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曰く、料理は面倒なもの。つべこべ不満を並べ立てず、やりなさい。
そういうものだと聞いていたし、信じていたし、諦めていた。
料理に熟達するとはつまり、面倒をいかに縮減できるかにかかっているのだと。
言い換えれば、どうにもならない面倒からどれだけ目を背けられるかに過ぎないのだと。
その事実を飲み込んだら、では料理する意欲が起きるだろうか?
世にあまた優れた既製品があり、得てして極めて安価に手に入るのに、ほかならぬ私が手ずから料理する積極的な理由を、面倒と諦めることが与えてくれるだろうか?
「感動」が面倒を凌ぐ経験を覚えることで、自炊への道が開けると本書は伝える。
億劫がる習慣を反復する歳月のうちに手がしなやかさを失い、萎縮しきっているひとにとって、面倒の壁ははるかに高く、感動に至ることは無理難題に思われがちだ。では外食します、とすごすごと軽い腰を上げる——何かをしない言い訳に飛びつく人間のフットワークはほんとうに驚異的に軽い——のを制止して、著者の三浦はしずかに右手でトースターを示す。空いた左手から渡される食パンはなんの変哲もないものだ。「私はトーストの魅力の決め手はにおいだと考えます。トーストすることによって、そのいいにおいを蒸気とともに立ち上がらせたい」(p.18)。においを十全に引き出すための指針を簡潔に伝え、あとはどうぞ、とトースターのまえに勧められる。温度設定する指は不安げに揺れる。もう少し面倒臭い指示が加えられたら絶対やめてやる、いまだって不測の自体が起きたらやめるつもりだ、と密かに息を詰めているが、数分ののちに焼き上がるトーストから香り立つにおいを想像し、早々に投げ出すには辛うじて至らない。どんな風味に出合えるのだろう、と期待している。
トースターでパンを焼く「だけ」と思われる方も多いに違いないが、面倒の重みに屈することを習い性としている者にはじゅうぶんに神経を尖らせる試練である。
こちらからの遅々とした入力を反映してパンの加熱が始まった。ここまできたら安心できるわけでもなく、爆発火災が起きるのではとか、少なくともくろぐろ焦げるのではとか、憂慮を際限なく重ねてトースターのまわりを不安げに歩き回る。やっぱり失敗したから自分は外食するしかないんだ、という使い古しの嘆きが喉元まで迫り上がってくる。だから、なんということもなく、否、想像を絶するほど、豊かなにおいがあたりに広がって万事が済んだとき受ける衝撃はひとしおだ。これが感動である。
感動は止まらない。どうしたら最大化できるかな、と頭のなかがにわかに賑やかになる。そういえば未開封のジャムがあったな、あれを載せたらおいしいかもしれない、とか考える。しかし周到に支度するのもじれったいのでそこそこに切り上げ、ほかほかのトーストに齧りつくことにする。その感動たるや、筆舌は追いつかない。
言葉に落とし込む冷静さを持てずに歓喜に足をばたつかせる「自炊者」駆け出しに、三浦は親しく寄り添う。ね、においって面白いよね、そもそもそれを感じ取る人間の感覚器官、とくに鼻は面白くてさ……と教える口調に、完全ではないものの少しずつ聞く耳を持てている自分を駆け出しは発見する。ほかでもない私が料理する理由が、感動すること、面白がることをキーワードとして徐々に輪郭を持ちはじめる。億劫や萎縮が氷解してゆくのを三浦は見てとりながら、じゃ今度は失敗しにくい蒸し料理をやってみましょうか、次は調味料をこの機会に見直してみましょうかと、じつに的確なペースで駆け出しを導く。26週、すなわち半年かけて進められるレクチャーは、面倒を縮減する手ほどきでもあるが、なによりも、駆け出しの胸に確かに萌した感動の燠火を絶やさないことに眼目が置かれている。トースターの前でさえ震える駆け出し、つまり私たちが待っていた本はこれだった。
本書に出合ってから毎日厨房に立っている。
既製品をよく口にして知っているものや、なんとなく知識として憶えているものを、あえてわが手で皿の上に再現し、食らうことがほんとうに楽しい。加えて、ひとと飲みに行くのでなければ家で滅多に酒を飲まない習慣だったのに、ワイン、カクテル、ビール、ジン、ラム、ブランデー、純米酒、焼酎、ハブ酒、甘酒、ウイスキーなどなどと毎日酒を飲み比べるようになった。また、八百屋や朝市をよく訪れ、店のひとのおすすめを聞く面白さ(あと、目利きしなくて済む気楽さ)を学びつつある。本書の巻末や、同じ三浦による料理本批評『食べたくなる本』に掲載されている、食に関する本をつぎつぎに収集し、読み込むことも始めた。なかでも有元葉子の流儀への入れ込みっぷりは我ながら苦笑を禁じ得ないが、しかし見倣うことはいまだにやめられない。それもこれも三浦の著作との出合いがなければ起こり得なかったことだ。
三浦の勤める青山学院大の方角に深々お辞儀をするとともに、いつか先生のお宅でご飯食べたいな、と願いをつぶやくことが日課になってしまった。その日が来るまでは自分でこつこつ料理を手がけるとしよう。魚を捌きたいな。
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丁寧な自炊生活だけを追求する本ではありません。サイゼやマックなどのジャンクフードも愛する著者が両者を「ギアチェンジ」できる豊かさを解いてくれます。また、ロベール・ブレッソンを引用して、風味のモンタージュ論を解いたり(凄く分かりやすい!)、映画批評家でもある著者ならではの少し変わった食本。
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実用書というよりは、理屈っぽい人向け料理本、というか料理を楽しみたい理屈っぽい人向けかなあ。しかしさすがにあちこちよくできてるとは思う。