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・橋口侯之介「和本への招待 日本人と書物の歴史」(角川文庫)を読んだ。かういふ内容の書は他にもあるのだらうけれど、これは分かり易くまとめてある。著者は古書店主である。その経験から書かれてゐる。「神保町に来れば三百年、四百年前の本が、何食わぬ顔で展示販売されている。」(「まえが き」4頁)そんな中に現在もゐる人であるから、「書物を一人だけの所有物で終わらせるのではなく、『お預かりもの』 として次の人に託することがつねに考えられてきた。しかも、それが千年以上続いてきた。長い時間残すこと、すなわち伝えるということにこそ日本人の書物に対する観念の基礎があると」(同前)いふのである。実際、神保町は言ふまでもなく、それ以外でも和本を扱ふ古書店は多い。それは日本人のかういふ「書物に対する観念の基礎」から来る。そこから冒頭の一文「日本人は本が好きな国民だと思う。」(同3頁)や巻末の「そう、やはり日本人は本好きなのである。」(263頁)が出てくる。私はこんなことを考へたことはなかつた。古本屋だから和本を扱ふのは当然だと思つてゐた。 しかしどうもさうではないらしい。「きちんとした国際比較調査がないので、具体的な数値であらわせないのは残念だが、古本屋の店先でも、各地の図書館でもとにかく蔵書数が多い。実際につくられた本の数の問題ではなく、それを残してきた一連の行動がそうさせたのだ。」(「あとがき」265頁)文脈からして、和本に限定しての記述だと思ふ。それ ほど多くの和本が残つてゐるらしい。インターネット上には和本が多くある。安ければ数百円で買へる。インターネットと残存和本の多さがありがたい。かくして私の手に渡つた和本も、「お預かりもの」としてまた次の誰かに渡るのかもしれない。こんなことを考へる私にも「書物に対する観念の基礎」がすり込まれてゐるのであらう。
・その和本を筆者は〈本〉と〈草〉に分ける。第五章は「揺れ動く〈本〉と〈草〉」と題され、その最初は「正規の〈本〉と大衆の〈草〉」となつてゐる。〈本〉〈草〉は他でも言はれてゐたはずである。本は物の本である。ごく大雑把 に言へば難しい書物、今でいふ専門書の類である。著者は「本格的な書物」(208頁)といふ。草は草紙、仮名草子や赤本、黄表紙等の大衆読み物である。これらは近世初期に「唱導文学だった各種の語り物も文字化されて出版されるようになった。軍記物やお伽草子、浄瑠璃などである。」(207頁)といふ流れの中にある。個人的には所謂語り物やもつと前の絵巻が書物の歴史の中に出てくることに違和感を覚える。絵巻は巻物、巻子本である。さういふ形を本といふことに違和感を感じるのだが、それでも現在は古本屋も扱つてゐる。ところが唱導文学は字の如く「仏法を説いて衆生を導く語りもの」(wiki)文学である。その文字化以降を〈草〉といふのならば分かるが、ここでは「形のない中世の〈草〉」(218頁)といふ。「〈草〉の書物にとって中世は『暗黒時代』だったやうに見受けられる。しかし、それは 紙に書かれて綴じられたもの=書物という概念にとらわれた見方である。」(225頁)私はこの概念に囚はれてゐるら しい。唱導文学以前もまた〈書物〉であつた。「今風にコンテンツ」(226頁)である。それが近世初期に演劇や〈草〉となる。近世以前は文字通り語りが中心で書物はその後だといふのである。現在、文学史でこれをどう扱つてゐる のか知らないが、語りと書物を「コンテンツ」といふのは私には新鮮な考へであつた。ここにも「お預かりもの」といふ 考へがあるのかと思ふ。やはり、日本人は本好きなのであつた。