語放送からスタート。フランス語、英語、チェコ語、ハンガリー語、イタリア語、スペイン語、スウェーデン語・・・日本語放送は第二次大戦中の1942年4月14日から始まった。
初代アナウンサーは「ムヘンシャン」と名乗る男性で、かつて九州炭鉱労働者だったと伝えられた。翻訳員は野坂参三の妻・龍(りょう)で、スタッフにはほかに日本の社会主義運動の先駆者・片山潜の長女・片山やすもいた。彼女はバレリーナとして米国ほかで勉強し、父親の看病でイタリアからモスクワに来て、看取った後に大学の日本語教員に。大学と共に疎開し、43年に大学と一緒にモスクワに戻り、放送のスタッフにもなった。
アナウンサーとして働いていた岡田嘉子のソ連大使館発行の広報誌への寄稿には、ムヒンシャン(岡田嘉子はこう表記)は仮名で、ハエというロシア語の「ムハ」にさんをつけてムヒンシャンと呼んだらしく、しゃれた、面白い人柄であったことがわかります、と書かれている。自分が入社して間もなく急死したとしている。
1996~2001年に「ロシアの声」で翻訳兼アナをした、法政大学講師の島田顕(あきら)によると、2008年にロシア国立社会政治史文書館のデータベースで「ムヘンシャン」の名を発見。翌年、モスクワで他の資料にもあたったところ、福岡県筑豊地方の彦山村(現・添田町)出身の「緒方重臣」という人物(1896年生まれ)だと特定できた。鉱山労働者を経て、遠洋航路の船員に。やがてウラジオストクで船をおりて亡命。借金がかさんでいた模様。大学で学び、卒業後に印刷所の植字工や出版社の校正係を経て、モスクワ放送へ。九州なまりのアナウンスに引け目を感じていた。1948年4月にアナウンサーは岡田嘉子に交代。
●岡田嘉子アナの誕生
俳優の岡田嘉子は恋人だった演出家・杉本良吉と樺太の国境を越えてソ連へ。演出家メイエルホリドに憧れてのことだった。ソ連はスターリンの大粛正時代、逮捕されて岡田は自由剥奪10年、杉本は長時間眠りを与えられないままスパイだと自白させられて銃殺(ソ連側は1989年病死と発表)。岡田は1947年にモスクワで釈放され、48年4月にモスクワ放送日本課のアナウンサーに。
メイエルホリドも逮捕され、死亡前に「芸術家は失敗する権利を持っている。なぜなら人間は失敗する権利を持っているからだ」の言葉を残す。
岡田嘉子はその後、ソ連国籍のまま日本とソ連を行き来し、劇団民藝の舞台に出たり、「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」(1976)に出たりしている。1992年2月10日、89歳で死亡、モスクワ市内のドンスコイ修道院で葬儀。
●モスクワ放送のその後
モスクワ放送は、モスクワからの放送に続いて、1946年12月3日に極東の中心地ハバロフスクからの日本語放送が始まった。サハリンで日本語新聞「新生命」の編集をしていた木村慶一、東(あずま)一夫ほか、NHK豊原放送局(現・サハリン州)のアナウンサーだった石坂幸子も加わる。即戦力メンバー。
「おたより放送」を展開。シベリアなどに抑留されて収容所にいる人たちの消息を1日4回、各5~7分流した。「ラジオ通信用紙」を各地の収容所に発送して、情報を集めた。氏名や住所などを書いてもらい、通信文としては「元気です、ご安心ください、近く帰国する予定になっています、そちらも御無事で皆様によろしく」とつける。未帰還者家族の不安を除くため、日本人スタッフ側から提案、ソ連側も日本国民の怒りを買っていることを承知していたため、放送に期待した。読むのは1分間に5名、1日4回、放送は5~7分。単純計算で1日100~140人分しか放送できず、通信用紙がたまってしまった。
日本で放送に強く反応した人がいた。大阪府北河内郡門真町(現・門真市)の会社員・坂井仁一郎で、放送された抑留者の氏名と留守家族の住所などを聞き取り、留守家族に葉書で伝える活動をしてきた。700通あまり送り、半数以上は宛先不明で戻ってきた。感謝の手紙も約180通もらった。
【第4章】
●清田(せいた)彰アナウンサー
