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10件
日本辺境論(新潮新書)
著者 内田樹 (著)
日本人とは辺境人である――「日本人とは何ものか」という大きな問いに、著者は正面から答える。常にどこかに「世界の中心」を必要とする辺境の民、それが日本人なのだ、と。日露戦争から太平洋戦争までは、辺境人が自らの特性を忘れた特異な時期だった。丸山眞男、澤庵、武士道から水戸黄門、養老孟司、マンガまで、多様なテーマを自在に扱いつつ日本を論じる。読み出したら止らない、日本論の金字塔、ここに誕生。
日本辺境論(新潮新書)
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日本辺境論
2009/11/16 00:52
わからないなりにわかってしまっている日本
22人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
今を生き延びることに必死な人間は、世界観なんて持てない。
首を上に持ち上げるのは、空を見るためではなく、電車の中吊りとか
マックのメニューを見たりするときで、この国では働けども楽に
ならないときは星ではなくじっと手を見ることになっている。
世界観のない人間集団は世界の中心にはなりえず、いつまでも
どこかにありそうな世界の中心をキョロキョロ探している。
内田先生は新著で、世界の辺境でキョロキョロする日本人の習性を探る。
中華思想の遠隔地で生まれた辺境である極東日本は、いつも学びの対象を
探している。いつの間にか日本だった日本は、日本であることにいつまで
経っても自信がなく、「国際社会のために何が出来るのか、自らに真剣に
問うたことが一度もない」。
では今この国で効率的な模倣の学びが機能しているかというと、どうも
そういうわけではないようで、師を設定し師から師以上のものを引き出す
ような学びのダイナミズムもどうやら薄まってきているよう。
ということは、世界の端っこにいて国際貢献を真剣に考えもせずに
学ぶ力さえ弱まっているとしたらそれはかなり危ない状況ではないか。
内田先生曰く、学びとはそれをやってどうなるのかもわからない状況で
始まるもので「わからないけど、わかる」状態に辿り着くことだという。
身体をきめ細かく使い、機を見るに敏な身体が出来ていれば、
「わからなくても、わかる」。その意味は、本当に「わからなくても、
わかる」。
今の日本に生きる人々は、なんとなくこの国の行く末をわからないなりに
わかっているように感じる。世界をキョロキョロすれば、繁栄から下山に
向かった国は日本だけではないし。そんな世界で、いまだかたくなに
日本語で話し続け、書き続ける我々は、わかるヒトにしか伝わってない
かもしれないけれど、すでにこの地球上でエッジな存在感を出せているの
かもしれないし。
中心なんてなくなってしまった世界で、エッジな臨場感を感じつつ
そこそこ楽しく生きていくとしたら、今ここにある星空を眺め田畑を
耕し豊穣な日本語で理想郷を描いた岩手県人のように、どこまでも
開かれていてなおかつすごい謙虚にコウベを垂れて歩くような、
そういうものに私もなりたい。
日本辺境論
2011/05/03 11:19
言い得て妙の日本人論
10人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:yama-a - この投稿者のレビュー一覧を見る
話題になった本である。帯によると「新書大賞2010」第1位になった本である(そんな賞があることを初めて知ったが)。そして「養老孟司さん絶賛」とあるが、読んでみると著者である内田樹が自ら「これは養老孟司さんからの受け売りです」と何度か書いているところがあり、なるほど、そりゃそうだろうと笑えてくる。例によってインチキ臭くて正しい内田樹の名文である(こんな書き方するとこの書評の評価は下がってしまうんでしょうけどw)。
内田樹の面白さはひっくり返したものの見方である。もっとも内田樹にしてみれば従来の見方のほうがひっくり返っているのだろうが…。それを「あんたたち、逆立ちしてるよ」と指摘してくれる町のご隠居が内田樹なのである。
そして、内田樹の魅力の第二は解りやすさである。論理の明快さもあるが、叙述の巧さもある。時としてかなり前の方に結論を書いてしまう。書いてしまうだけではなく「結論を書いてしまいましたが」と明確に宣言してくれる。このお茶目さが読者の理解を助けるのみならず、読者の気を逸らせない。
