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24件
おこだでませんように
著者 くすのきしげのり(作) , 石井聖岳(絵)
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怒られてばかりいる子の心の中を描いた絵本。
「ぼくは、いつでもおこられる。家でも学校でも…。休み時間に、友だちがなかまはずれにするからなぐったら、先生にしかられた」いつも誤解されて損ばかりしている少年が、七夕さまの短冊に書いた願いごとは…?
※この作品はカラーです。
おこだでませんように
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おこだでませんように
2009/05/12 17:17
親と先生の読み聞かせの課題図書に!
16人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:のはら そらこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
わたしたち大人はときどき、子ども時代を思い出し、あー、あのころは悩み事もなくて幸せだったなあ、などと、考えなしにつぶやいてしまう。でも、本当にそうだろうか? たとえばわたしの場合、家族に愛されとても幸せな子ども時代をすごした。でも、苦い思い出もしっかり残っている。お手伝いしていてうっかり卵を床に落っことして割ったとき、たまたま母親が急いでいて機嫌が悪かったために、ものすごくおこられた。学校で授業中、鼻の先になにかついている気がして、一生懸命目を寄せて見ていたら、先生の叱責の声が飛んできて、びくっと縮み上がった。
親や先生の絶対権力の前で、子どもはか弱い存在だ。一方的におこられて反論できず、気持ちをぐっとこらえるしかないときがたくさんある。そんなとき、わかってもらえない悔しさといらだち、悲しみとあきらめ――そんないくつもの感情が混ざり合った、ぐちゃぐちゃな気持ちになる。
この絵本の表紙絵の男の子「ぼく」の横顔は、不条理な目にあった子どもが理解してくれない大人に顔を背けて精一杯の反抗をしている顔だ。そう、この絵本は、子どもの正直な気持ちを、「ぼく」の素直な言葉でストレートに伝えている。
「ぼく」は、たぶん、大人からおりこうさんと思われていない。だから、
ぼくは いつも おこられる。
いえでも がっこうでも おこられる。
「ぼく」がおこられることをするのは、そのときそのときで、ちゃんと理由がある。でも、おかあちゃも、先生も、理由を聞かずに「ぼく」をおこってばっかりいる。「ぼく」は、おこられたくない。ほめられたい。
むかし子どもだったわたしには、「ぼく」の気持ちがひりひりと痛いほどわかる、と同時に、「ぼく」をおこる母親と先生の気持ちも身にしみてわかる。今、親であるわたしは、子どもの事情や気持ちを考えずに一方的にしかりつけてしまった経験は数え切れないほどあるし、これからだって同じ失敗をくりかえさない自信もない。子どもには申し訳ないけれど、冷静に先入観なしで判断し、感情をコントロールするのは、大人にとってもたいへん難しい。
さて絵本では、親や先生と「ぼく」の気持ちが通じ合い、「ぼく」にこの上なくすばらしいラストが訪れる。読んでいたわたしは、心から安堵し、嬉しくなり、あたたかで幸せな気持ちになった。
親だって、そしてきっと先生だって、おこりたくない、ほめたいのだ。この絵本のようになりたいと思っても、現実にはそうもうまくはいかないもの。でも、心から願っている。だから、親や先生が読み聞かせして、その気持ちを子どもに伝えてほしい。
第55回青少年読書感想文全国コンクールの小学校低学年の課題図書。でも、低学年に限らず、子どものいる家庭とクラスで、読み聞かせしてほしい。親と先生のの読み聞かせの課題図書だ。
おこだでませんように
2009/08/17 14:35
<定型ないい子>からはみだしちゃう子どもたちの、なみだ。
15人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:wildflower - この投稿者のレビュー一覧を見る
『おこだでませんように』を最初に見たのは、近所の書店の
課題図書のコーナーだった。