1948~1992年まで、40年以上働き、日本語放送のアナや翻訳員として最も長期間活動した人物。ハバロフスク支局に勤務していた1940年代後半から夜間中学に通って勉強し、モスクワ転勤後も通い続けて卒業、モスクワ大学経済学部にも合格して卒業。
1992年、岡山生まれ。旧制山口高等商業学校(現・山口大経済学部)2年のときに学徒出陣、満州へ。官舎の背後にソ連の戦車が現れ、爆弾を抱いて戦車の前に待ち伏せ。800メートル先で戦車はピタリと止まり、戦闘停止の命令を伝えた。部隊長はピストル自殺、清田ら将校と兵士はソ連の軍門にくだる。2年半の抑留生活。新聞の切れ端のロシア語を翻訳して単語を覚えていった。
政治部将校に見いだされ、ハバロフスクの放送局で欲しがっていると声をかけられた。木村、石坂らの人材不足を補う役割。高学歴で語学に堪能な若い人。戦前の俳優、滝口新太郎もいた。医師も。清田は、英語はもちろん中国語も話せ、ロシア語のレベルもなかなか。発音は抜群だった。
1951年か52年ごろに、モスクワに転勤。1954年、岡山県倉敷市の実家に住んでいた弟の英夫(故人)がラジオを聞いていて、声が兄に似ていると手紙を書き、文通が始まった。1957年の国交回復後に岸信介首相が帰国させようとしたが、どうやら本人は現地で結婚し、望んでいなかったようだ。望郷の念はあったが、帰国までは。
彼は「東洋の魔女」と「宇宙遊泳」という言葉を生み出した。
1961年9月に日本の女子バレー日紡貝塚がソ連で試合をして、モスクワのチームを破った際、ソ連の新聞が「魔法使いの娘たち」などと伝え、それをモスクワ放送で「東洋の魔女」と訳して伝えた。
また、1965年3月にボストーク2号からレオーノフ中佐が船外活動をしたニュースで「宇宙遊泳」という訳語を作った。ただし、彼のオリジナルかどうかは確認できていない(日本の新聞でも使われていた)。
映画にも出演。1992年、70歳でモスクワ放送を去り、2011年に死去。
【第5章】
●川越史郎(出版社「プログレス」)
1925年9月18日、宮崎県生まれ。旧制第七高等学校(現・鹿児島大)在学中に工場に動員、1945年3月には学徒出陣で満州とソ連との国境に配置、終戦。ソ連軍に捕まり貨車でハバロフスクを過ぎ、コムソモリスク・ナ・アムーレからトラックで松林にあるバラックの収容所へ。シベリア杉を切り倒す過酷な労働。鉄道建設のため。曲間、重労働、飢餓の三重苦に堪える。痩せ細り室内作業に。
ロシア語を少しずつ勉強したおかげで黒パン工場勤務となる。ソ連発行の日本語による「日本新聞」で。日本の労働運動や日共の先駆者、特高警察に虐殺された小林多喜二のことなどを学ぶ。1947年春、ソ連中佐からソ連に残って日本民主化のために仕事をしないかと誘われる。
サハリンの新聞社だと言われたが、配属はハバロフスクの日本向け放送だった。同僚の赤沼弘(後に「ソビエト婦人」日本語版編集長)や、後に加わった3歳上の清田彰と出会う。赤沼の証言では、面接試験があったとのことで、食い違っている。
仕事は、赤沼が訳したものを読むアナウンサーだったようである。フルシチョフ政権により、スターリンの大量虐殺を知り、気持ちが大きく揺らいだ。何のためにソ連に残ったのか。その後、出版社「外国語図書出版社(後の「プログレス」)に移る。ソ連の図書を数十カ国に翻訳して出版し、発送。「ソビエトグラフ」日本語版の編集責任者を長く務める。生活は一般市民よりかなりよく、1970年当時、アパートは45平方メートル、月収は500ルーブル、妻ワーリャと合わせて600ルーブル(24万円)超。ソ連の国産車を所有。
1991年12月にソ連崩壊。今までの人生は一切無駄だったのかという気持ちに。自分の青春、人生のすべてをささげてきたのに。そう岩上安身のインタビューに答えている。ワーリャと別れてウラジオストクに1人で赴任して、NHKが解説した支局の手伝い。
