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「母の初恋」・・・母の初恋の思いが娘を通して、母娘の思いとして伝えられるという実際あったらちょっと怖い話だった。佐山の妻である時枝の心情がどのようなものだったのだろう。想像がつかないが、すごい人だと思った。
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とても読みやすいのでさらーと読める。内容も、飽きさせずかといって恐れさせる程でもなく。と、考えて驚くべきはその文章能力だ。無駄な言葉がほとんどすべてこそぎ落とされているゆえにここまで快適な読書を読者に約束するのだろう。改めて文豪。むむむ・・・
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ひと昔前の、特に田舎では、結婚とは「恋」とかそういう生易しいものではないのだと思った。
女の人の清楚さも、哀しさも強さも、いろんな女性像がある。
綺麗な文体♪
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これは好き 大好き
『夜のさいころ』もいいけど『ゆくひと』もいいし
『夫唱婦和』もすごく良かったなあ
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異性への愛、家族愛の短編集。作者の描く女性像、そして文体が美しい。「夜のさいころ」「夫唱婦和」が良かった。12.12.23
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[※旧新潮文庫版による]
完成度の高い珠玉のリアリズム短編集。
「母の初恋」
今は盛りを過ぎたシナリオ作家の佐山は、過去に民子と婚約していたが、寝取られてしまい破局していた。その民子と再会したがやがて彼女は死に、娘の雪子の面倒をみていた。雪子は結婚するが、失踪してしまう……雪子の最も親しい女学校友達は、彼女から「初恋は、結婚によっても、なにによっても、滅びない」ことを自分の母親から教わっていたと話していた。繊細な感情の糸。
「女の夢」
医者で欠点もない久原は36歳まで独身であったが、27まで独身であった美しい令嬢の治子と結婚する。治子は過去に、自分を慕って自殺してしまった従兄の思い出が傷になって独身を貫いてきたらしい。その傷が彼女を美しくみせてもいた。
「黒子(ほくろ)の手紙」
黒子を触る癖を夫に咎められたり(暴力的にまで)、過去にも母親に指摘されたりしていた。フェティッシュな手紙形式の短編。
「夜のさいころ」
サイコロをふる癖がある踊り子のみち子。夜ひとりで、楽屋でひとりで一心にサイコロをふっているのは病的でもあるかもしれない。「伊豆の踊子」的な慕情の繊細な表現。
「燕の童女」
新婚旅行の帰りの船で乗り合わせた幼い外国人の少女を通して、二人の背景を含め全体が表現される。こういうことは、普段のデートにもみられるような、周囲の出来事への何らかの仮託のようで、身に覚えがあるだろう。首筋の産毛など、フェティッシュな視点も。
「夫唱婦和」
こういう短編をみると、川端康成は人間を描ける作家だと端的にわかる。佐川とのやりとりのあとの桂子や延子の描写[p134]などは、少し大袈裟かもしれないが、さらっと書いている。教師の牧山が助手つかっていて、家に出入りしていた佐川が、家にいた桂子と遊んで?いたとみえたが、実は牧山の妻の延子に惹かれていたという構図は康成らしい。
「子供一人」
この短編にかぎらず、足の指の間をこすって、「黒い垢が出た」[p141]というような不快な描写が点在するのが生々しさを強めているか。子供を産むまでの女性の変化を極端に描く。
「ゆくひと」
浅間山の噴火の中で、佐紀雄が過去の何らかの想念にも揺らぎながら(泣いたりもする)、弘子が「よく知らない人のところ」へとついでいくことへの複雑な気持ちが表現される不思議さ。
「年の暮」