第55回青少年読書感想文全国コンクールの小学校低学年の
課題図書である。
小学生低学年が息子にいる自分としては
若干気にならないではなかったが
最初は素通りしてしまった。
おこだでませんように、というタイトルに
涙を精いっぱいにこらえて横を向いた、男の子の顔を見た瞬間
これは……まずい、と思ってしまったからだ。
やがて別の機会を得て、結局読んだのだけれども
主人公の男の子と、まわりのおとな(母と、先生と)の
かかわりは
あんまりにも象徴的で身につまされてしまう。
著者のくすのきしげのりさんは小学校の先生のご経験もあり
子どもの心理や教育に携わっておられながら
創作されている方である。
絵を描かれている、石井聖岳(きよたか)さんは、静岡の方で
学童保育などでの子ども達の世話の経験もおありだとか。
素朴なタッチだけれど、僕の目線、顔つきなどのリアルさは
ここから来ていたのかと思う。小学館刊。
****
いつでもぼくが最後、いつでもぼくだけ怒られる。
そういう彼は、何も作品には書いていないけれど
高度な発達障害なのかもしれない、と思ったのだ。
そうでなかったとしても
きっととても内面は繊細な質なのだ。
そして知能も決して愚かではない。
なぜなら
( )の中に書かれている、彼自身のこころのことばは
まったくまともな感性だからなのだ。
ただ、「うまく立ち回る」ことがとても苦手なのだろう。
雰囲気や、相手の意図を汲んで動くことも。
クラスメイトにいじわるを言われて、反論ついでに手も足も
出してしまったとき、やっぱりおきまりのように彼は怒られる。
****
「また、やったの!」
(ふたりが さきに いじわる いうたんや)
「ぼうりょくは、いけません!!」
(でも『なかまに いれてやらへん』っていわれたのは、
ぼくの こころが もらった パンチやで)
けれど ぼくが なにか いうと、
せんせいは もっと おこるに きまってる。
だから、 ぼくは だまって よこを むく。
よこを むいて、なにも いわずに おこられる。
****
ごく普通にきめられたルールを守れなかったり
おとなしくできなかったり、
よけいなことをよけいなタイミングで
いったりしたり、してしまったり
そういうのが、いちいち「おこられる」原因になっていく。
もっともそういうのは、普通しつけとして正されていくのは
珍しいことなんかじゃない。
なぜ、とかどうして、とか言わずに柔順になっていくことで
小学校に象徴されるようなルールで動く社会は出来上がっている。
僕、はそのなかであっちこっちではみ出ちゃっているのだ。
いけないことは、いけないことになっているから
いけないのです。
……そういうことじゃないしに
僕の言い分を淡々と受けとめてあげられる存在が
もしもいたとしたら
少し、状況は変わっていくんじゃないんだろうかと思うのだ。
「なぜ、いけないのですか。」
「だって、こっちがやる前に、むこうだってやっているじゃないですか。」
「できなかったのには、りゆうがあったのです。」
……そんなようなことを、ふつうの大人
(それも自分に向かってカンカンに怒っている相手だ)に
冷静に説明できる小学1年なんて、いない。
だけど、そこにはちゃんと言い分があるのだ。
多分、想像するに
こういうタイプの子は、きちんと受けとめてあげてから
どうしてルールがあって、それを守らないとどうなのか、という
多くの場合には、不文律になっているようなことを
きちんとことばとして、かみ砕いて与えてあげたなら
あるとき、きちんと腑に落ちて
その良さをもっともっと発揮できるんじゃないだろうか。
ふつうに振る舞うこと、おりこうさんでいること
(とくに公共の場では)
そういうことに、昔以上に今、いっそう厳格に
求められているような気がしている。
子どもだからしかたないよね、ということで許される場は
ちいさなちいさな頃にだって、案外少ないのだ。
けれど、一方
立場を変えて、母としてこの作品を読むと
もうこんな場面では怒るほかはない母と
怒るほかはない先生の立場もすごく解ってしまう。
僕のような”問題児”はよく指導する対象であって
特別扱いしては、周りの親にしめしがつかない、というのでも
ないのだろうけれど、先生としては指導する場面なのだろう
特別支援のお手伝いをしている母友に聞けば
そうした立場の問題についてはいくらだって教えてくれる。
*****
そして、ひとごとなんかじゃない、親の課題。