2004年に本書の著者が私費でアパートを訪ねた。年を取ったが美しい妻もいた(復縁していた)。日本に帰らないのかと聞くと、最近は考えていないと歯切れが悪かった。少し後で理由が判明。93年から約4年間、NHKウラジオストク支局の助手をしたが、心臓の病気がみつかって東京で手術。弁護士に依頼して日本国籍回復を試みたが、日本での年金受給資格がないことから断念し、97年10月に長男がいるカナダのトロント郊外に移住した。いいところだったが、70歳を過ぎて渡った新しい土地で友人もおらず、言葉も通じない。1ヶ月でモスクワに戻った。結果的には奥さんとよりを戻しに帰ってきたのではないか、と著者は考える。
月に2600ルーブルの年金で暮らすのがいかに厳しいかということも言っていた。
2005年に再び訪ね、電話をしたが、あんたはいつも突然来るといって切られた。それからまもなく死亡したらしい。
【第6章】
●岡田敬介(2013年87歳で死去)
1970年代、モスクワ放送にリクエストなど出すと、モスクワ放送からイラスト付きのカードや絵はがき、番組表とともに、直筆の丁寧な手紙が返信されてきた。時候の挨拶から始まり、リクエストのお礼が綴られ、末尾は「日本課」と記されている。「ロシアの声」に変わってからも、40年間変わらなかった。一人一人にこれを書いていたのが岡田敬介だった(岡田嘉子と並ぶ「もう一人の岡田さん」)。
手紙に返事とは地味に映るかもしれないが、そうではなく、日本課に届く手紙を全て開封する権限を持っていた。日本の新聞も検閲し、切り取ってから日本人職員に見せていた。そういう立場の人だった。
ソ連時代、指導者であり、一種の特権階級である共産党員だった。1973年の統計で、ロシア共和国なら人口の7.1%しか党員・党員候補になれていない。日本出身者には相当にハードルが高かったはず。長年の功績が認められた清田彰アナですら党員にはなっていない。
1925年、兵庫県尼崎市生まれ、東京育ち、自由学園で学ぶ。44年に学徒出陣で朝鮮半島へ。部下を率いて自主的にソ連に移る。社会主義ソ連に憧れていた。戦後はカムチャツカ半島の漁業団(コルホーズ)で働き、結婚。1960年代後半にモスクワに移り、68年からモスクワ放送勤務。「ロシアの声」時代とあわせて40年以上(死亡半年前まで勤務)。同僚の日向寺も「捕虜ではなく自主的に来た」と聞いていた。
1989-92までアナウンサーを務めた半田亜希子は「今まで誰にも言わなかったけれど」と前置きしながら身の上を明かされた(内容は死亡後に「正論」201310月号にも掲載)。
学徒出陣し朝鮮半島で敗戦、8月23日にソ連軍の捕虜になったが、その後、脱走。また捕まり、2週間後に放免。その後、カムチャツカ半島のコルホーズに応募して缶詰工場で働き、工場長の秘書と結婚、1959年に妻の親類を頼ってレニングラードへ行き、その後、モスクワで住宅公団に職を得る。1966年にソ連共産党員となり、その年にモスクワ放送へ転職。1983年に大韓航空機墜落事件が起きたときに非を認めようとしなかったソ連の体制に疑問を持つようになり、面従腹背の形で働いていた。
ただ、上記の経歴には多くの疑問も残る。
2013年7月、ロシア人としてモスクワで死亡。
●中川公夫(1975年、24歳でハバロフスク支局へ)
早大でロシア文学、大学院在学中に教授紹介で飜訳員になった〝本格派〟。妻は、学部時代は同じだったが、就職。結婚、長男誕生。モスクワ放送への就職チャンス。2年契約。
イデオロギーは気にしていなかったが、当時の国鉄で国労北海道本部委員長を務めたことのある父親から「ひも付きになるなよ」と言われる。
ハバロフスク局スタッフは10人程度。課長はソ連人、アナウンサーは朝倉勝江はじめ3人、翻訳員は3人(吉田明男、有江逸郎、中山雅之)。中川は当初、単身で赴任。中川だけ50年生まれ、他の3人は20年代生まれの先��。有江には可愛がられた。ロシア人夫婦2人を合わせたぐらいの収入を1人で得る待遇だった。家族への仕送りは3万2000円。1975年の日本の大卒初任給は8万9300円だった。
8ヶ月たった1976年4月からは家族3人で暮らすように。コルホーズ議長一家、後にハバロフスク市の幹部になっていく一家が、同じアパートの階に住んでいたが、市幹部になる男はときどき「鍵を忘れた」と言って中川の家に上がり込み、室内を見て回ってからベランダで自分の家に。手慣れた様子。後に分かったが、外国人の監視をしていたのだった。