劇作家の泉太(既婚)が自分の作品の愛読者の千代子という女性を密かに慕う。自身の作品が殺人などを含む陰鬱なものなのに、可憐な美しい千代子が愛読しているということへの複雑なおもい、呵責?やがて、千代子は結婚してしまうが、夫は戦争で戦死し、泉太への便りも途絶えてしまった。
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大した変哲もないように訥々と語られていながら、シンプルな言葉づかいが言いようのない味わい深さを秘めていて、これぞ川端文学という感じがします。私は、川端作品のかなしさとか官能性そのものよりも、それらが押し包まれ、もれ出すようなかたちで語られているということが好きです。
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母の初恋
昔の恋人の死後、その娘を引き取って嫁に送る男の話。
なんだかドロドロした展開になるのかなーと思ったのですが、読後感は非常に爽やかな「愛」に満ちた物語です。
夜のさいころ
純真無垢な少女の魅力。優しく見守る青年。
川端氏お得意の展開。あっという間に終わってしまうのですが、綺麗にまとまっています
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ほくろ以外だいたい読みました。ほくろは、無理だった。
表題作の「母の初恋」が、よかった。女の子が川端さんが得意そうな感じ。ほんのり切なくきれいな話。
「夜のさいころ」も好き。サイコロの一の目は結局どういういうことなのか気になる。。
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女の夢
川端康成はどうして
こんなに女の人のことがわかるんだろう。
不思議だ。
悲劇のヒロインという言葉があるように
悲劇に酔えるのは女の特権だと思う。
私はなんてかわいそうなんだ、
と悲しんでいると同時に女は
そこに美しい夢をみているのだ。
つまらない現実とひきかえにするように
悲劇は輝きだす。
自分を思って自殺した男のことを思うことで
そこに美しい夢を見ようとする女と
そういう女の心に気づかないで
現実を見させることで救おうとし
女の心を永遠に失った男の話である。
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単行本は1941年。
なんとなく小粒な小品集と思い川端マラソンの最後のほうにしてしまったが、意外にいい作品が多い。
とはいえ川端のヘキ(性癖!)や生涯が見渡せるようになったからこその味わいなので、初心者向けではなさそう。
川端を読む中で俄かに親近感を憶えてしまう小谷野敦がamazonレビューにて、
「決定的に川端が好きになった一冊
2012年4月4日に日本でレビュー済み
昭和戦時中とも言うべき時代に書かれたものだが、いくらかの通俗味を帯びつつ、川端の最もいい部分が出た短編集である。甘からず辛からず、川端文学の中核をなすともいえる作品集である。」
と。わかっとるやんけ同意っすよ、と背中をバシバシ叩きたい。
■「母の初恋」1940★
佐山、民子と恋愛。
民子、別の男と結婚。
佐山、11歳若い時枝と結婚。
6年前、ボロボロになった民子が訪ねてきて、自分にもしものことがあったら娘を頼むと。
佐山と時枝、民子の遺児、16歳の雪子を引き取る。
雪子、若杉と結婚。
雪子、失踪。
友人に聞いたら、初恋は結婚によっても滅びないと母が言っていた、と雪子が言っていた、と。
……すごい。すごすぎて笑ってしまった。
佐山=川端、民子=初代、時枝=秀子夫人、雪子=初代の娘。
実人生を題材にした小説ばっかり書いてきた川端だが、ここで究極のドリーム小説を書いた。
若き日に自分を捨てた初代が、作家として成功しつつあった8年前に会いに来た。
そのとき娘がいると言っていたが、その娘を引き取ったら……というドリーム。
その娘が「ほどよい年齢」に成長したときに自分を愛してくれたら……というドリーム。