迷惑をかけまい、と公共の場で
自分の子を必要以上に折檻しているお父さんやお母さんに
この夏休みはあっちこっちで見かけた。
前は、ただただ、なんて親だろうと不快だったけれど
今はちょっと違う。
余裕がよほど、ないのだろうと思う。
やんちゃで動き回り、騒ぎまくって
なにかしらを弄りたくてしかたない
そういう年頃のふつうの子を持っていても
はらはらとし、いらいらとしては
手を上げ声を荒げてしまう気持ちは
自分の子に対しても残念ながら憶えがある。
あんまり解りたくないけれども、分かる部類なのだ。
まして、育てにくい気質
(神経が細やかだったり、特性として発達障害をもっていたり)
だとしたら
悪くすると周囲の母親からも浮き、そのこども友だちからも
浮いてしまう。
1、2歳からそうやって孤立しがちになってしまう。
翻ってこの作品に話を戻せば
お母さんも、先生もごく常識的に描かれていて
思い余って折檻したり、といったシーンは出てこない。
でも
それでも、繰り返し怒られることと、自分の本心を伝えきれない哀しさで
どうにもこうにも、やりきれない僕なのだ。
平和な結末を運んできた、たった1枚の短冊のことば。
この僕の話の裏には
きっと何倍もの怒られているこどもたちと、
怒っている大人たちがいるんだろうと思うと、
なんだかもう、切なくて胸がいっぱいになってしまうのだ。
おこだでませんように
2009/07/22 22:36
1枚の短冊から生まれた物語
9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:wildcat - この投稿者のレビュー一覧を見る
小さな頃のセルフ・イメージは、結構大きくなるまで影響するものだ。
自分は自分のままでいいという核となる気持ちを小さい頃に持てたら、
自分のことが好きだと自然に思えたら、
大人になって課題に直面してもきっと折れない。
今ここでこうしてこれを書いている私の核は、
自分が本を読んだら数秒で寝るのに、なぜか娘には読み聞かせをした母と
自分はビジネス書しか読まないのに、なぜか娘には
こぶとりじいさんの鬼のお祭りを歌って読み聞かせした父と
私の読書量と作文を褒めてくれた先生方がくれたものだ。
できることとできないことの差が極端で、
運動神経の悪さと手先の不器用さは天下一品だった。
周りも自分も、できることじゃなくてできなことに目がいった。
親は私の成績よりも友達ができないことを心配していたっけ。
どうして自分はみんなと同じように
普通のことが普通にできないんだろうと思った。
私は、彼が短冊に書いたのとは違う言葉を書いただろう。
でも、彼の気持ちは、なんだかよくわかるんだ。
彼の「ま」は鏡文字だし、ら行がだ行になっていたりするけれど、
だからこそ、涙をこらえたその声がそのまんま文字になっている気がした。
正直で、不器用だから、親や先生にアピールして泣いたりとか、
理路整然と反論したり、なんて、できない。
自分なりの理由は言葉にならずに、心の中にたまっていくんだ。
ほんのちょっとしたことでも積み重なっていくと、
どうせまた・・・という気持ちになる。
「ぼくは「悪い子」なんやろか」は、
もう、存在そのものを賭けた問いなんだ。
ぼくはいていいんだろうか、必要とされているんだろうか、
と聞かれていると思っていい。
存在を認めて欲しいんだ。
この願い事は、前向きに何かを求める願い事ではなくて、
悲しい現実を避けたいという願い事である。
なになにできますようにじゃなくて、なになにじゃありませんように。
悲しい悲しい、心の叫び。
小さな小さな、だけど、彼にとっては、人生をかけた願い事だ。
願い事が先生やお母さんに届いてよかった。
ここで届かなかったらと思うと怖い。
抱きしめてもらえる時期にしっかり抱きとめてもらえたかは大切なこと。
大人になったら、自分で自分を抱きしめて、
自分の中の子どもを助け出さなければならなくなるから。
それでも遅すぎることはないけれど、
どうか、子どもが自尊感情を持てるようにしてほしい。
著者は、短冊の十文字の、一字、一字にこめられた思いから、
この物語を生み出した。
子どものSOSを受け止めた人だ。
著者が短冊を見て感じたものは、物語を通して、確かに伝わってくる。
これは、子ども達から両親や先生へのメッセージだ。
「大人の課題」図書、なんだろうな。