胃潰瘍の前段階と診断され、契約の2年で帰国。ソ連との付き合いは続き、通訳や翻訳の仕事をし、ハバロフスクでのビジネス話も舞い込んだが、1988年7月に合弁会社設立のためにハバロフスクを訪れた時、ロシアの友人に誘われて深夜にアムール川に入ったまま帰らぬ人に。37歳。遺体が上がった大河のほとりには小さな黒い石碑が。
●有江逸郎
1949年にハバロフスク支局で働くようになった。同じ頃に入ったのは、中山雅之、のちにその妻となる朝倉勝江ら。南樺太の住民で、ソ連に占領されたが残留した「サハリン組」だった。日本引き揚げ船に乗るチャンスを何らかの理由で逃した。
1924年、南樺太生まれ、東京農大進学、帰省中の45年に敗戦。ソ連軍により石鹸工場の分析室長に起用、家族が帰国したあとも残留。49年にハバロフスクに行き、運転手などをした後、放送局で翻訳員。
ソ連は旧南樺太で暮らす人々を自国民として扱ったが、有江、中山はソ連国籍を取得せず、パスポートのない無国籍者だった。移動の自由もなく、監視の対象だった。いずれ帰るつもりだったのかもしれない。では、なぜ残留したのか?サハリンで働くうちに社会主義こそ平等な社会をつくれると思うようになった、などと発言している。
1993年、肺がんを患い、余命を知って5月に帰国。8月1日に札幌の病院で死亡、享年69。
【第7章】
●東一夫
第3章に出てきたハバロフスク支局にいた東一夫は、非常に素晴らしヰロシア語話者で、『露日辞典』の編集作業も行っていたが、途中で日本へ帰国した。どのようにソ連に入り、なぜ帰国したのか。レベルの高いロシア語はどのように習得したのか。謎だらけだった。
著者はNHKテレビ「ロシア語会話」で勉強し、講師をしていた黒田龍之介の著書から、「代々木のM」というロシア語教室を知る。そこは小規模ながら、有名な文学や語学の研究者などが基礎を学び、通訳や大使館らも輩出。ロシアに赴任する自衛官も学びに来る。平和や世界を意味する「ミール」が名前。1958年に創設したのが、翻訳者の東一夫だった。著者も2年間、そこで厳しい授業を受けることになる。東一夫は2005年に死去し、経営を引き継いでいたのは妻の多喜子だった。
法政大の島田顕著講師が調べて書いた論文によると、東一夫は1940年から満州の関東軍や南樺太の部隊で軍務に服していたが、不満で1941年6月に南樺太から国境を渡った。最初は1940年2月に越境したが失敗し、2回目に成功。岡田嘉子らと同様にスパイ容疑を掛けられたが43年に釈放、国営タス通信のハバロフスク支局の報告者・調査員、ソ連がサハリンの残留日本人向けに発行していた新聞「新生命」編集部、モスクワ放送ハバロフスク支局を経て、47年7月にモスクワ転勤、日本語課で働いた。49年に結核で療養生活、57年3月に帰国嘆願書を出して出国した。そして、彼の本名が「シミズ」であり、東はソ連に渡った後で名乗ったものだとも島田は調べ上げた。
著者は、外務省作成「第15次ソ連引揚」の報告書で、偶然に新たな事実を発見する。1958年1月引き揚げ船に関する報告書だった。
「今次帰国者中には、昭和十六年徴兵検査を受け、入隊が決定された後、樺太からソ連に越境入国した清水長一(東長一とも云う)が入っているが、同人の入ソの理由は当時の日本軍国主義忌避にある由(厚生省調べ)で、入ソ後はハバロフスクのタス通信に関係、その後モスクワで日ソ辞典の編集(約五万語)に従事、継いでハバロフスク及び豊原のタス通信に関係、更にモスクワに帰り法眼(ほうげん)参事官(当時)訪ソの際、日本帰国を嘆願、今回帰国に至ったもので、帰国後は井上満氏を頼っていきたいと述べていた」
なお、井上満はロシア文学者である。
多喜子は高齢を理由にロシア語教室を廃業し、高齢者の施設に入っているようだった。手紙を出し、転送されることを期待し、これらの内容を同封して送った。返事はない。ある人から東一夫の墓に行く。すると、墓誌に刻まれた内容から、多喜子も2022年に死亡していたことが分かった。これで真相は不明に。
