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魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国
著者 渡邉義浩 著
考古学調査と並び、邪馬台国論争の鍵を握るのが、「魏志倭人伝」(『三国志』東夷伝倭人の条)である。だが、『三国志』の世界観を理解せずに読み進めても、実像は遠のくばかりだ。なぜ倭人は入れ墨をしているのか、なぜ邪馬台国は中国の東南海上に描かれたのか、畿内と九州どちらにあったのか。『三国志』研究の第一人者が当時の国際情勢を踏まえて検証し、真の邪馬台国像に迫る。「魏志倭人伝」の全文と詳細な訳注を収録。
魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国
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魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国
2019/07/15 22:30
邪馬台国の真実を提示
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:K2 - この投稿者のレビュー一覧を見る
中国古代史研究の立場から魏志倭人伝を読み解き、邪馬台国の真実を提示する。歴史書につきものの偏向的叙述が三国志にも含まれることを具体的に示し、その点を踏まえた解読の必要性を説く。大月氏国と倭国を対比して説明する部分はとても説得的。卑弥呼の王権に呪術性と開明性の二面性をみる石母田正氏の見解に対する批判は鋭い。
魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国
2019/10/30 17:35
中国三国時代の研究者の立場から倭人伝を丁寧に検証し邪馬台国の真実に迫っていますが・・・
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:多摩のおじさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
森 浩一氏の「倭人伝を読みなおす」で、漢字原文を目にし、訳者によって文の区切りから異なり、従って意味も異なってくることを新たにし、であれば
中国史の精通者によるものはないのかと思っていた矢先、同書のレビューで「三国志研究家からの指摘の本」とあり、早速本書を手にしてみました。
「倭人伝は、『三国志』という史書の持つ偏向が、明確に現れている・・・使者の報告などに基ずく部分と、史家の持つ世界観や置かれた政治状況に
より著された観念的叙述の部分とがある」とし、中国三国時代の研究者の立場から倭人伝を丁寧に検証し邪馬台国の真実に迫っています。
附章の倭の諸国と道程、倭国の地誌と政治体制、朝貢と回賜および制書の標題と小見出を付けた原文、訓読、現代語訳、補注からなる「魏志
倭人伝 訳注」を本文中で引用した解説、3世紀前半の東アジアの地図、邪馬台国への里程図は、理解を助けてくれます。
第1章「倭人伝と邪馬台国論争」で『三国志』の倭人伝としての概要、邪馬台国論争を紹介し、外的史料批判(史料の出所や伝来過程の文献
考証)を踏まえた内的史料(文献解釈による史料の信憑性と正確性)批判に基づく解読で、中国史の立場からの九州説、大和説の検討、儒教
との関りの中での卑弥呼王権の性格の検討、当時の東アジアの国際秩序からの邪馬台国の国際感覚を読み解いています。
特に首肯させられた点は以下のとおりです。
・蜀漢に仕え、滅亡後に仕えた西晉の礎を築いた司馬懿を正統化すべき陳寿の立場、卑弥呼の朝貢も司馬懿の功績として大書されるべき
事柄が倭人伝の最大の偏向理由(p.36-41)
・景初2年6月とする卑弥呼の朝貢は遼東の公孫氏との8月終戦前であり景初3年6月が正しい(p.41-45)
・229年明帝から「親魏大月氏王」を封建された大月氏国を朝貢させ、その子・曹爽が司馬懿の政敵の曹真の功績を削除(p.38-40)
・儒教の中華思想を表す四夷伝に対し、南蛮、西戎を外し、北狄の烏桓・鮮卑より圧倒的な字数の東夷伝で司馬懿の功績の結果、礼儀の
備わる倭国とした好意的な表現内容(p.46-65)
・親魏王称号は「親魏大月氏王」「親魏倭王」のみで2国家の重要性や力量を同等に位置づける表現(p.78)
・『翰苑』の『魏略』逸文「会稽の東に在り」に対し「会稽の東冶の東に在るだろう」と『漢書』地理志により孫呉の背後となる地に倭国を比定し
『魏略』の呉の祖先の太伯の後裔と考えていた倭人の記述を避ける(p.103-105,109)
・呪術的な卑弥呼とは対照的な徴税や倉庫や市、監督官僚と中国の官制に類似した記述(p.153,169)
・卑弥呼の的確な時期の朝貢を伝えた帯方郡の指示を理解した者の存在の可能性(p.167)
一方、以下の疑問も浮かびました。
・上記のように「卑弥呼の朝貢は遼東の公孫氏との戦の最中であり景初3年が正しい」(p.45)、「誤写の証拠」(p.88)としているが、「倭人伝の
記載どおり、・・・景初2年の6月に帯方郡に至ったとすれば・・・戦争の最中」(p.86)の記述の意図は何か
・「称号を賜予した理由は孫呉の海上支配に対抗するため」(p.86)の海上支配とは海路による夷州等の探索、扶南への遣使(p.84)か
・「伊都国を治所とし倭国の内で刺史のよう」(p.153)について「九州説では首都圏である伊都国に治所を置く大率は刺史でなく司隷校尉部
であり、大和説では伊都国の大率は刺史のように遠方の九州諸国を観察」(p.155-156)とし大和説の優位性をいうが、引用の後漢書から
九州と大和との距離の違いで刺史と司隷校尉部の違いが何故言えるのか伊都国と邪馬台国間は1500里(p.127)と変らぬのに・・・