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パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い
著者 黒岩比佐子 (著)
弾圧の時代をユーモアと文才で生き抜く男達。百年前の大逆事件後、編集プロダクションと翻訳会社を兼ねた活動家の拠点を創ったのが堺利彦。幸徳秋水、大杉栄との交流など新しい視点から明治の社会主義を描く。第62回読売文学賞[評論・伝記賞]受賞。講談社創業100周年記念出版。
パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い
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パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い
2010/10/21 10:45
明治・大正ジャーナリズムにおける堺利彦の業績と歴史に埋もれた真実に迫る
13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ろこのすけ - この投稿者のレビュー一覧を見る
日露戦争が始まる前、社会主義者の堺利彦が親友の幸徳秋水と共に「平民社」を創設し、反戦運動を唱えたことは教科書で習い、知っている人は多い。
しかし、「平民社」は知っているが「売文社」という名前とその存在を知っている人はどれぐらいいるだろうか。
「売文社」は堺利彦によって作られたものである。「売文社」は大正期の社会主義運動の「冬の時代」と呼ばれる官憲の弾圧を耐え忍ぶ拠点であった。生計を立てるための組織であり、同士たちの交流の場であり、若者たちの教育の場であった。
「平民社」が二年あまりで解散になったのに対して「売文社」はあの厳しい弾圧の時代に八年三ヶ月も継続したとは驚きである。
では「売文社」とは何か?その活動の様子、具体的な実像、内部ではどんなドラマがあったのか、そして堺利彦とはどんな人物であったのか。それを掘り起こしたのが黒岩比佐子である。黒岩はおびただしい資料や古書を買い集め、取材し、それらを平易明快な文章にし解き明かしたのである。
つまり、これまで歴史の裏側に埋もれて見えにくかった事実、忘れられた人や誤解された人を掘り起こし、「売文社」の全体像と堺利彦という魅力的な人物に迫ったのが本書なのである。
本書を見た人は十中八九その表紙に目を奪われ思わず手に取ってしまうだろう。セピア色の写真。三人の人物の顔に釘付けにされてしまうのだ。黒紋付の羽織の男。暗い目をした意志の強そうな女性。真ん中に七五三の晴れ着を着た幼いながらも鋭いまなざしの女の子。
これは堺利彦が出獄後、「売文社」の看板をあげた家の前で、妻為子と、娘の真柄の七五三を祝った記念写真だ。
次に目を引くのが表題となっている『パンとペン』の文字である。
この「パンとペン」こそは「売文社」が旗印として掲げるものなのである。商標は「食パンに万年筆を突きさした画」。一回見たら忘れられないユーモラスな商標だ。
堺は「僕らはペンを以ってパンを求めることを明言する」と謳った。
つまり人間は食べなければ生きられない。その食べるための手段として文章を書くこと、パンを得るためにペンを使うことを堺利彦は「売文」と表現し宣言したのであった。
売文社の社員には、大杉栄、社会主義者の荒畑寒村、山川均、高畠素之、尾崎士郎がいる。
堺の親友だった幸徳秋水は大逆罪で絞首刑になった。大逆事件で死刑になった十二人は捏造された(フレーム・アップ)証言や証拠で死刑に処せられたのであった。しかし、堺や大杉、寒村、山川らは「赤旗事件」で投獄中だった為、難を逃れた。
処刑された多くの仲間たちのむくろは堺がひきとり火葬した。地方にいて名前を変え、息をひそめていた家族を探し出し遺品と遺骨を届け、慰め励ましたのは堺であった。激しい思想弾圧と尾行にも屈せず遺族を探し慰めた堺という人物には胸が熱くなる。
堺は「ペンとパン」を商標に「編集プロダクション」「翻訳エージェンシー」の元祖ともいうべき「売文社」を立ち上げた。それはあたかも大石内蔵助が世をあざむいたように「猫をかぶって」機の到来をうかがう八年三ヶ月であった。
ここで黒岩が注目し掘り起こしたのは「売文社」における仕事である。堺は歴史書ではとりあげられたが、文学の世界ではまったくとりあげられなかったのである。そこに黒岩は注目したのであった。
つまり今まで誰も書かなかった明治から大正ジャーナリズムにおける堺利彦とその業績が本書ではじめて明かされるのである。
私たちが映画やミュージカルでおなじみの「マイイフェアレディ」の原作は「ピグマリオン」。バーナード・ショーの作品である。バーナード・ショーの作品の翻訳を手がけた先駆者が堺であったとは特筆すべきことである。そのほか、チャールズ・デイケンズ、アレクサンドラ・デュマ、エミール・ゾラ、ウイリアム・モリス、ジャック・ロンド、モーリス・ルブランの「ルパン」を翻訳。マーク・トウェインの作品のうち短編二つを堺が訳していることはほとんど知られていない。
