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記憶/物語
著者 岡真理著
或る出来事-しかも,暴力的な-体験を言葉で語ることは果たして可能だろうか.もし不可能なら,その者の死とともにその出来事は,起こらなかったものとして歴史の闇に葬られてしまうだろう.出来事の記憶が,人間の死を越えて生き延びるために,それは語られねばならない.だが,誰が,どのように語り得るのだろうか.
記憶/物語
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記憶/物語
2001/02/22 01:12
身体に根ざす物語・翻訳可能な小説
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は、物語が話者に身体化された母語で語られるのに対して、小説の言語は学校教育で修得された書き言葉という「別の言語」なのであって、小説とは「言語を異にする読者」によって読まれるもの(翻訳可能なもの)であると述べている。
《小説は,小説という虚構の空間に〈世界〉を構築する.エドワード・サイードは,なぜ,イスラーム世界で「小説」という文学形式が誕生しなかったかと自問し,それについて自らこう答えている.イスラーム教徒にとって,世界の創造とは神のみに帰属する行為であり,被造物である人間が,神が創造した世界とは別の世界を創造/想像することは,「ビドゥア」(bid'a イスラームから外れた行い)と考えられたのだ,と.》
岡氏は続けて、小説は近代によって可能となったのだが、同時に近代という時代それ自体が小説的な語りを要請したという。
──身体に根ざす物語。物語(観念)の無意識(再現不可能なもの)を虚構の空間のうちに表現する(翻訳可能なものとする、というより翻訳「のみ」可能なものとする)小説の働き(自動翻訳機械もしくは時間製造機としての精神による、音楽にも似た働き?)。あるいは、奴隷の哲学によって開示されたもの(たとえば魂)をめぐる思想、端的にいって植民地の思想としての歴史哲学?
《植民地主義の侵略によって,祖国にいながらにして,自分たちが帰属するはずの大地から疎外されていくという不条理,近代という時代が,そこに生きる人間たちにもたらすトラウマ(精神的外傷)──その不条理さゆえに言葉で名づけ,「経験」として飼い慣らし,過去に放り込むことのできない〈出来事〉の暴力,そうした,言葉では語ることのできない体験,〈出来事〉を,物語として語るという時代の要請を,小説は自らの身に引き受けたのではないだろうか.言いかえれば,小説の語りには,そうした出来事の不条理な分有の可能性が賭けられているのではないだろうか.
だが,それは,言葉では語りえないものが,小説であればにわかに,言葉で語ることができるようになるなどということではない.むしろ,ここでわたしが示唆したいのはそれとは反対のことである.〈出来事〉というものが本質的にはらみもっている再現することの不可能性,それをいかにしてか語ることによって,小説はそこに,言葉では再現することのできない〈現実〉があることを,言いかえれば〈出来事〉それ自体の在処を,指し示すのではないか.言葉によって,もし,すべてが説明されうるのなら,小説なるものが書かれなければならない致命的な必要もないだろう.》
記憶/物語
2022/08/12 10:39
これは酷い
2人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ますみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
読みました。しらけてて面白くなかったです。スピルバーグが情けないように言われてる気がします。国語の教師をしている私から言わせてもらうと、坂口安吾の方がいいです。なぜなら私は岡真理が嫌いだから。なんなんですか。虚構のリアリズムというのは。造語を作らないでもらえますか?なんだろう、嘘つくのやめてもらっていいですか?私は戦争を経験しました。だから弁当箱を筆箱にしてます。バカにしないで下さい。冒頭30分?なんでそこだけ良いって言うんですか!全部いいでしょ!あと、恐竜はフェイクだ!と主張していますけど、フェイクって何ですか?私は英語ができないので意味知りません。恐竜はいます。絶対います。何がフェイクやねん。フィクションとノンフィクションを対比してたけど、気に食わないです。以上。
記憶/物語
2001/12/08 20:53
歴史修正主義に抗して
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Jane - この投稿者のレビュー一覧を見る
ホロコーストを生き延びたユダヤ人、従軍慰安婦の経験をもつ韓国人女性、そして現在も生まれるパレスチナの難民。いずれも暴力的な出来事の記憶を持つ者である。彼らの語りは、即ち歴史の証言である。しかし、サバルタン化した自己は過去の体験を語り得るのか。惨殺の光景の記憶を持つ者は、その記憶の暴力性ゆえに沈黙を守ろうとする。また、出来事の当事者でない者はどうだろうか。彼らが当事者に代わって忠実な再現を行うことは、記憶が他者に分有されることを必ずしも意味しないだろう。どうすれば忘却と修正から逃れ、歴史を語り続けていくことが可能か。表象の不可能性と可能性をめぐって、本書の論考は進められる。著者は大阪女子大学人文社会学部教員、岡真理である。