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15件
檸檬
著者 梶井基次郎 (著)
31歳という若さで夭折した著者の残した作品は、昭和文学史上の奇蹟として、声価いよいよ高い。その異常な美しさに魅惑され、買い求めた一顆のレモンを洋書店の書棚に残して立ち去る『檸檬』、人間の苦悩を見つめて凄絶な『冬の日』、生きものの不思議を象徴化する『愛撫』ほか『城のある町にて』『闇の絵巻』など、特異な感覚と内面凝視で青春の不安、焦燥を浄化する作品20編を収録。
檸檬
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檸檬 改版
2010/06/27 09:16
漂う透明な安定感
14人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:analog純 - この投稿者のレビュー一覧を見る
僕が若かった頃、とても好きであった作家が三名いました。
太宰治・中島敦・梶井基次郎
この中で、現在でも日本文学史的にメジャーな作家は、やはり太宰治だけですかね。
というより、よく考えてみれば、後の二名は、生前のリアルタイムにおいても決して「メジャー」な作家ではなかったですね。
彼らはやはり、あまりに早く亡くなりすぎてしまいました。
三人の享年を並べるとこうなります。
太宰治(三十九歳)・中島敦(三十三歳)・梶井基次郎(三十一歳)
こうして並べてみると、太宰が三十代をなんとか生き抜いたという「差」は、大きいですよねー。
今調べてみたのですが、太宰の三十一歳の時の主な作品といえば、『駆込み訴え』『走れメロス』なんですね。
まさに太宰の充実期・豊穣期・収穫期の開始時期ではありませんか。
さて、その太宰の収穫期の入り口で鬼籍に入ってしまった作家が、梶井基次郎であります。
実は僕が初めて個人全集を買ったのが、この作家でした。筑摩書房からの三巻本です。
最後の巻の書簡を読み終えた後、自分でも少し感動したことを今でも覚えています。
今回、梶井の主な作品について何度か目の読書をして、改めて驚いたことがありました。
梶井の作品の評価については、伊藤整の説いた、「志賀直哉とボードレール」の影響の指摘が端的に語っていると思いますが、今回驚いたというのは、その「スタイル」を梶井は晩年(若き晩年!)ぎりぎりまで彫心鏤骨、洗練させ続けているということでした。
例えば、名作と名高い『冬の蠅』。この晩年の作品などは、冒頭から天にも昇らんとする勢いの文章であります。
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冬の蠅とは何か?
よぼよぼと歩いている蠅。指を近づけても逃げない蠅。そして飛べないのかと思っているとやはり飛ぶ蠅。彼等は一体何処で夏頃の不逞さや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう。色は不鮮明に黝んで、翅体は萎縮している。汚い臓物で張切っていた腹は紙撚のように痩せ細っている。そんな彼等がわれわれの気もつかないような夜具の上などを、いじけ衰えた姿で匍っているのである。
冬から早春にかけて、人は一度ならずそんな蠅を見たにちがいない。それが冬の蠅である。私はいま、この冬私の部屋に棲んでいた彼等から一篇の小説を書こうとしている。
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梶井の小説の底辺には、ほとんどすべてに疲労・倦怠・不健康などの影が見えます。
現実に、その延長線上に自らの肉体の滅び(それも遠くない将来)を見つめ続けねばならない筆者の精神が、必ずや少しずつ少しずつ傷ついていったであろうことは我々にも容易に想像がつきます。
しかし、少なくとも梶井はそれを創作態度に持ち込もうとはしませんでした。
不健康な日々を行為を描きながら、その描写には、安易さやふて腐れや放り出しやといった、不健康な要素は一行もありませんでした。
きっとそこに、彼の矜持があったのだと思います。
そのための「武器」が、ボードレールの妄想や比喩であり、志賀直哉のあの厳格・強靱な文体であったのでしょう。