ここでは「辺境性」というキーワードで日本人を輪切りにして行く。大雑把に触っておいて話があちこちに飛ぶ。その繰り返し。本人が言う「ビッグ・ピクチャー」あるいは「大風呂敷」である。
第1章・2章は非常に分かりやすい。平たく言うと「日本人には自分がない」という、従来から何度も言われている論に近い。しかし、「辺境」という地理的関係から日本人の根源を捉え直したところが内田の独創性である。まさに言い得て妙の日本人論である。そして内田の内田らしさ、かつ確固たる論理性はここからで、彼は第1章の終わりをこういう記述で締める。
こういうことを書くと、「なるほど、それが日本人の限界なのですね。では、アメリカや中国のように指南力のあるメッセージを発信している国を見習って、わが国も発信しようではありませんか」というふうについ考えてしまう。私の本がそういうことを主張しているというふうに「誤読」してしまう。あのですね、それが「世界標準準拠主義」であるということを先程から申し上げているんです。(98ページ)
これが内田樹なのである。で、余談だが、この「あのですね」が如何にも内田樹らしい(笑) そして、彼はこう続ける。
私が「他国との比較」をしているのは、「よそはこうだが、日本は違う。だから日本をよそに合わせて標準化しよう」という話をするためではありません。私は、こうなったらとことん辺境で行こうではないかというご提案をしたいのです。(100ページ)
そう言われるとなんだか肩透かしである。ご都合主義のような気もする。しかし、そういう結論にするしか、もう日本人を救い上げる方策はないような気もする。確かに救いの感じられる前向きな提案であるような気がしてくるから不思議である。
第3章になると少し観念的・抽象的な話も混じってきて難しくなってくる。しかし、それは逆に内田の専門分野の知識によって補強されているということの証左であって、この3章によって論旨はさらに屈強なものとなる。
ところが、最後にまた眼から鱗の単純明快な結論なり提言なりが書いてあるのかと思ったら、なんだかするりと終わってしまう。大きな風呂敷包みがふわりとほどけるように。
ま、あとは自分で考えろということか。あるいは一緒に考えて行きましょうということか。ともかく、ここで考え終えてはいけないということなんだろう。
なんだか煙に巻かれたようないつもの内田樹である。知的ゲームであるように見えて、実は生きるための本質に触れているいつもの内田樹である。
by yama-a 賢い言葉のWeb
日本辺境論
2010/02/07 11:16
日本人の「学び」について
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:くにたち蟄居日記 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の本を読むのは これで3冊目である。前の2冊同様、大変興味深く読めた。
本書は「日本論」であるが もっと言いきってしまうと「日本人の学び方」という内容だと判断した。元来 文化を発信する立場ではなく受信する立場(その立ち位置を辺境と著者は呼んでいる)にあった日本人が どのように外来の文化を受けとめ、消化してきたのかという論が本筋である。要は 元来「受け身でしか有り得なかった」という経緯が「日本人」というものを作り上げたという考え方である。
「受け身」というとネガティブな印象も受けるし かつ著者も ある種の「受け身」部分に関しては 日本人に落胆しながら書いている部分もある。但し「受け身」を続けることのしたたかさについても主張していることも確かだ。
実際 ラーメンやカレーライスというものを考えても 我々の「受信」と「変更」の強さが分かる。「インド人もびっくり」というコピーが昔あったが 日本のカレーライスを自国の食べ物だと思うインド人はなかなかいないような気がする。それだけ 日本人は自分の好みに作り変えてしまう力に優れているからだ。これは自動車産業などが最も好例だろう。日本車が世界を席巻する時代が来ると想像出来た人が1945年に世界にいたとは思えない。カンバンが 世界で通用する言葉になったことは 日本人の「学んだ結果」が世界的にも評価されたということだ。
著者は そんな「受け身」が良いとも悪いとも主張していない。「そういうものだから まずそれを理解しましょう」ということなのだと思う。その「理解しましょう」という部分を推進するために いささか蛮勇を奮って本書を書いていることは良く分かる。「哲学」というものを象牙の塔や 難解な専門用語の山から助け出したいということが 著者のいくつかの著作を読んで感じる点である。これは正直 非常に有難い。僕も 少しづつ哲学を学びたいと思っている多くの人の一人だからだ。