十八歳から作家デビューして以来、尾崎紅葉、夏目漱石、有島武朗、に至るまで多くの作家との交友があったことも驚きである。
(一)「言文一致体の普及」に貢献。(二)平塚雷鳥より六年も前に婦人論を述べ、日本の婦人解放運動の先駆者だったこと。(三)日本一のユーモリストであったこと。
など、黒岩は次々と掘り起こし、解き明かし、読者の目からうろこを落とさせた。
堺利彦はその生涯で多くの友人や支援者に支えられた。それは「人を信ずれば友を得、人を疑へば敵を作る」という生涯の信条からもうかがえる。
また「堺は如何に困窮した場合でも我を忘れてよく後進の面倒を見、道を開いてやることを忘れなかった」という友人の言葉が「売文社」での事業と堺自身の人柄を表わしている言葉である。
幸徳秋水はいつもそばに堺がいたからこそ、カリスマとして存在した。
これは堺が好んで口にした言葉「棄石埋草」(すていしうめくさ)にも通じるのではなかろうか。堺利彦の実蹟が今日こうして黒岩の手によって明かされることがなければ、讃えられることもなく、人々の記憶から消えてしまう、まさに「棄石埋草(すていしうめくさ)となったであろう。
最後に手に入りずらい古書や資料を探しだし、終日足を棒にした黒岩に「古書の神様」がご褒美をくださった事件があった。それは東京古書会館での古書即売会で起きた。「麺麭(ぱん)の略取」の偽装本の発見である。発禁本の「麺麭の略取」に誰かが『武士道』の表紙をつけて偽装したものだ。いわくありげなこの珍本を掘り出した黒岩には「古書の神様」がついているに違いない。心の中で歓声をあげたであろう黒岩の顔が目に見えるようで思わず頬がゆるむ。
※黒岩さんがこの作品を三年余りの年月をかけて書いた渾身を思った。「あとがき」で全体の五分の4まで書き進んだところで、がんを宣告されたことを吐露されている。病魔との闘いに調べたくとも行けなかった多くの場所にどれだけ歯噛みをしたことだろうと思うと胸がつまる。
しかし、作品は「全力を出し切ったという清々しい気持ちでいっぱいだ」と黒岩さんに言わしめるだけの充実ぶりであることは言うまでもない。
これまで歴史の裏側に埋もれて見えにくかった事実、忘れられた人や誤解された人を掘り起こし、「売文社」の全体像と堺利彦という魅力的な人物に迫った本書。黒岩さんの渾身の作として読者の心に長く残ることを確信する。多くの人と、この読後の充実感を分かち合いたいものである。
黒岩さんの体調の快復を心より祈り次回の作品を心待ちする次第だ。
パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い
2010/11/23 22:36
「パン」をメタに「ペン」をマジに
9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
教科書的に堺利彦と「平民社」は幸徳秋水、大杉栄、荒畑寒村達の文脈で知っていたが、「売文社」のことは寡聞にして知らなかった。
平民社の週刊「平民新聞」が創刊されたのが、1903年11月で「自由・平等・博愛」を旗幟として、社会主義を宣言、日露開戦にも反対、共産党宣言の邦訳を掲載するなどして、とうとう1905年1月発禁となる。
その後、日刊「平民新聞」として発刊されるが(1907年1月)、4月に発禁。そうした流れのなかで危機感を持った国策捜査で1910年の大逆事件が起こり、幸徳秋水らが一斉検挙される。
年開けて1月24日、25日に12人が処刑される。入獄していたがために大逆事件に連座を免れた出獄して間もない堺利彦らは秋水らの死体の引き取りと火葬を行う。
そんなタイトな時代背景、個人的にも疾風怒濤の中で入獄中に「売文」をビジネスモデルにした「編集・出版プロダクション」の構想を練り出獄して今で言う「ベンチャー企業」を立ち上げたわけです。
明治・大正のホリエモンか、出版と映画などメディア戦略で駆け抜けた角川春樹、「太った豚より痩せたソクラテスになれ」と東京オリンピックの年、東大の卒業式で大河内一男総長が言ったとされるリンクで妄想すれば、現在のマスメディアで働く人々は堺利彦らと比べて果たして「自由」である覚悟の哲学を持っているか心許ない。
多分、「パンとペン」どころか、パンをメタと処理するどころか、マジに「パンのために就活」する。「ペンはメタに過ぎない」と、その孤立した無縁社会では「孤立の自由」しかない。博愛はルサンチマンに変色し、平等は死語で格差が益々実体化する。
恰好良く言えば、堺利彦の「売文社」の「パンとペン」は絶妙なバランスに立った「パンをメタにペンをマジに」の強かな処世であり、「孤立した個」ではなく、「孤独の個」を受け入れた個人主義の基底の元に他者とどこまでもつながるダイナミックな生き方だったと思う。
だからこそ、普遍性を信じる哲学、思想があったし、「言葉の戦い」があった。何ものにも替えがたいものが「言葉」であるだろうし、色んなものに替えることが出来るものが「お金」のお金たる所以だし、お金で買えない「言葉」はある。
