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啓蒙思想の考えから、聖書を様式史として研究するアプローチに対して、聖書考古学では、考古学の発掘などのアプローチによって聖書の史実を検証しようとしている。この分野の本は、訳本ばかりだったので、日本人による新書で発刊されてよかったと思う。
本書の内容は、1.2章で、一般的な聖書の解説、考古学の手法の基本的な説明と、オリエントの地独特の考古学についてまとめている。3~6章で、アブラハム、カナン征服、王国からバビロン捕囚、キリスト教へ(死海文書まで)をまとめている。7章では、今後の考古学、今後の聖書学についてまとめている。
3~7章は、聖書のあらすじの説明や聖書からの引用が多いとは思ったが、入門書の特性上仕方がないと思う。しかし、自分のように慣れていても、地図、時代(歴史などの年表)は、別紙の方がわかりやすいと思った。歴史と場所が複雑さが、旧約時代を理解する難しいところだと思うので。
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聖書には、事実とかけ離れた(事実とは思われない)記述がかなりある。そういった虚構を
崩す姿勢は、過去を明らかにする好奇心でもあるし、また、神の真意に近づく信仰でもある。「聖書学」というのは、こうした目的から始まった学問だ。その研究の手段として、主に考古学と史料批判がある。
現在の聖書考古学は、聖書のなかの歴史的事実を明らかにすることが、主な目的となっている。信仰は別件だ。
考古学は「モノ」を取り扱う。それによって、客観的な事実が明らかになるのだ。しかし、「モノ」は何も語らない。「モノ」が語らない部分、言い換えれば「ヒト」が語る部分は、史料で明らかにするのである。
考古学の調査で、聖書の脚色が次々と明らかになっている。特に、出エジプトが今のところ根拠を持たないものであることには、驚いた。
久々に、聖書を紐解いてみよう。
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聖書(特に旧約)って、どこまでホントなんだろう、という素朴な疑問について、遺跡や発掘物から見ていく本です。新書なので深く掘り下げてはいませんが、だいたいどこまでが伝説でどこからが史実にあるのかがつかめます。
また、古来から、国が作る歴史書は、自らの統治の正当性を証明するためのバイアスがかかるものですが、旧約聖書も例外ではなさそうです。そのあたりの考察は面白かったですね。
もう少し掘り下げて知りたいな、と思いました。
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・パレスチナにおいて土器にヘブライ語アルファベットが刻まれるのは紀元前9世紀くらいから。
・捕囚にしたバビロニア人がもはや存在しない一方でユダヤ民族が存在するのが不思議。
・考古学の限界:①なにかが出てこなかったとしても、それがなかったことの証明にはならない。②証拠が出てきてもその解釈が幾通りもある。
・「カルデア」は紀元前2千年紀の文献には登場しない。創世記の「カルデアのウル」という表現は後代からみている。
・らくだについて:C・グリグソンによる最新のラクダに関する研究がある。
・ペリシテ人がパレスチナに登場するのは族長時代の数百年後であるから、この点でも時代錯誤。
・ベテルの遺跡からは、族長時代において厚さ3・5メートルもある城壁が発見されている。ベテルは2012年から慶応の杉本教授による発掘が始まっている。
・ラムセス2世の建てた「ペル・ラメセス」と聖書の「ラメセス」が同じだという説があるが、この町は長らく「タニス」と同定されていた。しかし近年の研究により、テル・エル・ダヴァとカンティールという遺跡がぺる・ラメセスであった可能性が高いことが分かった。そこはアバリスという名前で呼ばれ、ヒクソスの王朝の都であった。
・ネボ山からはカナンを一望できない。
・Associates for Bilblical researchという、聖書擁護派の学者団体がある。
・ハツォルはイスラエル最大のテル型遺跡である。
・ペリシテ人の王の名「アキシュ」はエーゲ海地方の起源であるとみてよい。
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1.長谷川修一『聖書考古学 遺跡が語る史実』中公新書、読了。人部科学は文献精査が基本となるが自ずから限界がある。本書は、現地調査に従事する研究者の手による考古学的知見と旧約聖書の記述内容を照らし合わせる一冊。「その時、何が起きたのか」。信仰の有無を問わず知見を深めるきっかけになる。
2.長谷川修一『聖書考古学』中公新書。聖書の記述はそのままの形で受け入れがたいものが多い。著者は遺構調査から、記述と歴史の実際の描き出す。アブラハムは実在したか、イスラエルはカナンを征服したか等々……。加えて、エピソードのみならず聖書学・考古学・古代近東学に目配りをきかせた一冊である。
3.長谷川修一『聖書考古学』中公新書。まえがきが素晴らしい。「本書に書いた事柄は本当の信仰を強めこそすれ、弱めることはない」。記述が荒唐無稽だから信じずるに足らずがナンセンスであると同時に、著者の挑戦を「背教的」と断ずるのも勇み足。記述が「歴史的にもすべて真実」が本当の信仰だろうか。
4.長谷川修一『聖書考古学』中公新書。「今後の考古学発展のためにも、古代イスラエル史研究の発展のためにも、そして聖書記述のより一層深い理解のためにも、中東に平和が訪れることを願ってやまない」。http://www.chuko.co.jp/shinsho/2013/02/102205.html
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聖書で書かれていることを遺跡の発掘で検証するという聖書考古学の解説書。旧約聖書の記述がすべて史実とは考えていなかったが、モーゼの存在も出エジプトの事実も全く証拠が無いとの指摘には驚いた。数々のエピソードで、旧約聖書の記述を考古学的に証明することの困難性は良く理解できた。未発掘の遺跡が多数残っているが中東の政治情勢がその調査を困難にしているらしい。発掘調査が進めば、ユダヤ人、ユダヤ教が周辺諸部族に対して相対化され、パレスチナ問題解決に役立つのではと妄想した。
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遺跡から得られる資料の解読に膨大な時間とある程度の基礎知識は不可欠と予測できるが、それにしても気の遠くなるような時間を遡っての研究だ.聖書の記述は全てが歴史的に確証できるものではないことは理解していたが、この分野でこのようなしっかりした考察がなされていることに驚嘆した.