初代への愛惜と、あるかもしれなった未来を仮構して、執筆現在時点の自分を満足させる……というドリーム。
あの女と同じ顔の、より若い娘が自分を愛してくれたなら……というドリーム。
最高にキショやばい。
■「女の夢」1940
久原健一は35歳で結婚。治子は27歳。
婚期を逃したのは、以前治子への恋のために死んだ従兄があった、その事件のためにその後婚約話のあった片桐から破談されたからだ。
と治子から告白される。
新婚旅行の夜、治子は従兄の夢を見た。
……女性の側からの、男性への批評的視点。
■「ほくろの手紙」1940
わたくしには子供のころから首のほくろを触る癖がありましたが、それがみじめに見えるからやめろとあなたは蹴ったり殴ったりしました。
いまは実家に帰って、母に訊きましたが、子供の頃、父母がいとおしそうに癖の話をするから、続いていたのではないかと思いました。愛する人達を思うために触っていたのではないでしょうか。
……「愛する人達」という総題につながる一文がある。
この小説を「いいお話」とする価値観が、80年前にはあったのだろうか。
■「夜のさいころ」1940★
旅興行。
水田は隣の部屋のさいころの音が気になる。
みち子が真夜中に、五つも転がし続けているのだった。
年かさの仙子という女優から、母親譲りのさいころだと聞く。
水田は海へ投げ捨てた。みち子は別段怒りもせず。
一か月後、化粧道具を買ってやろうとすると、さいころを買ってくれという。
占ってくれよ、一が出たら、恋愛しようか。
あるとき花岡という男優が、みち子は幼い頃にいたずらされてしやしませんか、と話してくる。
別の日、五つすべて一が出る。
……「伊豆の踊子」裏バージョンとして称揚したい作品。
視点人物である水田が、とにかくいけ好かない奴。
川端の自分モチーフ小説ってほぼ全部そうだが、でも本作では、見下しながらも恋着する相手が奇蹟を起こすシーンが、小説として素晴らしい。
脈絡のない連想だが、吉村萬壱「ハリガネムシ」の視点人物と思い出した。
■「燕の童女」1940★
牧田と章子が新婚旅行で乗った列車。
幼いアイノコの少女が気になる章子。
……さわやかな読後感。
倦怠期に突入した夫婦でも、こういう瞬間の思い出を共有しているからこそ、続く。
新婚旅行で「額縁に入れておきたいシーン」が得られたのは、幸せなことだ。
■「夫唱婦和」1940頃★
牧山の靴下は延子がはかせてやる。
延子がそうするのは父母の習慣を真似てのことだ。
記憶力がないという牧山が、僕のぶんも憶えてくれおいてくれよ、老後の楽しみになるから、と。
延子の母が死んだ。延子の母が、夫の妾の子の桂子を養っていたが、桂子を延子らが引き取ることになった。数歳しか違わない。
牧山の助手の佐川が桂子を愛しているように思われる、が、実は佐川が思いを寄せているのは延子で、桂子がかばっているのだとわかる。
はじめて姉妹のような気がした。
……これもまた女性側の批評、にして、川端が若い娘を引き取ったことを、秀子夫人視点からも「よきこと」と思える、というエグい一面もある。
wikipediaの脚注に「この年(1931)に大宅壮一の妻・愛子が死去したため、大宅の家にお手伝いに来ていた青森県八戸市出身の少女・嶋守よしえ(小学校5年生)を川端宅で引き取ることとなり、よしえのきちんとした身許保証人になるため夫婦の籍を入れたとされる[174]。のちに、嶋守よしえの娘・敏恵も、川端家のお手伝いとなる[175]。」と。
その後1943年に政子を引き取って「天授の子」の題材にしたりしているが、うーん……濁った眼の読者には、美談というより、やはり妻=抱く用の女と、清純な鑑賞用の女にして今後抱くかもしれない女を、並べて置いておきたい、という欲望に思えてならない。
■「子供一人」1940
元田は、卒業前の芳子が妊娠したので、結婚した。
年若いので出産も危ういかと思われたが、なんとか。
ところが当初の健気さはなくなり、図太くなる。
人格の変化に驚く。
出産。
……もしも if あのまま初代との関係が進んだにしてもつまらなかっただろう、と自分に言い聞かせている?
