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4件
王国記
著者 花村萬月
街で人を殺し、身を隠すため、自分が育った古巣の修道院兼教護院に舞い戻った青年・朧(ろう)。その修道院でもなお、修道女を犯し、神父に性の奉仕をし、暴力の衝動に身を任せて教護院の少年たちや動物に鉄拳をふるい、冒涜の限りを尽くす。あらゆる汚辱を身にまとう――もしや、それこそ現代では「神」に最も近く在る道なのだろうか? 世紀末の虚無の中、〈神の子〉は暴走する。目指すは、僕の王国! 第119回芥川賞を受賞した戦慄の問題作にして、「王国記」シリーズ第一作。
風の條 王国記IX
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ブエナ・ビスタ
2004/02/26 19:57
萬月の衝撃
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:吉田照彦 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、殺人の罪を逃れて修道院兼教護院に逃げ込んだ青年・朧(ろう)を描いた芥川賞受賞作「ゲルマニウムの夜」の続編である。
花村氏の小説は、いままでに何冊か読んだことがあるが、これと言ってぴんとくるところはなかった。一年ほど前、そのデビュー作であり第2回小説すばる新人賞を受賞した「ゴッド・ブレイス物語」を読了したとき、僕はこの人の作品を二度と手にすることはあるまいと思った。もちろん、駄作だというつもりはない。ただ単に、この人の描く世界が僕の感性と合わないと感じたからに過ぎない。最近になって、なんとなく本書の前編である「ゲルマニウムの夜」を手にすることになったが、そのときもさほどの感慨は抱かなかった。
だが、本書の次の一節に、僕はガツンとやられた。
「(前略)たとえば君が私を殺したとしよう。そして女性を孕ませたとしよう。新たな生命である君の子供は、失われた私の生命となんら関係がない」
「ああ、しかたがないですよ」
「しかたがない」
「ええ。どうでもいいことです。瑣末なことっていうんですか。些細なことです。だって僕は、神の視点に立っているんですから」
「君は神になったつもりか」
「ええ。聖職者用図書室に入り浸ってあれこれ読み耽っているうちに、人は神の視点に立つこともできるってことに気づいてしまったんですよ(後略)」(40ページより引用)
なんということもない文章だと思うかもしれない。が、僕には、これほど現代日本人の深層心理を抉り出した一節はないと思える。現代人はなぜ斯様にモラルを喪失してしまったか。なぜ信仰を失ったか。なぜ多くの少年たちが「人を殺してはいけない理由」を問うてくるのか。それらの“なぜ”を、この一連の会話はあまりに無造作に、あまりに簡便に説明し尽くしてしまっている。——それは、多くの現代人が“神の視点”に立っているからであると。人が“神”の視点に立つとき、モラルや信仰は当然に、その力を失う。なぜならそれは、人が自らをそうしたものの中心に据えてしまうことを意味するからだ。そして、自らを神に擬してしまった人間たち、少年たちに、人を殺してはならない理由が分からないというのも、また当然のことなのだ。
もしかすると、これは、自らクリスチャンでもある著者が自らの信仰をかけて問おうとしていたこととはまったく無関係かもしれない。だが、上記の一節が、深く、深く、僕の胸に突き刺さったことは間違いのない事実だ。おそらく、僕はこの衝撃を生涯忘れることはないだろう。
故に僕は声を大にして言う。花村萬月はスゲェ!!
ゲルマニウムの夜
2001/12/12 21:40
神はいますか?
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:しげる - この投稿者のレビュー一覧を見る
修道院兼教護院を舞台に繰り広げられる花村ワールド。バイオレンスと過激な性描写、エンターテイメントと捕らえると重過ぎる内容だが、れっきとしたエンターテイメントである。タイトルの芥川賞受賞作「ゲルマニウムの夜」と続2編+小川国夫氏との解説対談もあり。この一冊は読者に考える事を強要する。小川国夫氏との対談だけでも読む価値有り。
ゲルマニウムの夜
2002/08/12 18:40
エロテイシズムは他者にしか発動しない
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:k.m - この投稿者のレビュー一覧を見る
暴力に対して嫌悪を感じ呆れさせ、笑わせてくれ「さえ」するのが中原昌也の小説だとしたら、花村萬月のそれは笑えない。徹底的に痛めつけ、読んでいてその痛みや吐き気が実感されそうなほどリアルである。ただ人間の本質と言われるものの中に、暴力的な面があり、それを目の当たりにさせてくれるという意味で、ある種「清々しく」もあった。もちろん、中途半端でいやらしい暴力とこの清々しいという感触自体に、価値判断はともなえるはずもないが。
例えば先日読んだ、「美と共同体と東大闘争」(三島由紀夫・東大全共闘/角川文庫)において三島由紀夫はサルトルの「存在と無」を引用し、エロテイシズムは他者にしか発動しないと述べていた。つまり相手が主体的な動作を起こせない、意思を封鎖された状況こそが、エロテイシズムに訴えるのだと。
この作品のクライマックスは、まさにそんなエロテイシズムの絶頂にあった。修道院の農場における、主人公と美少年の同性愛。そこで少年は主人公に対して、無償の「奉仕」を切望した。少年の一方的な「奉仕」に初め主人公は冷静だった。がしかし、その一方通行な愛の態度と、それを受け止めている自分との状況が、まさに意思を封鎖されたエロテイシズムとして最大のたかまりをむかえていた。
そのたかまりには、ある種の宗教性を感じさせている。もちろんそれは、物語全体にも流れている著者の宗教にたいする態度を通して感じられるものだ。残虐な暴力を行う主人公の存在は、恍惚とかがやく特別な存在へと重ねられていた。そのようなある象徴性として、そしてあるリズム、あるいは流れとして、暴力が描写されているように思えた。