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20130605~0626
著者がいう、旧約聖書は日本の「古事記」「日本書紀」と似ている、というのには納得。
ユダヤ教徒の歴史と王国時代の正当性を裏付けるための“時代錯誤”や出エジプト、モーゼの十戒などの記述があるのだということか?
とても興味深く読めたけど、旧約聖書時代の地名と現在の中近東・イランあたりまでの地名と国境線がリンクしないです(^^ゞ
白地図に両方の地名と現在の国境線が書かれていたら便利だろうなと思いました。
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旧約聖書に書かれているエピソードは歴史的な事実なのか?
文献による考古学研究には限界があり、発掘調査によってその史実を確認する。
学術的とは批判的であること。※否定的とは異なる
「聖書は無謬である」とか「神からの言葉である」という先入観を取り払って読む、ということである。(P61)
もともと旧約聖書の内容をほとんど知らなかったが、聖書自体に興味を持ついいきっかけになった。
旧約聖書を読んでからまた読み直したい。
◆旧約聖書の構成
・創世記(原初史)
→天地創造、アダムとイブ、ノアの方舟、
・族長時代(父祖たちの時代)
→アブラハム、イサク、ヤコブ
・土地取得時代
→出エジプト
・イスラエル王国時代
→巨人ゴリアト対ダビデ、ソロモン、南北朝時代
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キリスト・ユダヤ・イスラム教に精通とまでは言わないまでも、もう少し知識があればもっと楽しめた本ではないかな。
内容のほとんどが事実の断言ではなく可能性への言及に終始、そこにもしかすると物足りなさを覚える人もいるかもしれないが、著者の学者としての良心の表れかと思う(もしかすると政治・宗教が絡む題材だけにきな臭いものもあるかもしれないが、わざわざ冒頭で断りを入れているし)。
何せ卑弥呼の時代よりずっと昔の話、当たり前と言えば当たり前の話だが。
しかしユダヤという民族の生命力は凄い、改めて感じる次第。
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正直、旧約聖書に相当親しんでいないと内容を追うことが困難な内容になっている。地名や、事件でピンとこないと、理解の外側を言葉が流れるだけになってしまう。新書という限られた空間の中でこれだけの分量のことを語ろうとするとやもうえないことかもしれないが、なにか別のやり方があったのではないかと思わざるを得ない。少なくとも読み物としてはつまらない。
例えば、比較的著名な都市や事象を取り上げて、その考古学的発見や見地を掘り下げて語ることで聖書考古学という学問にアプローチする、という手段もあったのではないだろうか。その学問を無理に概観することが、理解を促進するとは思えないのだが。
どこどこの都市が、どこどこの遺跡が聖書におけるこれこれに同定されている、と書かれても、そうですか、、、という感想しか出てこない。
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旧約のアブラハム以降のダイジェストと、そこでの出来事が遺跡や他の文献に
どうリンクしているかを解説する。
長い歴史を通じて多くの人に読まれてきた聖書の記述、
そのどこからどこまでが史実なのか、やはり興味が尽きないところ。
他の民族が滅ぶなかで、ユダヤ人のみが同一性を保ち得たとのことだが、
おそらく旧約の存在がユダヤ人を常につくり出してきたのだろう。
ユダヤの民族が生み出した約束の書、旧約。
それがいつの間にか信仰を通じてユダヤを作り出す書物へと変化したことが想像された。
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本書を読むにあたっては、ある程度、聖書に関する知識がないと戸惑うかもしれない。
聖書に書かれていることが100%正しいと盲信している人は別として、遺物や遺構といった”物的証拠”からわかることは、「そういうことがあったかもしれないし、なかったかもしれない」ということだ。
信仰は信仰として、学問的見地から判明した事実は受け入れる度量が求められるだろう。
それにしても、紀元前の大昔からその時の為政者の都合がいいように歴史が捏造されていたのには、笑った。
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面白かった。しかし。これは知識が相当必要。おかげで何度図書館へ通ったことか。旧約聖書の時代、その時代のあの地域のこと。知らなくて当然だろうけれど、この本を読んでいるとそこの知識が必要になる。
そういう複合的な読書だけれど、個人的には面白かった。
ヨーロッパには何度も行っているけれど、中近東は遠いんだよねぇ…。
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特定の宗教に依存しているわけではないので、聖書も断片的にしか読んだことがないのだけれど、遺跡や史料を頼りに考古学的なアプローチで旧約聖書を捉えようとしている。当時の統治形態や集団形成を図る上で都合のいいように物語が作られることが多いのが常であるが、考古学的な観点で見ると別の解釈が得られる好例のように思う。イスラエルの歴史をある程度見ながら、イエスの物語を見ると、キリスト教がなぜ必要とされたかも見えてくるかもしれない。