■「ゆくひと」1940★
少年の佐紀雄は、別荘にて、浅間山の爆発を喜ぶ。
父母から子供っぽいと言われている。
弘子(親戚のお姉さん?)と話す。
泣く。どうして知らない人のところへお嫁に行くの? と。
……いきなり現れた「濁りのない」少年期の話。
三島由紀夫が「きはめてささ���かな、小さな水晶の耳飾りのやうな小品」と評しているらしいが、まさに。
これは好きな短編だ。
■「年の暮」1940
加島泉太は、妻の網子、娘の泰子と暮らしていた。
泰子は一度嫁入りしたが、離縁するかもしれず、嫁入り先から戻ってきている。
網子は、あなたは未練がましいと言われている。
正月に作家の色紙を売っているが、10年続けて毎年買ってくれるのが、読者の千代子。
文通し、陰鬱な戯曲ばかり書いているので、もう読まないでくれと言ったり、結婚すると報告されて悔いたり、している。
千代子の夫は戦死した。
……戦後、読者だった少女たちを思う、といった小説があったと思うが、アヤシイ……。
読者=ファンを喰っていたのでは。
弟子にして代筆させて食い物にして。
また読者の若い娘を千代子と名付けているからには、初恋の相手の初代を、作中で若返らせて、その若さを追体験することを、現夫人に強いている、かのような。
子のできない夫人へのハラスメントを込めているのかも。
なんでも川端を茶化したい僻目かもしれない。愛ゆえにである。
◆解説 高見順
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女心の繊細な表現が大好きです。少しわからない部分もありますが。時代の違いでしょうか。いや一歩先を行っているような。
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全体に淡いなまめかしさが美しさを保ってある、そしてエロティックがはみ出す。それが川端康成の魅力だと思う。
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夜のさいころ
ラジオ深夜便文芸館の朗読で楽しみました
静かな夜に聞くのにあってますね
その時代に入り込んだ感じになれます
川端康成はあんまり読んだことないですが
この物語は特別美化された感じもなく
ゆっくり自然な感じがいいですね
さいころの目が揃うのはファンタジーかな(^^)
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1941(昭和16)年刊。川端42歳の頃に雑誌『婦人公論』に連載された、9編から成る連作短編小説集。
川端康成については、高校生の頃新潮文庫のを11冊買って何となく読み、成人してからは読み返すこともなかったので、かなり久しぶりである。さすがに日本初のノーベル文学賞作家というだけあって、廃版の多い新潮文庫でも、現在もラインナップは残り版を重ねているようだ。
新感覚派の旗を担ったこともある川端の文章は、時折常態とは異なる新鮮な語の選択を見せ、それはよくスパイスのきいた文学的なものであり、大きな起伏も、骨太なストーリーらしきものも欠きつつさりげなく編み出されるこの小説ストリームは、やはり純粋芸術ならではと思われるとともに、日本画的な立ち現れとして作品は辛うじて成立しており、その薄氷の感じは音楽で言うと「現代音楽」に親しいジャンルに属している。
もっとも川端の文体は極限まで彫琢を進めた泉鏡花のそれとは異なり、とても読みやすい。この世代の作家にしてはずいぶんと改行も多めだが、もちろん、今日の退嬰的な「全改行」のエンタメ小説とは違って、その改行の必然性を読み解くことが可能である。また、人物同士の会話も多めで、その会話の妙味がそのまま小説の繊細な感じと一体化してもいる。
このスイスイと読むことの出来るストリームは、何となく小さく穏やかな川の流れのように感じられる。強靱な物語がストリームを突き進む谷崎潤一郎や武田泰淳のような作家とは対照的だし、ゾラやモーパッサンなどに影響された作家たち、所謂自然主義作家や永井荷風などとも異なる。
川端のストリームは鮮烈なイメージに結び付くわけでもなく、やはり日本画的な淡泊さ・かそけさのなかに流れゆく。読者にとっても、それは強いイメージとなって記憶には残らないが、しずかな川岸を歩いたような感触だけが刻まれるかもしれない。
西洋近代小説のモデルと比較すると川端の小説は「未完成」なような、「閉じられない形象」であるが、その閉じられなさが、現実の生のあいだに揺らぎゆく意識の仄めきを顕しているようでもあり、やはりそのぎりぎりのかすかさが、「現代芸術」の危うさを想起させるのである。
全く個人的なことであるが、最後の「年の暮」に登場する戯曲家が抱えている無意識として、
「自作を誰にも読まれたくないという矛盾」(P.213)
が指摘される。この箇所が、私も作曲などをこっそりやっていて作物をネットなんぞに公開してはいるものの、確かに「誰にも聴かれたくないような」「外部としての巷のコンテクストには預けたくないような」思いを常々抱いており、まさにこれを「その通り」と実感し、そんな気持ちを川端康成が巧く書いてくれた、と嬉しくなったのである。
もしかしたら川端自身にも、自作についてこんなおもいがあったのだろうか。