そんな言葉を僕らは「詩」と言って聖域に祭り上げる。「思想」もそうだ。投げ銭されても、それはお賽銭。
売文社のビジネスモデルは翻訳、出版企画、演説原稿、大学卒業論文やレポートの代行、ゴーストライターなど、「或る女から或る男への手切れ金請求の手紙」まで代筆している。足袋屋の広告文、自殺しようとする男の遺言の草稿を真面目に引きうけ要求通りの文案をつくったりもする。
作者は「神は細部に宿る」とばかり、微に入り細にわたって堺利彦にまつわるエピソードを渉猟する。
内容もさることながら、他書に類を見ない本書の特長の一つに本文中でも巻末でも引用されている膨大な参考資料にあると思う。
例えば、あまりに堺の逸脱するキャパの広さに同時代のジャーナリスト宮武外骨を思い出したが、 案の定、作者はこんなことを書いてくれている。
《また、この翌年の『日本一』七月号と八月号にも、宮武外骨と堺利彦のコンビで「奇想凡想 ハガキ問答」が掲載されている。これは、同誌編集部のからの依頼で始まったそうだが、まるで漫才のように面白い。ただし、伏せ字だらけの上、その筋の圧力を受けて、残念ながら二回で中止になった。(p387)》
この雑誌を読んでみたくなったが、手に入れるのは大変でしょう。
『古書の森 逍遥-明治・大正・昭和の愛しき雑書たち』を上梓している黒岩さんならではのこだわりであり、国会図書館にも蔵書のない資料も沢山ある。古書会館で資料集め、古本渉猟、本書を上梓するまでの作者の全身全力投球ぶりが伺え、「書き下ろし」の筆圧に圧倒される思いでした。
聞くところによると、作者が最初に編集者デビューした出版社は色んなことをこなす「売文」社のようなところだったらしい。そんな作者の編集者体験が「平民社」の堺利彦ではなく「売文社」の堺利彦に感染してフォーカスしたのか。
でも、残念なことに本書が店頭に並び、サイン会、トークイベントもやられ盛況だったのに黒岩さんは11月17日に旅立ってしまった。あまりにも信じられないあっけなさでした。1933年1月23日、堺利彦永眠。
葉っぱのブログ
パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い
2011/09/17 04:36
この人あればこそ
7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:良泉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
歴史を学び、歴史に習うには、歴史上の出来事を学ぶことだけではなく、歴史上の人物に習うことも重要である。
人物の持つイデオロギーにとらわれることなく、その人の生き方にとても強く引かれた経験は誰にでもあろう。
堺利彦の生き方、考え方をすばらしく思う。とてもうらやましく思う。
幸徳秋水、大杉栄、荒畑寒村らほど後世に有名ではないが、社会主義が弾圧され続けた時代に常に運動の中心にいたのが堺利彦である。
堺利彦で思いつくのは、幸徳秋水とつくった「平民社」であり、反権力・社会主義を主張した「平民新聞」である。
しかし、堺は常に幸徳秋水の陰のような存在であった。常に日の眼をあびる幸徳の後ろで、しっかりと彼を支え続ける存在であった。
この二人を見事に評した一文がある。
伊藤銀月という人が、「平民新聞」創刊号に書いた「枯川と秋水」という人物評である。枯川とは、もちろん堺利彦のことである。
『事の経営に於ては枯川亭主役にして秋水女房役、一旦筆を執るに至れば秋水亭主役にして枯川女房役・・・内に於ては枯川の旦那に秋水の細君、外に向っては秋水の主人に枯川の夫人。・・・秋水を社会主義の団子を円める人にして枯川は其餡を煮る人也・・・秋水と共に人を殺し人を活かすことを謀るべく、枯川と共に人を医し人を育することを謀るべし』
堺無くして、幸徳秋水があれだけの名を後生に残すことはあり得なかった。
そして、堺のすばらしいところは、その他社への献身的姿勢を、幸徳秋水だけでなく、多くの同志たちに向けた姿勢にある。
本書の主題となっているのは、堺がつくった「売文社」という人を食ったような名前の会社である。
この会社は、文であればなんでもあり、宣伝文から手紙の代筆、外国語の翻訳まで引き受ける。
もちろん、堺の能力あればこその稼業であったが、この会社の経営が、大逆事件で四散した多くの同志に生計の道を与え、倒れかけた運動を立て直す手がかりをつくった。
まさに、『共に人を医し人を育することを謀るべ』く生まれた人である。
現代のまがりなりにも続く民主主義の根底には、大正から昭和にかけてのデモクラシーを求める闘いの功績がある。あの時代の記憶があったからこそ、日本という国は、暗く非民主的な戦争の時代が終わってのち、いち早く民主主義国家としての復興をなし得たといえる。
堺利彦は、現代日本民主主義にとっても恩人であり、立役者なのである。
堺が入獄中、獄中から妻へあてた手紙の一文が本書にある。
『人を信ずれば友を得、人を疑へば敵を作る』
堺の生きざまを象徴する言葉と思う。
そして、これは、本人のイオロギーなど越えて、広く人々が学び習うべき言葉なのではないか。