そして、それを晩年まで研ぎ澄ませていった筆者の精神力に、今回読んでいて僕は非常に感銘を受けました。
それともう一つとてもおもしろかったのは、彼の晩年の作品にまで通じている表現要素が、ほぼすべて処女作の『檸檬』に相似形に描かれているということでした。
それは『檸檬』の表現でいえば、「みすぼらしくて美しいもの」と「錯覚=妄想」です。
この二つが、彼の描く死を見据えた美意識の中に、最後まできちんと読みとれるということに気がつきました。
そしてそのことによって、早過ぎた筆者の死を惜しむ気持ちはもちろんあるものの、彼の残した作品群がきれいな円環を閉じていることに、個々の作品に描かれる「不健康」とは全く姿を異にした、透明な安定感のようなものを、ちらりと、僕は感じるのでありました。
檸檬 改版
2004/12/24 02:14
梶井基次郎がどうにも好きになれない人に宛てて。
8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Straight No Chaser - この投稿者のレビュー一覧を見る
梶井基次郎はゴリラみたいな顔つきをしていて、『檸檬』という繊細で詩的な小説を書くにはどうにも不似合いな男で、そもそも「結核」という病で夭折するようなタイプには見えない、というのは割によく言われることである。
彼の伝記などを読むと、彼自身自らの容貌魁偉なることを相当に気にしていたらしい。その内と外の落差はいかばかりのものであったろう。
こういうことを言い募ることは、とても鈍感なままに聞く者の思いを壊してしまう暴力になりかねないことは確かで、昨今の世間で流行中の「毒舌」に、ひっそりと「世の中の厳しさを知らしめるという懐の深い愛情」などと言訳を貼り付けて礼賛するのは良いが、自分もそのサル真似をしようと試みるとしたら、そんなヤツはバカだ。
小説などあまり読んだことのないイタイケな子供に対して、「おれが一番好きな作家は梶井基次郎だ。愛してるといってもいい」と明言したうえで、「このゴリラみたいな顔」「ガレッジセールのゴリに似ている」などと讒言を吐いてみたところ、「ぶっ、ひでぇ」と笑いながらその子供が梶井基次郎に興味を持ったとしたなら、その「ゴリラ!」なる罵詈讒謗は許されるのかといえば、許されることではない。
だが、そもそも「私」はその生の瞬間瞬間に罪深い行為のみをつづけているのだとの自覚を「ゴリラ!」という発語に込めることで、ほとんど不可能と諦めた「免罪」の可能性がほのかに眼前に浮んだのだとしたら、その希望の炎を消してしまってはダメなのではないか。
だから「梶井基次郎はゴリラだ。気はやさしくて力持ちな男なのだ」と紹介したい。
人間にとって「顔」というのは矢張りどれほど頑張ってみても大切なものだ。そこに男女の区別はない。性別を超えて自分を光源氏の立場に置いてみて、末摘花の顔を朝日のなかに見たとしたならば、ぞぉっとするに違いあるまい。「とりかえしのつかないことをしてしまった」と慙愧にたえない気持ちにさえなるかもしれない。
今でこそ価値観の多様化が「常識」となり、美醜だの好き嫌いだので物事を語ることの暴力性は薄められてきているが、そのことは認めるにせよ、暴力は気付かぬところに蔓延るからこそ「暴力」なのであって、それゆえにこそ「顔写真」込みの『檸檬』(新潮文庫版)が輝くのだというのが僕のイイタイコトだ。
『檸檬』という美しい小説に「おれはなんて醜い男なんだ。まるでゴリラじゃないか」なんて独白が出てくるわけもないが、この男の憂鬱や重苦しさの背後に単なる結核という病だけを見てしまうのではなく、結核によって絶えず尋常ならざる熱っぽさを感じていたからこそ「檸檬」の爽やかさと冷たさが彼を動かしたのだと読んでしまうのではなく、無意識の暴力にさらされながら勇敢に闘いつづけた一人の男の美しさ、やさしさ、強さを見ることもできるのではないか。そんなふうに思うのだ。
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梶井基次郎はジャズが嫌いだった。モダンジャズを聴くことなく、「バップ(bop)の高僧」と綽名され奇矯な性癖で知られるセロニアス・モンクを聴くことなく、1932年にこの世を去った。享年31歳。あてどもなく暗い街をさまよう彼がモンクの「ラウンド・ミッドナイト」を聴いたら……。梶井基次郎の小説にはモンクがよく似合う。
