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聖徳太子はいなかった(新潮新書)
著者 谷沢永一 (著)
日本書紀、三経義疏、法隆寺釈迦三尊の銘など、実在の根拠とされる文献や遺物のどこにどのような問題があるのか。誰がこのフィクションを必要としたのか。その背景には何があったのか。江戸時代の考証から最新の歴史学までを踏まえ、書誌学の厳しい目でつぶさに検証する。禁忌の扉を開き、実在論を完膚なきまでに粉砕した衝撃の一冊。
聖徳太子はいなかった(新潮新書)
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紙の本聖徳太子はいなかった
2004/04/24 11:55
たとえ荒唐無稽があろうとも
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:北祭 - この投稿者のレビュー一覧を見る
聖徳太子の伝説は、今や日本人の心の拠り所。「何を今更…」と言いたいところですが、谷沢さんは禁忌の壁をものともせずにこう言うのです。
「聖徳太子はいなかった。…聖徳太子は、古代日本における憧れの心情にもとづく理想の人間像を、文字のうえに結晶させたところの、誠に発する虚構(フィクション)である」
ならば本書は「聖徳太子は幻」と説得するのに汲々と骨が折られた労作か?
それがちょっと違うのです。
もちろん、傍証の記述は多くあります。それはもう、丸谷さんすら鼻をつまむというその辛辣に捻った言葉の連打による「ペテンの告発」には苦笑い。けれども、聖徳太子の研究では素人であることを明言する谷沢さんは「いなかった」という説得の、その根っ子の部分は歴史学の成果を伝える文献に預けています。疑うならば、本格の研究書をまずは読んでおくれ、といったところでしょうか。
さて、『日本書紀』は聖徳太子像を伝える由緒の確かさでいえば唯一の資料です。これを「書物の形態」から推してみると、あの時代、書かれた紙は巻物にしたてるしかなく、その原型は「全三十巻と系図とより成る」とされ、それはもう大変な巻物の山であったろうと谷沢さんは言います。そんな巻子本の持っている宿命とは、すなわち「削除、加筆挿入、配列転換、じつにさまざまな手入れが可能」であるということです。写本の転写、再転写、再再転写されるなか、たとえば「聖徳」の文字が書き加えられたとしても何の不思議もない。ここで『書紀』を研究する者の態度が問われています。
「在る一ヵ所にあきらかな荒唐無稽の記述が見出せるからといって、『書紀』三十巻の著録が、おしなべて虚構であると決めてかかるのが早とちりであるのと同じく、その否定しようもない荒唐無稽を部分的には泣き泣き認めるものの、考証という悪魔の触手を払いのけ掻いくぐり、中世神学のこじつけ論法を借用し、『書紀』の叙述を真実の表現としてまもりつづけようとする、灼熱した御教論もまた時代錯誤であろう」
それでは、谷沢さんは古代の資料をどうみるのか。
「『書紀』の記述のひとつひとつは、この時代の精神史をうかがわせるかけがえのない資料である。たとえそこに荒唐無稽があろうとも、それを時代が必要としていたのだ」
聖徳神話のひとつに「十人の訴訟を同時に聴きわけて正しく裁いた」というものがあります。これは果たして始めからあったのか、のちに加えられたのかは分からない。けれども正しい裁きを受けられない多くの同時代の人々が、この神話にすがり、願い、祈ったのであろうことは想像に難くありません。そのことに思いを馳せる構えが如何に大切か。これこそが古い書物にあたるときの真の極意であることを本書は教えてくれます。
実は、谷沢さんが本書を著す上での起爆剤となった書物があるそうです。それは、『偽書の精神史』(佐藤弘夫著)。日本の中世の時代、大量に流通していた「偽書」の意味についての深い洞察をもつ優れた書物です。谷沢さんは、本書でみせる四方八方に広げた連想の、その芯の部分を惜しげもなく披露されたのでした。
紙の本聖徳太子はいなかった
2012/06/13 18:34
和を以て貴しとなし、忤ふること無きを宗とせよ。
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:GTO - この投稿者のレビュー一覧を見る
あとがきに、「聖徳太子はいなかったことは、とっくに学界の常識となっている。」と書いてあるが、まあ、実際には実在論と虚構論の両論が闘っているということでしょう。どちらにも実証がないのが、現状のようだ。
気になるのが、それでは今の教科書はどうなっているかであるが、身近にある教科書を見ると、
小学校:『新編 新しい社会』 東京書籍 平成17年2月10日発行
「574年に天皇の皇子として生まれた聖徳太子は、20才で天皇の政治を助ける摂政になると、当時大きな勢力を持っていた蘇我氏と力を合わせて、天皇を中心とする国造りを始めました。
太子は、仏教をあつくたっとび、17条の憲法を定めて政治を行う役人の心構えを示しました。また、中国(隋)へ小野妹子を送って対等な付き合いを求め、その後も使者や留学生を送って大陸の文化を取り入れました(遣隋使)。」
中学校:『新しい社会 歴史』 東京書籍 平成16年2月10日発行
「女帝の推古天皇が即位すると、おいの聖徳太子が摂政になり、蘇我馬子と協力しながら、中国や朝鮮に学んで、天皇を中心とする政治制度を整えようとしました。なかでも、冠位十二階の制度は、家柄にとらわれず、才能や功績のある個人を役人に取り立てようとしたものです。十七条の憲法では、天皇の命令に従うべきことなど、役人の心構えを示しました。
さらに、東アジアでの日本の立場を有利にし、中国の進んだ制度や文化を取り入れようと、小野妹子らを隋につかわし(遣隋使)、多くの留学生や僧を同行させました。」
高等学校:『詳説 日本史』 山川出版社 2003年度版
「女帝の推古天皇が新たに即位し、国際的緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇の甥の聖徳太子(厩戸王)らが協力して国家組織の形成を進めた。603年には冠位十二階、翌604年には憲法十七条が定められた。冠位十二階は個人に対し冠位をあたえることによってそれまでの氏族単位の王権組織の再編成をめざすもので、憲法十七条も豪族たちに国家の官僚としての自覚を求めるとともに仏教を新しい政治理念として重んじるものであった。こうして王権のもとに中央行政機構・地方組織の編成が進められた。中国との外交も再開され、607年には遣隋使として小野妹子が中国にわたった。隋への国書は倭の五王時代とは異なり、中国皇帝に臣属しない形式をとり、煬帝によって無礼とされた。」
「厩戸王(聖徳太子)創建といわれる四天王寺・法隆寺(斑鳩寺)…」
段々と断定的な言い方を避けていくようになる。