ある日、連絡が来た。東夫妻の息子だった。外国にいたが、母親が死んで遺品整理に帰国すると、著者からの郵便物を見つけたために連絡をくれた。息子も父親がソ連に渡った詳しいことは知らない。子供のころまでは清水を名乗っていたが東に変わった、などを聞いた。そして、出版の許可ももらえた。
【第8章】
●帰国後の西野肇
アカ呼ばわりで就職差別を受けたのでは、という著者の心配を一笑に付した西野。民放テレビ局の知人が声をかけてくれて紹介してくれた番組制作会社で、35歳にしてADからの下積みスタートを始めた。ディレクターは20代。73年当時と違い、フィルムをつなぐのではなく卓を叩いて編集。
しかし、帰国の2年後に始まったペレストロイカの中で、日本でもソ連に関する関心が高く、西野は頼られ、多くの番組をつくっていく。得意の音楽関連も。プロデューサーとして「世界の車窓から」なども担当。とくにNHK-BSで企画制作した「肋骨レコード」の番組が話題になった。スターリンからフルシチョフにかけてのわずかな時期に、ソ連では肋骨レコードが作られ、やがて姿を消した。78回転のソノシートには人間の骨のようなものが写っている。1950-60年代にジャズやロックンロールが公認されていななか、使用済みのレントゲン写真を切り取ったソノシートに記録したのが肋骨レコード。見つかれば逮捕。
それを特集する番組だった。まず、モスクワ放送での放送で募集して、持っている人を探した。レービン課長が協力してくれた。見つかって、番組ができ、成功した。
●帰国後の日向寺康雄
「ラジオ・スプートニク」が放送終了後、一時帰国した日向寺は、両親の介護のためモスクワに戻らずそのまま日本で暮らした。21年に父親を看取った。
大学で非常勤講師��していたが、4年ぶりにモスクワに向かうことにした。2022年2月下旬だった。数年前に友人と購入したモスクワ郊外のマンションの状況を見るなどの計画。2月25日の日本航空を予約していたが、前日にロシアがウクライナに侵攻して飛ばず。翌日のアエロフロートでモスクワへ。「おしゃれで、それでいて庶民的」というモスクワを愛していた。
街は、表立った混乱や緊張感は感じられない。しかし、華やかさがない。久し振りに顔を合わせた友人や同僚達らは、みんな押し黙っている。
「スプートニク」の日本課は、ロシア人スタッフが運営し、ウェブ上に文字のニュースを流していた。2週間で帰国。
「ソ連、ロシアは人間的で情があった。経済、政治ではたくさんの人に幻滅と失望を与えてしまったが、文化には心に残るものがあった。モスクワに夢を求めた自分の選択を間違っていたとは、不思議に思えないところがある」
【番外】
●川村かおる(川村カオリ)
1971年、日本人の父とロシア人の母との間に、モスクワで生まれた。日本に来てロック歌手になった。JAL「アイル」のコマーシャルにも登場。
彼女はオールナイト・ニッポンの土曜深夜2部を1989年4月から2年間担当したが、ほぼ1年たった時にモスクワからの生放送を行った。当時、父親が勤めていた商社の事務所から、電話での出演。一度、切れたが再びつないで放送した。
日頃から放送で「ゴルバチョフへの手紙」というコーナーをつくり、リスナーからゴルバチョフ宛への手紙を書いてもらい、放送で読み上げ、ソ連大使館に届けていた。ゴルバチョフがペレストロイカで国を建て直し、日本との友好関係を発展させると信じていた。
熱意は大使館や日本の政治家を動かし、ゴルバチョフ大統領が来日した1991年4月には、東京での晩餐会に海部首相から招待され、ゴルバチョフ大統領と直接話をしている。「エリツィンをあまり好きではありません。いつまでもあなたを支持します」。「まだがんばるつもりだ」。
川村かおるが生まれた1971年当時に父親が勤めていた会社は、商社「川上貿易」で、モスクワ事務所の所長は杉原千畝だった。
川上は2009年7月に38歳で死亡した。乳がんだった。
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