檸檬 改版
2017/08/15 00:55
「檸檬」ーー錯覚としての読み、あるいは誤読
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:シロップ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「檸檬」では、主人公の私が想像力の働きでもって意図的に「錯覚を起そうと努め」ます。
そこで、「檸檬」を読んでの僕の読みの誤り(誤読、錯覚)について書かせていただきます。とくに、びいどろと檸檬爆弾についてです。
主人公の私は「びいどろの味程幽かな涼しい味があるものか」と述べ、そして、このびいどろの味に「幼時のあまい記憶」が喚起されると語ります。それはすなわち、びいどろを「嘗めて見るのが私にとって何ともいえない享楽だった」ことや「それを口に入れては父母に叱られた」ことです。さらには「全くあの味には幽かな爽かな何となく詩美と云ったような味覚が漂って来る」とまで語ります。
僕は、ここではびいどろがまるで飴玉のように語られているので気にしませんでしたが、びいどろは「色硝子で鯛や花を打出してあるおはじき」であり、本来「嘗めて見」たり「口に入れ」たりするものではありません。そのようなものを口にしたから、幼い頃の私は「父母に叱られた」のです。
また、おそらくびいどろに味はないでしょう。でも、この場面で主人公は「幽かな涼しい味」であったり「幽かな爽かな何となく詩美と云ったような味覚が」する、とびいどろの味を表現しています。さらに、このびいどろの味によって幼い頃の記憶が喚起されています。つまり、ある種の「味覚の錯覚」によってそういう記憶がよび起こされていたと述べられているのです。
「別にそれがどうかしたか」と言われればその通りなのですが、僕はそのように語られていることにとても納得、共感してしまいました。僕が錯覚したように、びいどろは飴玉のような味がするのかもしれません(ちなみにこの場面を読んでいて、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』「コンブレー 一」末尾にある「プチット・マドレーヌ」の件が何となく想い出されました。梶井がこの作品に触れていたのかどうかは分かりませんが)。
次に、主人公はいつ檸檬を爆弾に見立てたのかということです。僕が考える可能性としては次の通りです。
1 積み重ねた画集の上に檸檬を置いた瞬間
2 第二のアイディアが思いついた瞬間(「ーーそれをそのままにしておいて私は、何喰わぬ顔をして外へ出るーー。」)
3 丸善を出ての街の上(「丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た悪漢が私で、…。」)
1はないです。おそらく、注意しないで読んでいたら、私が檸檬を爆弾に見立てたのは2だと考えてしまうのではないでしょうか。僕はそのように読んでいました。でも実際は3です。つまり、私が檸檬を本棚に置いてそこから出ていこうと決心した時点(2)では、私はまだ檸檬を爆弾に見立ててはいないのです。
このことも、前述のびいどろのことといい、何のことはありません。ただ、檸檬を本棚に置いて爆弾に見立てる(2)のと、檸檬を本棚に置いた後、街の上でそれを爆弾に見立ててほくそ笑む(3)のとでは、少し意味合いが異なるかなと思った次第です。
このように「檸檬」を読むことを通して、僕のなかで、ある種の読みとしての錯覚が起きていました。これらのことを自分の単なる勘違いとして切り捨ててしまえばそれまでなのですが、「檸檬」は読者にも錯覚が起こることを予期して書かれたものなのかもしれません。それは梶井文学の魅力の一つだと思います。梶井の描く錯覚はまったくの、架空のイメージがよび込まれるのではなく、どこか私たちにも共感できるものです。
「檸檬」は名作、古典と言われて久しい作品ですが、何度も繰り返して読んでいるとまだまだ発見があると思います。勝手に誤読、錯覚しながら楽しませていただきます。